バーガー・タピオカ・ショーロンポー

 飛んできた一羽のカモメが、黒い尾羽をたたみ、柵の上にとまって朝の光を浴びている。
 東口のマクドナルドのテラス席で正面を流れる帷子川を眺めながら、エッグマックマフィンをかじり、百円のホットコーヒーを口に含む。
 いい気分だ。この一日は天から降って湧いたものではなく、面倒な任務を片付けて勝ち取った休暇だった。
 《暗殺王事件》から一年が経った先月、俺の部隊にとある密輸組織の殲滅命令が下った。横浜港の周辺を最近うろちょろし始めた華僑の連中で、用心深く潜伏先を変えながら逃げ回っていた。
 俺と部下たちは、そいつらのアジトを襲撃して逃げ遅れた奴を捕まえて拷問して次のアジトの場所を聞き出して、また襲撃してそこでも逃げ遅れた奴を捕まえて拷問して…という終わらないオリエンテーリングを繰り返していた。
 事前情報では特に後ろ盾も持たない小所帯だという話だったのに、そろそろ全員殺ったんじゃねえかと思っても、また次のアジトが出てくる。逃げながら器用に人と組織を拡大しているらしかった。
 こういうとき、クソ太宰を引っ張り出せたら三秒で最短ルートを指し示してくれるのだが、あいつはあいつで別の任務でしばらくポートマフィアの拠点に顔を出してもいなかった。何やら身分を詐称して、どこぞの組織に潜入しているらしい。見つかってくたばっていたらいいんだが。
 俺は、部下たちに一旦寝ろと指示をして、自分も拠点の仮眠室で五時間ほどぶっ通しで寝た。捕虜にした奴が次のアジトの場所を吐いたら、作戦もそこそこに突撃し、またそこで捕虜を連れ帰って…ということを続けていたから、みんなほとんど不眠不休だったのだ。
 睡眠の力というのは本当に侮れないもんで、そうしたら目が覚めるなり頭の中に一つの考えが閃いた。
 次の潜伏先を考えるのではなく、なぜ潜伏先を次々変えるのかを考えたら、このオリエンテーリングの各ポイントに置き去られた奴等は逃げ遅れたのではなく自分たちのリーダーを逃がすためにわざと囮として残り、時間稼ぎをしていたのだ。そうだと仮定すれば、彼らが次のアジトを白状するまでに要した時間内で逃亡可能な範囲にある場所を片っ端から洗えばいい。
 こんな単純なことに気が付くまで随分時間を浪費してしまったが、幸いこちらの部隊に損害は出ていないし、リーダーの潜伏先に隠れていた残党もまとめて一掃できたので、殲滅任務は成功したと言っていいだろう。
 リーダーの身柄を拘束して姐さんの拷問班に引き渡し、報告書を出したのが朝の六時。
 シャワー室で部下の一人が「中原さん、あいつらの組織の名前聞きました? リーダーが持ってたハンコみたいなやつに刻印されてて、それがBTSっていうんですよウケません?」と完全に徹夜&任務達成ハイの目で絡んできたのを「そりゃあ面白えなあ。帰って寝ろ」とあしらって、汗と火薬の匂いをシャワーで流した。
 拠点に置いていた私服に着替えて横浜駅へ向かい、このまま自分の部屋へ帰って寝ようかどうしようか、と考えながら、とりあえず何か腹に入れようとマクドナルドに立ち寄って、現在時刻は七時半。
 久しぶりの休みだし、変に目も冴えていて、なんとなくこのまま帰るのはもったいないような気分だった。帰ってベッドに倒れたら最後、今日一日寝て過ごすだけになることは間違いなく、それならいっそ体力が空っぽになるまで遊び倒してから寝るのもいいと思った。
 スマホの液晶が着信を知らせた。太宰だ。無視。
「こっちの仕事は片付いたし、今更用はねえっつの……」
 海風になでられて少しぬるくなったコーヒーを飲み干し、紙製のカップを指でぺこぽことへこませながら、今日をどんなふうに過ごそうかと考える。
 何をしよう? こんな明るい時間からする遊びなんて、マフィアに入ってからはほとんど縁がない。ツーリングかゲーセンくらいだが、疲れたらすぐ帰って自分の部屋で寝たいから遠出はしたくないし、ゲームという気分でもない。かといって横浜近辺で今更見たいものなんてないしな。
 ……ああ、そうだ。
 俺は手の中でくしゃくしゃに丸まったマフィンの包み紙に目を落とす。
 食べ歩きというやつをしてみようか?
 俺は今まで、食事という行為そのものを悠長に楽しんだことはない気がする。
 一番古い記憶で口にした食べ物は、擂鉢街で――あの一帯を『擂鉢』にしたのは俺なので、そう呼ばれ出す以前の名もなき貧民街であったが――そこを彷徨っていたとき、《羊》に拾われて分け与えられた白いパンだ。
 うまいとかまずいとか考える余裕はなかった。口の中で噛んで飲み込むだけで体の内部が熱を帯び、汗が噴き出し、食べ終わる頃には息もぜえぜえ切れていた始末で、「すごくつかれる」と思った。あのときの自分は、食べるということがどういう行為かも知らない状態で外の世界へ放り出されて、ほとんど本能だけで歩いていたから、体がひどく消耗していたのだろう。
 拾ってやった恩を忘れるなよ、と白瀬はよく俺に言ってきたが、あそこで何も食べないままでいたら、俺は死ぬか、俺自身の意識を手放し異能を暴走させて、死ぬよりもっとひどいことになっていた。それを「恩」と表現するのが適切なのかは分からない。けれど、誰に言われずとも、俺はそのときの出来事と初めてパンを噛んだ感触を忘れることはないだろう。
 そして俺は重力操作の異能力を揮い、恩人に危害を及ぼす連中を退けているうち、いつしか王と呼ばれ始めた。
 《羊》は大人と取引をしない。だから生きていくための手段は常に盗みだった。ホテルの食糧庫や貨物船に忍び込み、食べ物と酒を盗んだ。盗みの最中はもちろん、隠れ家に戻って彼らと一緒に戦利品にありついているときも、俺は一人でいるとき以外はいつも周囲を警戒していたから、あれは美味かったなあと思い出せるようなものはない。
 ポートマフィアに加わってからも、たいてい移動中に適当に済ませている。見たことも聞いたこともないようなすごいメシを食う場所に連れて行ってもらえることもあるのだが、そういうものを食うときには決まってすごい数のお作法がついてくるので、隣にいる姐さんの目が怖くて何を食っても食った気がしない。
 そうだ。お行儀悪く食えるうまいもんが食いたい。
 そうと決まれば屋台だ。中華街へ行こう。
「おぉ~~い、ちゅうやぁ~~」
 また太宰だ。しつけえな。
「ちゅうやぁ~~たすけてぇ~~」
 うるせえから一回出て切るか、とさっきテーブルの上に裏返して置いたスマホを手に取ると、誰からも着信は来ていなかった。俺ははたと気が付く。電話に出る前にアイツの声が聴こえた。すぐ近くで。
 顔を上げて周囲を見回すと、下流から東京湾へ合流する流れを跨ぐ大橋の欄干にしがみついて、みっともなく助けを求めている見慣れた黒外套の少年がいた。
「太宰? 何やってんだあいつ……」
 自分が座っているテラス席から橋までの距離は三十メートルほどあり、じっと目を凝らすと、太宰の背後にもう一人男が立っている。太宰の体をぐいぐいと後方に引っ張るような動作をしている。二人の側に停車している黒のミニバンの後部座席側のドアが開いていて、状況から察するに、相棒が拉致されようとしているところだった。
「無視……はできねえよなぁ。クソッ!」
 俺は手の中で握り潰した紙カップを球状に圧縮し、太宰を引っ張っている男の肩を目がけ、重力を乗せて弾いた。ぐわっ、と蛙の鳴くような悲鳴をあげてよろめいたそいつの後ろで、助手席からもう一人新手が外へ出て来る。
 女だ。上等な着物を纏った小柄な女。
 なんとなく、あの女にこちらから攻撃するのはまずいと勘が告げていた。俺のこういう勘はよく当たる。
 さっきまでコーヒーとハンバーガーを載せていたプラスチックトレーを片手で圧縮しながら走り出す。削りすぎた鉛筆のような形に変形したそれを槍投げの要領でぶん投げ、そいつらが乗ってきたらしい黒のアルファードのタイヤに突き刺した。
「いい判断だ」
 と、言われた気がした。聞こえたわけではなかったが、太宰がほくそ笑んでいる気配だけでもう超むかついた。
 あと5メートル、跳べば届くという距離まで接近したと思ったら、先に跳んだのは太宰の方だった。かん、と欄干に飛び乗り、着物の女にひらりと手を振って背中から川へ身を投げる。
「あ、んのクソボケカス……ッ!」
 ちょうど観光客を乗せた海上連絡船のシーバスが船尾から飛沫を上げて目の前の停泊場を出航したところだった。俺はフェンスを越えてその船の屋根に飛び移り、橋から落っこちて来た太宰を受け止めた。重力操作の効かない二人分の体重で、堅い金属板にしたたか背中を打つ。
「痛ってえ! あ~あああマジでむかつく! 手前は本当にいつもいつも厄介事ばっかり起こしやがって!」
「中也」
「なんだよ!」
 促されるまま太宰の視線を追うと、橋の反対側に追って来た女が両手で銃を握り、俺たちに狙いを定めていた。
 銃の扱いに手慣れた人間であれば、俺が目を向ける前にもう撃っていたはずだ。下手な鉄砲は一発では的に当たらない。ここに乗り合わせている無関係の民間人に当たってしまうかもしれない。
 俺は太宰の黒外套の釦を一つ引きちぎり、女の構えていた銃をそれで弾き飛ばした。丸腰になった女が唖然とした様子で遠ざかってゆく俺たちを見送る。
「それ、便利だねえ。でも弾丸にするなら私の服の釦じゃなくてもよかったんじゃない?」
「手前が持ち込んだトラブルだろうが。なんで手前のために俺の私服を傷物にしねえといけねえんだよ」
「これ、森さんから貰った外套なんだけど?」
「あ」
 そういえばそういう話を聞いたことがあったな、と思い出して、俺は首筋にすうっと冷たい汗をかく。太宰治がいつも身に着けている黒外套は彼を組織に入れた森鴎外首領から下賜されたものであると。
「助けたんだから、黙っとけよな」
「いいよ。君が代わりの釦を付けてくれるんなら」
「なんで俺が……分かったよ。とりあえず、どういう状況か聞かせろ」
「もう少しここから離れよう。話はそれから」
 ぽんぽん、と自分たちが座っている船の屋根を叩いて、太宰は微笑んだ。意図を理解して俺は溜息をこぼす。
「振り落とされんなよ」
「もっとアトラクションのおねえさんみたいに言って」
「しっかりつかまってねーっ☆」
 重力操作で軽くなった船体がエンジンの推進力でぐあんと一度後ろに傾き、真っ白な波飛沫を上げて着水した。
 競艇ボートさながらのスピードであっという間に市場の横を通り過ぎ、みなとみらい橋の下をくぐって、東京湾へ出た。遊園地の観覧車がみるみる間近に迫ってゆく。
 乗客たちが異常なスピードに動揺し騒いでいる声が天井一枚隔てて聴こえてきた。これじゃゆっくり景色を楽しむ間もないだろう。ちょっと悪い気もするが、これが横浜の日常だ。諦めてもらう他ない。
「港で降りよう。人の多い場所の方が、追跡を撒きやすい」
「――人の多い場所って例えば?」
「中華街」
「げっ……」
 訊ねた時点で嫌な予感はしていた。
 まさに俺が今日という貴重な休日を過ごそうと思っていた場所である。なんだってこいつは俺のやることなすこと邪魔しに来やがるんだ。
「手前……わざとやってんじゃねえだろうな……」
「何のこと? ついでに何か食べようよ。ずっとオシゴトしてたからお腹空いちゃった」
 俺はもう食ったんだよ、と言っても、大丈夫、入る入る、と適当な返事をして、太宰はジェットコースターのような速度で進む船の上でものんびり胡坐をかいていた。
 潮の匂いを含んだ風がびゅうびゅう吹いて、いつも太宰の顔を半分隠している前髪を猫がじゃれるみたいに掬い上げている。右目は常時包帯で隠されているのだが、それでも青空の下にひたいを晒して気持ちよさそうに風に吹かれている表情が珍しくて、俺はつい盗み見ていた。
「久しぶりだね」
「あ? …ああ、船か? 確かにあのとき以来だな」
 《暗殺王事件》の後、太宰と二人で英国政府の調査団を歓待するために横浜港から客船に乗った。あれはこの船とは比較にならない大きさであったが。
「違うよ。手こずってたでしょ、最近のシゴト」
「うるせえな。関係ねえだろ手前には」
 それにもう片付けたぜ、と、付け加えた。
 かったるい仕事だったから、やっと終わった解放感でつい言いたくなってしまったのだ。てっきり「なに得意げになってるの? あの程度の任務で」とか嫌味を返してくると思ったが、太宰は意外にも「そう。よかったね」とだけ言って、やわらかく微笑んだ。
 シーバスは定刻よりずっと早く山下公園に到着し、俺たちはそこから歩いて中華街へ向かった。
 朝陽門の柱の色は濡れたコバルトブルー。柱の間を通ると、細い路地が斜めに枝分かれしている。太宰は迷いない足取りで先に歩き出し、俺はその後ろを歩いた。
「ほら中也、いちご飴だって。食べる?」
「いらねえ」
「中也って甘いの苦手だよね。頭使わないから脳が糖分を必要としないのかな」
「うるせえ」
「なんで後ろを歩いてるの? 今はプライベートなのに、私を護衛してくれてるとか? 感心感心」
「そんなんじゃねえ! っつか、仕事でも命令じゃなきゃ幹部でもねえ手前の護衛なんかしねえよ」
「そうなのだよねえ。あーあ、中也が私の部隊の所属なら、私に傅く中也を毎日眺められるのに。私が幹部になったらご褒美に君の配置変えしてもらおうかな」
「俺が先に幹部になって手前をシベリアに飛ばす」
「凍死って苦しいかなあ?」
 くだらない言い合いをしている間に、自然と太宰の隣を歩く歩調になっていた。それこそ仕事でもないのに休日まで一緒に過ごしているみたいで嫌すぎるのだが、さっきの話の続きを聞く場所の当ては太宰が知っているようだから前を歩いて先導することはできないし、後ろをくっついて歩くのも癪だし、そうなると隣しか選択肢がない。
「私の上をふわふわ飛んでついてきてもいいのだよ?」
 妖精さんみたいに。と言って、太宰はいつの間に買っていたタピオカミルクティーを飲んでいた。
「あほか。観光客に中華街のパフォーマンスだと思われるわ」
「横浜の外から来た人は、異能力なんてめったに見ることないものねえ」
「……なあ、それも甘いやつ?」
「寧ろこの街が異常なのか――え? 飲んだことないの?」
 ちょっと前までそこら中で売ってたのに。と茶化すわけでもなく純粋なトーンで聞かれたので、「おう」とだけ返すと、太宰はぱちぱちと長い睫毛をしばたたかせ、急に小さくなった声で「…飲む?」と訊ねた。
 赤い看板に『占』という文字が大きく掲げられた店の前で太宰は立ち止まり、飲み物の入ったカップを差し出した。俺は差し出された太いストローをじっと一秒間睨み、カップは太宰の手に持たせたまま、横髪をかき分けて耳に掛け、口をあけてストローを咥えた。ひゅ、となぜか太宰まで息を吸い込んだ音が聴こえた気がした。
「…っ、ごほっ、げほっ! おえ、なんか変なとこ入った」
「そんな勢いよく吸うからでしょ……」
 甘いミルクティーの味を感じた後に、すぽすぽすぽっと大粒のなんかモチモチしたものが飛び込んできて、喉に詰まってむせてしまった。
「これがタピオカ? 味しなくね?」
「炭水化物と糖分いっぺんに摂れて楽だから私割と、好き。これ飲んだらラーメン一杯分くらいのカロリーかな」
「マジかよ。だったらラーメン食うわ」
「ラーメンは歩きながら食べられないでしょ」
「手前はこんなもんばっか食ってて、よく太らねえな」
「いつも適当に済ませてるし、そもそも食べないことの方が多いから」
 あんまり興味もないし、と太宰が呟いた言葉に被せ気味に俺も、と返した。
「食ったり飲んだりすることだけのために何時間も何十万も使うやつらの気持ちがわっかんねえんだよな」
 そう言いながら、前に三人並んでいた露店で焼き小籠包の六個入りを買って戻ってくると、楽しんでるじゃない、と呆れ顔で俺の手の中のそれを覗き込んだ。
「わかんねえから、どんなもんかやってみるんだよ」
「仮説を立てずに動くところが君らしいね」
「あっ、おい勝手に食うな」
「けちけちしないの」
 横から掠め取った割り箸を使って、太宰が小籠包を一つ自分の口に放り込む。もごもごと咀嚼しながら「うーん、まあまあ普通」と感想を言った。
 おかげで食べる前から期待値が大幅に下がったそれを俺も一つ口に放り込む。すると、薄皮を歯で噛んだ瞬間にじゅわっと熱い肉汁が飛び出して、思わず手で口を押さえて悶絶した。隣で太宰がにやにやと笑って見ている。
「あーあ。先に中の汁を吸ってから食べるんだよ」
 熱いスープを無理くり飲み込み、口を開けて冷ましながらなんとか一つ目を食べ終わる。そうしている間に、太宰はひょいひょいと二つおかわりしていった。手に持っていた紙皿があっという間に軽くなる。
「てっ…めえはなんで普通に食ってんだよ」
「んー? あ、ちょっと待ってて」
 タピオカミルクティーをかき氷の入ったカップに持ち替えて戻って来た太宰が、ハイどうぞ、とたっぷり真っ赤なシロップのかかったそれを俺に差し出す。
「また甘いもんかよ」
 そう文句を返しつつ、火傷した舌に冷たい氷菓子は正直魅力的だったので、長いスプーンで山盛り掬って頬張った。シロップには大粒の苺の果肉が溶け込んでいて、思った以上に甘かったけれど、口の中の粘膜がひんやりと冷えていく感触が心地よかった。
「昔から、死ねそうな薬とか茸とか葉っぱとか見つけたら手あたり次第にやってTRY!してきたんだけど」
「仮説を立ててから動く云々はどこいったんだよ」
「食べたら死ねるかも、って仮説のもとでだよ」
 食いかけのかき氷を返すと、太宰はそれをまた何の表情の変化も見せず口に運びながら歩き出す。
「そういうことをやってたら、舌が変になっちゃって」
「へん?」
「火傷しては治ってを繰り返したからかな。腫れちゃって。ちょっとざらざらしているんだよね」
「へえーー……」
 そんなことを言われたら、どうしても太宰の唇に目がいってしまう。俺の視線に応えるように、んべっと突き出された奴の舌は、鮮やかな赤に染まっていた。
「かき氷の色じゃねえかよ」
「近くで見ないとわかんないかもね。まあとにかくさ、舌が熱いのや冷たいのや痛いのやに慣れちゃって、あんまり分かんないんだよね、もう」
「……それじゃ、味もわかんねえだろ」
「味がするな~っていうのはわかるよ」
 細い路地を曲がると、風に乗って線香の香りが鼻をつく。頭を上げると、真っ青な空によく映える極彩色の建造物が現れた。中華街のシンボルである関帝廟だ。
「何? お詣りでもしてく?」
「しねえよ。中国の神様に知り合いはいねえ」
「よく知らない奴でも助けてくれるのが神様ってものじゃない?」
「神様に会ったことでもあんのかよ」
「どうかなあ」
 関帝廟を通り過ぎて少し歩いたところで、太宰はやっと足を止めた。「ここだよ」と言って店の扉を指差す。
 良く磨かれたガラス張りの扉。外壁は一面金箔を貼り付けたかのようにぎらぎらと光っており、受付にホテルマンと見紛うような姿勢正しい男が立ってこちらを窺っている。どう見ても高級店だ。
「おい。俺は今日は露店で食べ歩きしたい気分なんだよ。話をするだけなら、その辺のカフェで」
「さっき歩きながらニラ饅頭も買ってたじゃない。個室にするからお行儀を気にしなくていいし、付き合ってもらうお礼に支払いは全部私が持ってあげる」
「まじか」
「食ったり飲んだりすることだけのために何十万も使うやつの気持ちを私に分からせてみ給えよ」
「言ったな。撤回はなしだぜ」
 俄然食欲がわいてきた。最近、同僚が「他人の金で食う焼肉ってなんであんなに美味いんですかねー」と話していたのを聞いたときはぴんときていなかったのだが、太宰の金で食う高級料理は確かに美味そうである。
「いらっしゃいませ。ご予約はされていませんよね?」
 店に入ると、受付の男が笑顔は崩さずに、しかし冷たい声音でそう言って俺たちに近寄って来た。入口で追い返そうという感情が見え見えの態度だ。
 十七の子供二人、しかも俺はカジュアルな普段着で来たから、とてもこの店のお客には見えなかったのだろう。「個室を使いたいな。予約はこれで」
 太宰はおもむろに外套のポケットから金色に光る五センチ四方の物体を取り出した。
 表面に蛇の彫刻が彫られた黄金の印章。それを見た男は急に顔色を変え、自分の掌に載せてしばらく注意深く眺めた後、太宰の手にそれを返し、「……大変失礼しました」と喉から絞り出すような声で言った。
 通された部屋には、食事をするための円卓を中心に、金銀螺鈿細工が施された箪笥や鏡台がインテリアとして飾られていた。木蓮の花の形をしたシャンデリアが淡い橙色の光でそれらを艶めかしく照らしている。
「まるでマフィアが会合に使う店だな」
「それ、冗句? 私たちが来た目的はひとつだよ」
 食べよっか。
 太宰は受付に預けることを辞退した黒外套を椅子の背に掛けて着席し、メニューの一頁目を開いて円卓の回転盤に載せ、くるりと回した。選べということらしい。
「――俺は、窯焼き北京ダック。フカヒレと蟹肉のスープ。あわびの姿煮。大海老のマヨネーズ風味。骨付きあひる肉の炙り焼き。あと、コーラ」
 俺は太宰の向かいにどっかり腰を降ろし、とりあえず値段の高いやつを片っ端から注文した。
「わかりやすい奴。好きなものを食べなよ。私、紹興酒と上海蟹の姿蒸しと牛タンと春菊のサラダと揚げ茄子の山椒風味と胡麻団子と杏仁豆腐。食後に烏龍茶」
「けっ…こう食べるのな」
「食べるって決めた日はいっぱい食べるよ」
 私のこと何だと思ってるのさ、と言って太宰がメニューを閉じて卓に置くと、注文を取りに来たボーイはうやうやしく一礼してから退室した。
 普通に色々注文するというだけでも驚いたのに、ドアが閉まったのとほぼ同時に太宰が白いシャツの袖を大雑把に捲り出したので、俺はあっけに取られてしまった。
「手前、組織内の一部で『幽鬼』って呼ばれてるらしいぜ」
「知ってるけど」
「幽鬼がそんな腕捲りして中華食って胡麻団子と杏仁豆腐で締めてたらイメージダウンだろ。いや、イメージアップなのか? この場合」
「中也はどう思うの?」
「あ? 俺? 知らねえよ手前の好きに食えばいいだろ」
「なんだ。だったらいいじゃない」
 俺のコーラと一緒に陶器の甕が運ばれてきた。ボーイが柄杓で琥珀色の液体を掬い、小さなグラスに注ぐ。太宰は円卓を回して二人分のグラスの片方を寄越した。
「何だよ、いらねえけど」
「あれえ? 中也飲めないんだっけ」
 そっかそっか、お子様には刺激が強いよねえ、とわざとらしく煽ってくる。煽られていると分かっているのに上手にかわせない俺は、小さなグラスの中身をかぱっと一口で飲み干した。
 酒が入った瞬間、喉が燃え上がるようにひりついたが、なんてことない顔を作ってグラスを置く。
「どっ、てことねえな」
「いい飲みっぷりだ。どんどんいこう」
 太宰が次々注いで寄越してくる紹興酒は、コーラと交互に飲んだら焦がし砂糖みたいな甘い香りが鼻腔に広がって、運ばれてきた肉の味まで甘く感じた。
 太宰は俺が注文したスープを気に入ってそればかり飲んでいたかと思いきや、蒸し器に入った上海蟹が登場すると大振りの鋏を持って黙々と蟹の解体を始めた。
 ぱちん、ぱちん。太宰の手が十本の脚と爪をひとつずつ順番に胴体から切り離す。すんなり伸びた細い脚の両端を切って、ばらばらになった爪をフォークのように使って脚に詰まった身を押し出す。そうしてやっと出て来た白い身を黒酢に浸け、口に運んだ。
「……好きなのか?」
 蟹の汁で汚れた指を時々しゃぶりながらもう一本、もう一本と夢中で解体していく動作を見ていると、なんでだかこっちの食欲まで盛り上がる。
 人がうまそうに食ってるのを見ていると自分の飯もおいしく感じるとか、そういうあれが大嫌いなこいつ相手でも発動しているのだろうか。
「え? あ、蟹? そうだね。昔、蟹を食べたら頭が少し軽くなったような気がして……脳の神経伝達物質に使われるグルタミン酸が多く含まれているからかなと思って、同じくらい入ってる味の素を直飲みしたらそれも効いてさ」
「頭いてえなら普通に薬飲めよ」
「だから、市販薬なんかもう殆ど効かないんだってば。毒に近いような…昏睡させるくらい強い薬なら別だけどね」
 皿の上にぽつんと残されていた胴体を太宰の細長い指がそっと持ち上げた。赤い甲羅と腹の境目に親指を二本差し込み、ゆっくり割り開いてゆく。めりめりめりばきばきばきと音を立ててカラダが二つに分離させられていく光景を無表情に眺めながら俺はでかいエビマヨを食う。
 いや、ひょっとしたらいま変な顔してるかもと謎に焦る気持ちに襲われ、自ら柄杓を掴んで紹興酒を注ぎ足した。
「森さんに会ってから、たまたま頭痛に関する文献を読むことがあって、それによると、グルタミン酸の過剰摂取は逆に頭痛を誘発すると書いてあった」
「だめじゃねえか」
「私はたぶん、人より多くのことを記憶してしまうから、摂取した分は余さず使っていて、摂りすぎなんてことにはならないのかも。なぁんて、これは何の根拠もない妄想だけどね。そういうわけで……今でも蟹か味の素が欲しくなるときがあるけれど、おまじないみたいなものだよ」
「今でもそんなしょっちゅう頭いてえの?」
「割と。考えることが多くてね」
 蟹の腹の中にあった何の部位なのだかよく分からないごちゃごちゃした部分をぶちぶちとちぎって取り去っていくその手はもう手首までしっとり濡れていて、ああこれを見越して袖を捲っていたのかと俺は思った。
「考えて、今日のあのザマだったってか」
「あれは車から中也が見えたから」
「はあ?」
「それでネタばらしを早めたら、当然だけどめちゃめちゃ怒らせちゃって。今回は例の密輸組織を潰すために必要なものを奪いに行っただけで、髙瀬會と全面抗争したいわけじゃなかったから、中也があのお嬢様を傷つけないでくれて良かったよ。相変わらず、野性の勘が働くよね」
 ワンちゃんえらいえらい、と言いながら、太宰はスプーンで腹に詰まった蟹味噌をほじり出し、まるでプリンでも食べているみたいにぱくぱく口に運ぶ。
 胴体の両側に残っていた白い肉もあらかた食べてしまうと、食卓に運ばれていた冷たい茶の入ったボウルで手指を洗い、拭いたおしぼりを丸めて置いた。
 そのボウル、そういう風に使うのか…と俺は内心で動揺していた。綺麗なガラスのボウルに紅茶と薄く切った檸檬まで浮かんでいるもんだから、太宰が先に使って見せなければ、あやうく飲んでしまっていたかもしれない。
「あ、中也。これ手を洗うやつだから」
「知ってるわ」
「そう? それは失礼したね」
 太宰は「はあ。すごくつかれた」と溜息を吐いて椅子に深く寄りかかり、行儀悪く食卓に伸ばした手で胡麻団子をひとつ取ると、目を閉じてもぐもぐ噛み始めた。
「おい、食いながら寝るなよ」
「ねあいお。やあらあ~」
「食ってから喋れ」
「んむんむ……うん。ここんとこあまり寝れていなくて」
「俺もだ。これ食ったら帰って寝る」
 本当は夜まで遊び倒そうと思っていたのに、アルコールを体に入れたせいか、食いすぎて血糖値が上がったのか、瞼がじんじん痺れるような眠気が襲ってきていた。
「つうかよ…例の密輸組織って、俺たちが追ってた華僑の連中のこと言ってんのか? そいつらなら今朝俺の部隊が頭を獲ったぜ」
「知ってるよ。森さんから聞いた。中也が獲ってきたのは頭じゃなくて足だけれどね」
「ああ? あいつは間違いなくリーダーだった。じきに姐さんの拷問部隊が全部吐かせる」
「間違いなくリーダーの男だよ。ただし、彼らは組織が追っていた密輸グループの『足』だ」
 太宰は円卓の上から杏仁豆腐の入ったデザートグラスを取り、代わりに自分の携帯端末を置いてこちらに回す。液晶画面に表示されていたのは一月前の日付の新聞記事だ。

 ■覚醒剤の個人密輸が活発化
 神奈川県警××署は某日、覚醒剤取締法違反の疑いで横浜市××区××町に住む輸入代行業者の男を逮捕した。男は外国人密造グループと共謀して釜山の薬物密造工場から国内に覚醒剤を持ち込んだと供述しており、男の自宅からは覚醒剤十六キログラム、覚醒剤原料三百五キログラムを押収している。

「個人で捌ける量じゃねえな」
「これが本当に個人の副業なら、お小遣いが入る前に棺桶の蓋が開いてる。ポートマフィアか髙瀬會どちらかからのお見送りオプションサービス付き」
「ヤクは向こうのシマのがでけえだろ」
「君の担当じゃないのによく知ってるねえ。そう、ヨコハマ陣地取りゲェムにおける組織の戦況は店が半々、絵と石八割、薬が二割だ」
 知っている。自分は《羊》にいたころ、仲間たちが興味本位でドラッグに手を出そうとしたら、何度も止めてきた。
 《羊》の連帯を壊そうと大人たちが差し出してくるのは決まって金か酒か薬だった。薬をちらつかせてくる人間の裏には髙瀬會というヤクザがいることも知っていた。
 ポートマフィアはその点においてだけは、警戒対象から外していた。時々、マフィアの縄張りにも盗みに入ったが、そこに保管されているのはたいてい銃器の他は宝石や美術品の類で、安全に売りさばく手段を持たない自分たちには無用の長物であった。
「……首領は、薬で儲ける気はねえのかな」
「あるでしょ。事実二割はうちが握ってる。薬は現金化するのに時間と人手がかかりすぎる。取引相手には闇社会のルールを知らない一般人が少なくないし、だから、警察にあっさり捕まる奴が出てくる。それだけだよ」
「割に合わねえってことか」
 最高幹部の執務室から横浜の街並みを見下ろし、「すべては組織と、この愛すべき街を守るために」と答えた森の横顔を思い出していた。それと同時に、粗悪なドラッグに溺れた哀れな仲間の顔もよぎる。
 ポートマフィアの組織力を惜しみなく投じてドラッグを流通させれば、おそらく横浜は一年も経たず阿片窟と成り果てるだろう。森はそれを喜ばない気がした。
「……なにをあの人に期待してるんだか」
 太宰は俺の思考を読んでいるのか、つまらなそうな表情で頬杖をつきながら円卓を回し、携帯端末を取り返した。デザートを二つとも完食したというのに、またグラスに酒を酌み始めている。同じことを俺がやったら食事の順番がどうのと姐さんからしこたま怒られるだろう。
「なに。なんで笑ってるの、気持ち悪い」
「いや。手前と飯食うなんて御免だと思ってたが、そう悪くもねえなと思った。なんつうか――楽だ」
「は…………あ、そう」
 太宰治らしくもない捻りの無い応答が返ってきて、益々愉快な気分になってきた俺は、目の前の男と張り合うようにグラスを空け、北京ダックの烤鴨餅に他の皿に乗っていた海老やら蟹やら家鴨やらを巻いて勝手にアレンジした何かを生み出しては卓を回して太宰に試食させた。
 太宰も機嫌が良いのか一口食べる度に「蟹が入ってる。百点」とか「なんかの味がする。百五十点」とか「えーと、あったかい、千点」とか雑なコメントを返してくれるものだから、点数がおかしいだろと言って俺も笑った。
 食後に太宰が注文していた烏龍茶が運ばれてきたあたりで、おやおやちょっとおかしいぞと気づきだした。
「だざぁい…おれ、ちょっと酔ったかもしんねえ」
「え? そんなに飲んだ?」
「手前のその…茶碗、四つに見える」
「二人分だから中国茶はこれでいいんだよ。うーん、確かにいつにも増しておばかになってる。かわいい」
「あー? なんて?」
「なんでもない。これ飲んだら帰ろうか」
「んん……待てよ。結局、朝っぱらから手前を拉致しようとしてたアルファードは何だったんだよ」
「言ったじゃない。髙瀬會の人間だよ。正確にはその傘下の貿易会社の御令嬢と彼女の手下。今回の『頭』だ」
「俺が追っていたのが『足』で、手前が潜り込んでいたその会社が『頭』なら、髙瀬會のシノギをうちが奪いに行ったってことか?」
「結果的にはそうなったけど、発端は逆だ。釜山の密造工場、あそこは元々ポートマフィアの投資で作った場所だったんだけれど、色々問題が多くて、上がってくる物の品質も悪いし、担当していた幹部が見切りをつけて閉めたはずだった。そのとき建物と資材、職を失うことになった現地の人間の後処理を怠ったんだね。知らぬ間に工場は再稼働していて、我々は手間暇かけて構築した密輸ルートをそっくり盗まれてしまった。ぽっと出の華僑の連中に」
 あいつらは囮だったわけか。髙瀬會が直接ポートマフィアに仕掛ければ、全面戦争に発展して、粗悪なドラッグの利益なんて一瞬で消し飛ぶ。あくまでパトロンとして立ち回り、リスクを回避しようとしたのだろう。
「この中華街は面白い所でね。ここで商売をするとき、四つに分けた区域ごとに選ばれている『長』の承認が必要になる。四つなのは、風水の四神にあやかっているのかな。その長は家族と認めた者に金印を授けるんだ」
 ああ。この店に入るときにこいつが出したあれか。
「今頃、姐さんの部隊が吐かせた情報を持って、首領が長に渡りを付けたころだろう。そうでなければ、この区画で商売することを許した髙瀬會(かぞく)の印を盗んだ私に、こんな美味しい食事を出してくれるはずがない」
「へえ……あれが『王手』だったってわけね」
 おもしろくねえな。
 タピオカやら小籠包やらかき氷やらニラ饅頭やら食べ歩いていたあの時間は、首領が交渉を始める刻限にこの店に金印を届け、ポートマフィアが全てを把握し全てにおいて上回っていることを思い知らせるための時間調整だったということではないか。
 べつに腹を立てるようなことではないはずなのに、こいつの行動によって首領の交渉も上手くいったのであれば何の問題もないはずなのに、なんとなくさっきまでの自分のはしゃぎようが急に寒々しく思え、俺は両腕で香箱を組んで食卓に突っ伏した。
「えっ、ちょっと、潰れたの? こんなとこで寝ないでよ。私、チビゴリラを運ぶなんてやだよ」
「うるせえ、はこべ。通りで車ひろうから、そこまで」
「ええ~~。中也ってこんなにお酒に弱かったんだ。そういえば毒物耐性も幼児と同じくらいだって研究所の資料にも書いてあったもんな……」
 めんどくさい、おもい、とぶつぶつ言いながら太宰は俺に肩を貸して引きずるように店を出た。
 淡い橙色の室内灯の下から急に真昼の陽の下に出たので、目が眩しくて、俺は逃げ込むように漢方薬局と煙草屋の間の路地裏に身を滑らせた。タクシー拾うんじゃないの?と訊ねながら、太宰も一緒についてくる。
「……むかつく」
「は? 急に何」
 誰もいない場所に来たら、気が緩んで思っていることが口からぽろぽろ出てくる。
「仕事だったんじゃねえか」
「仕事……え、っと、え? まさかそれで拗ねてるの?」
「拗ねてねえよ!」
 太宰は黒外套から携帯端末を取り出すと、どこかに電話をかけて、すぐに切った。
「車呼んだよ。今日は私、君の部屋に泊まるね」
「はあ? 嫌だよ来んな。自分の部屋に帰れよ」
「だって私、あの御令嬢に銃向けられたし~こわ~い。家まで突き止められてたらどうする? 殺されちゃうかも!」
「願ったりじゃねえか。つか、何したらマフィアの人間と分かってて殺そうとするほど恨まれんだよ。女の敵」
「あれ。嫉妬してくれるの?」
「だれがっ――」
 何かが唇に触れた。
 何かなんてひとつしかなかった。いくら酔いどれているとはいえ、こんなに近くで息がかかれば分かる。
 キスされた、と思った瞬間、体が硬直し、それから全身に毒が回るようにゆっくりと弛緩していった。手紙の封を切るように舌で線を引かれたら、唇までやわらかくなってしまって、勝手にふにゃふにゃ開いてゆく。
「いやがらないってことは、そういうことでいいの?」
「ちがう…おれは酔ってるだけ、で」
「そっか。酔ってるだけなら、後でぜーんぶ忘れるね」
 コンクリートの外壁に押し付けられた背中が服越しでもひんやりと冷たくて、それに反して、頬に添えられた掌と口の中を荒らす舌は焼け付くほどに熱い。太宰のざらざらした分厚い舌が口蓋をくすぐり、歯列をなぞり、奥で縮こまっている俺の舌を容赦なく吸い上げる。
「も……っ、はなせっ……」
 唇を離すと、お互いの吐息が洩れた。見つめ合う。こんなシチュエーションでさえ自分たちは、相手の呼吸だけで何を求めているか読み取ってしまう。
 太宰の瞳は熱に浮かされ潤んでいて、こんな顔で見つめられたらそりゃあ殺したくもなるかもしれない、と震える手で拳銃を構えていた女にすこし同情した。太宰も俺の顔を見て、殺したいと感じているだろうか。
 せっかく離れたのに、気が付けば再び唇を合わせていた。太宰の薄い唇の先の形の良い歯列の先の、真っ赤に濡れた口のなかへ吸い寄せられていく。溢れてくる唾液をじゅっと音をたてて吸われたら、びくんと肩が跳ねた。
「んっ…ふぅ、っは、きも、ち……」
 太宰の舌がどんなふうに「へん」なのか、自分の口の中で直接わからせられるとは思わなかった。自分のものより大きく腫れているのに触れるとやわらかい襞がある。それが口内を撫ぜる度、ぞわぞわと肌が粟立った。
「……ねえ、ちゅうや。部屋にいれてよ。私の釦、付けてくれる約束」
 釦? そんな約束していただろうか。
 ああ、こいつの外套か。と、朝の出来事を頭の中で再生して思い出した。首領から贈られた外套の釦を俺が勝手に引きちぎったことを黙っておく条件に、代わりの釦を付けてくれと、たしかそんな話だった。
 めちゃくちゃ可愛いやつを探して付けてやろうか。それを着て会議に出るこいつを想像すると愉快だ。
「……勝手にしろよ」
 俺は、睡魔と満腹と酩酊と快感で頭の中がふわふわしてもう限界だった。なんでもいいから早く自分の部屋に帰ってベッドにダイブしたい。瞬き一つのうちに部屋に着いていたらいいのに。
「迎えが来たよ」
 そう言って、つうと糸を引きながら離れた男の口の中は苺の果肉みたいに真っ赤だった。

    * * *

「そんなこともあったよねえ……」
 リビングのカウチソファに腰を降ろし、テレビ画面に流れている中華街の風景を眺めながら、中也と初めて食事を楽しんだ日のことを思い返していた。
 隣に座っている男に視線を移すと、彼は名古屋出張の帰りに買って来たという手羽先を両手で掴んでかぶりついていた。手指は勿論、口から顎までべたべたに汚している。
「外では見せられないねえ、そんな姿」
「だから家で食ってんだろ。手前こそ、ういろうで酒を飲んでんじゃねえよ、後で茶を淹れてやるっつったろ」
「だって、食べたいときに食べたいんだもの」
 仕事で名古屋へ行ったからって、手羽先とういろうというド定番の土産物を買って来て、それを嬉しそうに食べているマフィア幹部がいていいのだろうか。しかも手羽先は別々の店で二種類買って来ている。
 ローテーブルの上には、その土産物の他に、胡瓜ともろみ味噌の載った皿、削り節をかけた寄せ豆腐、レタス炒飯が並べられている。出張から帰って来た中也をいつも通り彼の部屋に不法侵入して出迎えたら、いつも通り嫌な顔をして、何にもねえぞ、と言いつつあっという間に作ってしまったものだった。中也に言わせればこれは料理のうちに入らないそうだが、家で自分のために料理をしたことなどない私にはその判断基準は分からない。
 箸で手羽先を一本つまむと、中也が一度自分の手を拭いて、瓶ビールを私の空いたグラスに注いだ。
「んー、確かにこれはビールかも」
 日本酒を飲む手を休め、注がれたビールに口を付ける。
 中也は特に返事せず、また食べるのを再開した。芸能人が中華街の名店を紹介するバラエティ番組を眺めながら、不意にふっと口元を緩める。
「あんなおっかねえ店でよく飯なんか食えるよな」
 視線を移すと、画面に映っていたのは、いつぞや中也と二人で食事した中華料理店だった。中華街における闇取引の中継地であり、関所のような役割の場所だ。
「あそこの蟹は美味しかったなあ」
「味の素なら台所にあるぜ」
「たまには外に食べに行く? 私、明日休みだよ」
「俺は仕事」
「つれないねえ。例のギャングの殲滅、まだ終わってないの? あの規模に時間かけすぎでしょ」
「奇襲の当てが連続で外れちまって……って、毎度毎度マフィアの情報を盗むなっつうの。俺が流してると疑われたらどうしてくれんだ。もし外でその話をしたらパフォーマンスで一回殺すからな」
「え? そのパフォーマンス、蘇生トリックは用意されてる?」
「種も仕掛けも無えから面白いんだろ」
「種と仕掛けがあるから芸なんでしょ」
 十七歳のとき、中也と中華街をぶらぶら歩いて、目に入ったものを適当に買い食いし、誰にも邪魔されない場所で食事をした。それだけのことが楽しかった。
 あれから中也は姐さんから教えられた作法を律儀に守り、徐々にそれを当たり前に振る舞えるようになっていった。高級品を好むようになったのもそのころからだ。
 元々は食べるという行為にあまり興味がないと言った私に被せ気味に「俺も」と言っていたのに、二十二歳で再会してからは、いきなり炭水化物を頼むなとか甘味の後に唐揚げって何だとか食べる順番にいちいちケチをつけてくるし、酒に滅法弱いくせに高いワインをコレクションし出して、随分しゃらくさい奴になったなあと辟易していた。
 それが、嫌がらせの一環で中也のセーフハウスに突撃してみたら、家ではビールと炒飯と肉を同時に流し込んでいて順番なんて知りませんという態度だし、テーブルに出ていた料理は中也が自分で作ったと言うしで、初めて見た時は面食らった。私がいない四年の間に、料理をするようになったらしい。一人で食べるときはマックか富士そばか王将のローテーションで済ませている奴だったのに。
「あ、BTS」
昔の中也に思いを馳せながらビールを飲んでいたら、テレビCMの途中で、韓国の男性アイドルグループの新曲プロモーション映像が流れ、私が彼らのグループ名を口に出すと、中也は箸でつまんでいた胡瓜をぽろっと落とし、「はぁ?」とこちらをまじまじ見返した。
「なに。おまえ、好きな歌手…っつか、興味ある人間」
「……なんか失礼なこと考えてるみたいだけど、好きな人間も興味ある人間もいるのだけど。まあでも、この人たちのファンというわけではなくてね、ちょうどあのときのことを思い出していたからさ」
「あー……そういえば俺も聞いたな、そんな話」
 まだ髙瀬會が龍頭抗争で壊滅する前、ポートマフィアの開拓した密輸ルートを盗んで動かしていた密輸グループの名前がテレビの向こうで踊っている青年たちと同じだったのだ。それを説明すると、中也は「悪いオッサンたちが集まってアイドルと同じ名前で活動してたと思うと、ちょっと恥ずかしいな」と言ってチャンネルを変えた。
「ひょっとしたら、正式な組織名は事業が軌道に乗ったら付け直すつもりだったのかもしれない。BTSというのは『Behind The Shene』の略だ。舞台裏とか、組織同士が裏でつながっているという意味だよ。それじゃああまりにも直接的すぎるからね」
 くあ、と私の話の途中で欠伸をして、中也はふらりとキッチンへ向かい手を洗うと、「寝る」と一言だけ言って、ベッドルームへ向かった。
「えっ、ちょ、寝るの早すぎない?」
 私は慌ててその後を追う。食べかけの食器もそのままに寝室へ行くなんて、これは相当疲れているようだ。
「手前の話聞いてたら思い出したんだよ。あのときも任務が長引いて寝不足続きで、一旦拠点で思いっきり寝たら良いアイディアが閃いたんだよな。つうわけで、寝る」
「ええ~~……私はヤる気満々で来たのに」
「俺は寝る気まんまんで帰って来たんだよ。…あ」
 あれすてとけよな。ともう瞼も落ちた状態でうわごとのように言い、中也は数秒で寝息をたて始めた。
 あれとは何だろうと周囲を見ると、ベッドサイドに釦が一つ落ちていた。子供の上着に付いているようなネコの顔の形をした大きな銀色の釦だ。
「あ、なくしたと思ったらここに落としてたのかぁ」
 昔、私の黒外套の釦を引きちぎった中也に、代わりの釦を付けてよと強請ったら、後日、裁縫道具を持って私の執務室を訪ねて来て、この超絶ファンシーな釦を付けて返してくれた。きっと中也は私への嫌がらせのつもりでわざわざ可愛い釦を探して買って来たのだろう。どうせ森さんから貰った外套だし、釦なんて何でも良かったのに。
 私はそれを素直に喜んで受け取り、当時の幹部たちからの招集にも、関連組織との会合にも、敵対組織の掃討作戦の現場にも付けたまま出向いた。中也は頭を抱えて「俺が悪かったからさっさと外せ」と訴えたが、私はその釦を、自分が幹部に昇進していよいよ首領から釘を刺されるまで付け続けていた。
 あの外套はとうに焼いたが、この釦は捨てられなかった。中也が私のことを考えながら選んで手ずから付けてくれたものだったからだ。
 これを部屋で見つけたのなら、私がいまだに持っていることを知ったのなら、「興味のある人間はいるのか」なんて質問、悪あがきにも程がないだろうか。
「それを言ったら、お互い様になっちゃうんだけど……」
 釦を回収し、そこにもう一つ置いてあった中也の仕事用の端末を取って、易々ロックを解除し、ここ数日間の中也と部下のやり取りにざっと目を通す。
「ははあ。成程」
 目の前ですやすや眠っている中也の傍にしゃがみ、彼の耳元で亜麻色の髪を指で掬い、そっと囁く。彼が昔、拠点の仮眠室で眠っていたときにしたのと同じように。
 あのときはこう囁いた。「拠点を何度も変えるのは理由がある。リーダーを逃がすのが目的。リーダーを逃がすのが目的。リーダーを逃がすのが目的……」そうしたら翌朝良いアイディアが閃いたそうだから、睡眠学習というのは効果があるのだなあと思う。
 中也の奇襲作戦が失敗続きなのは、おそらく使っている情報に嘘があるからだ。昔から中也が懇意にしていた情報屋がいたが、残念ながらそいつが何らかの事情あってポートマフィアを裏切ったのだろう。
 中也は一度信用した人間を疑うことを無意識に避けるから、こんな簡単なことにも気づかない。君の馴染みの情報屋を疑え、と、彼の脳裡に残るように繰り返し囁いた。
 そして、私はあのときと同じお願いをする。
「明日までに終わらせてよ。デートしよう、中也」