女の敵

2023年3月4日

敵は消滅した。もう休め中也。
視界をみるみる塗りつぶしてゆく暗闇の中にあって、その声は頭の中に直接響く。らしくなく真面目で優しい声音。汚濁状態の俺に丸腰で近寄ってあっさりと取られる腕。
変わらねえな、と考えていたことが口から出てしまい舌打ちする。幹部である自分専用の執務室で今の独り言を聞いたのは自分しかいないが、己に対してですらばつが悪い。迂闊な口を塞ぐようにしてシガレットケースから一本取り出し、火を点けた。

…四年。四年会っていなかった。最初の二年はあまりに音沙汰が無いもんで、ひょっとするとひょっとしたかと思ったりもしたが、その度いやそれはねぇか彼奴に限ってと打ち消していた。三年目になって武装探偵社に在籍しているという情報が野郎の写真付きで飛び込んできたときは、裏切り者の分際で整形どころか偽名を使う可愛げすらないふてぶてしさに、ああ間違いなくあの野郎だと思いながら、同時によりにもよってそこを選んだかという失望で胸がちりちりと焦げ付いた。
首領は太宰の処遇について何も言わなかった。であれば俺が殺しに行ってやる道理もねえ。歴代最年少で五大幹部に昇格した後も顔を合わせれば飽きずに「殺してよ中也ァ」とウザ絡みしてきた筋金入りの自殺願望が、生温い昼の世界でますます死に場を失い彷徨うことを想えばいい気味だ。俺はそう考えるようにした。
ああ、でも。

「今の私は美女と心中が夢なので君に蹴り殺されても毛ほども嬉しくない。悪いね」

なんかそんなこと言ってやがったな。ここの地下で再会したときに。
そこは変わったのか。痛くない、苦しくない、一瞬で終わる、その条件を満たした死に方なら何でもいいようなことを言ってやがったくせに、美女と心中?

「美女……女ねぇ」

そういえば、昔泣かした女全員に今の住所を教えると脅したら、珍しく本気で厭そうにしていたな。
彼奴が俺の嫌がらせに「やめて」なんて言うことは滅多にない。我ながらなかなかいい線いってるアイディアだったわけだ。拠点まで送り届けろと言ったのに俺を放置して帰りやがった一件もあるし、そうと分かればさっさと女の恨み節の詰め合わせをあの野暮ったいアパートに送りつけてやるとしよう。
俺は記憶の中からかつて太宰に追い縋って泣いていた可哀想な女たちの姿を引っ張り出し、そのうちの一人、ポートマフィアに今も在籍している女の名前を思い出すと、執務室の外で待機している自分の部下に、その女をすぐ連れてくるよう命令した。

* * *

贔屓にしているワインバーで一杯引っかけた帰り道、冷たい石畳を踏む靴音が弾んでいる。気分が良かった。
首領の指示とはいえ、四年越しに太宰のポンツクと共闘する羽目になったあの夜から、どうも締まらねえ気分だった。
相棒が何も言わずに組織から消えた夜、俺がどんな思いでいたのか、俺自身へのけじめの心算で言葉にした。だがあの糞鯖ときたらどうだ、「私『も』記念に中也の車を爆破した」などと言う。間合いも呼吸も俺の本気の度合いも把握していると言い、大昔の作戦暗号をさらりと口にし、あの頃を想起させるような会話を選んで仕掛けやがる。あれがわざとでないわけがない。俺を置いて行ったことに対する自責のひとかけらもありゃしねえ。ちっとは痛い目を見ればいいのだ。

「ご機嫌だねぇ、ちびっこマフィア」
「…よぉ、こんな夜更けまで残業か? 新米探偵」

街灯のない裏路地、俺の行き先を塞ぐようにして太宰が立っていた。古いバーの看板の電飾がじじじっと誘蛾灯のような音を立てて明滅し、蒼白い太宰の頬を闇に浮かび上がらせている。

「彼女を寄越したのは君だろう。まったく…中也は私が本当に厭がることはしないと思っていたのに、がっかりだ」
「何だそりゃ? 随分イイコだと思われたもんだ。手前のいない四年の間に、俺は悪い子になったんだよ」
「…へぇ」

返答に僅かの間があった。それも中身のないつまらねえ相槌。なんだこいつ珍しい、動揺しやがったと、思わず目を見張りそうになった顔を気取られないようにふいと逸らした。

「…まぁそう怒んなよ。人選はしてやったつもりだぜ? 今の手前の暮らしぶりを見たら、百年の恋も冷めただろ。肩書きに惚れる女だったからな」

そしてわざと口数を多くする。まるでそこに気まずい何かがあるように。

「ああ、そのようだ。今の本命もとあるポートマフィア幹部殿で、その彼の直々の命令ということで張り切って私を罵倒しに来たそうだよ。一途な女性だったのだけどねぇ、残念だ」
「ざまあみろ女の敵め、女ってのはな、思い出を上書きする生き物なんだよ」
「ふーん、じゃあ男は?」
「あ? 手前も男だろうが」
「私がいない間に、誰かで上書きした?」

能面を貼り付けたような薄気味悪い笑顔で俺を見る男。そうか、こいつ。組織を抜けてから暫くは地下にでも潜っていたか。だから知らないのだ。実際、一途な奴が惚れた対象を失えば、どれほど地味な暮らしに身をやつすかということを。

「こう見えて忙しい立場でなァ、『ここ二年は』ご無沙汰だ」

すっ…と急誂えの笑顔すら消え、奴の両目の中に懐かしい色が戻って来る。沈殿する夜の色だ。

「……もういい。云わなくていい」
「云わないでください、聞きたくない、だろ?」

ああ、いい気味だ。
だが、残念ながらこの一度しか使えない手だな。太宰の不在にオレが如何していたかなんて、こいつが調べりゃすぐに分かることだ。
一度太宰が知りたいと思えば、もうそれはたちどころに調べ尽くされてしまう。かつて自分自身がその手によって隙間なく暴かれたように。

「あのね中也、困るのだよ」

太宰は熱の篭った溜息を落とすと、俺の手首をぐいと掴んで引き寄せた。密談をするような距離で見上げた太宰の顔は、かつて「君は僕の犬だろ」と喚いた餓鬼の顔と変わらない。

「…なにが困るって?」
「今の私は、そうおいそれと人を殺せないんだ」

言うに事欠いてそれか。俺は堪え切れずにクッと笑いをこぼし、奴の足の間に絡まるようにして距離を奪って、いつ見ても癪にさわるループタイを引っ張って口付けた。

「…なぁ探偵。調べ物なら、直接尋問するって手もあるぜ」

太宰が目を細め、俺の腰を引き寄せる。俺からの洒落た口付けが、すっかり機嫌を悪くした男の舌によって野蛮に上書きされてゆく。
本当に手前変わらねぇな、と口に出して言うことは許されなかった。

息するように嘘つきやがって。