ふぁんたすてぃっく
たしかに食事は美味しかった。
上海蟹を丸々蒸したものが出てきたときには、つるんと綺麗なオレンジ色にテンションが上がったし、紹興酒に漬けた蟹味噌も美味しかった。小籠包もスープも最高で、炒飯は正直蛇足だったが、その後に出て来たものに比べたら百倍マシであったと思う。
「好きだ太宰。結婚を前提に付き合ってくれ」
円卓がくるりと回され、私の正面に黒い小箱が現れた。
手のひらサイズのその箱は、こちらに口を開ける形で開かれており、中にはプリザーブドフラワーの真っ赤な薔薇が一輪と、その中心にブラックゴールドの指輪。
「死んでも嫌」
言いたいことが大渋滞していたが、取り急ぎその一言に全てを込めた。
円卓を挟んで向かいに座っていた男は、まさかとでも言いたげな表情でうろたえ、なんでだ、やっぱりプラチナがよかったのか、と頭を抱えた。そういう問題ではないし、頭を抱えたいのはこちらの方である。
「あのさぁ、中也…何か私に頼み事があるんでしょ? どうせ部下にかけられた異能を解除してほしいとかそういうさ。それで蟹は分かるけど、何この指輪。薔薇って」
今まで生きてきてお目にかかったことのないレベルの強烈なダサさにあやうく食べた蟹を戻しかけた。
「結婚…付き合う…うん、分かった、その頼み事は私を長期間拘束する必要があるということだね。例えば一度解除しても数時間後に再発動するとか、途方もない人数が被害に遭っていて時間がかかるとか」
「え?」
「え?」
「今……わかったって言ったか? 太宰」
「あ? いや…え? なに? 会話が通じてない」
「だから、俺と付き合ってくれるんだろ?」
「はぁ?? 死んでも嫌だって言ったでしょ? だからそういうのはいいから、さっさと目的を話せって――」
中也は長いため息の後、すぅと真顔になっておもむろにジャケットの内側に手を入れた。何か出す気だ。私は咄嗟に椅子を後ろに引き、相手の出方を注視した。
中也が取り出したのは一本の杖だった。三十センチ程の長さで、先端がハート型になっていて、その中心に赤い宝石が埋め込まれている。そう、玩具店に売っている女児向けの玩具のような形状の、銀色の杖。それを黒づくめのガラの悪い男がくるくると指先で振っている。
「来たれ七星の土星、アガレスミラクルルルルルルー、時間よもどーれっ☆」
「な、」
「――っんなのその呪文!」
声をあげて立ち上がったら、足元が前後にぐわんと揺れた。思いがけずバランスを崩して後ろにあった座席にまた着座してしまう。
また? いや、さっきまで座っていた椅子じゃない。
「そんなにはしゃぐなよ。観覧車は初めてか?」
「かん……」
観覧車なのだった。分厚い窓の外をパステルピンクのジェットコースターがびゅんと通り過ぎていく。今さら珍しくも何ともない、みなとみらいの遊園地。
「……何をしたの?」
「時間を戻した。聞こえてただろ?」
確かに、妙ちきりんな呪文の最後に、『時間よ戻れ』と言っていたのを聞いた。だが、どうやって?
「私に異能は効かない」
あの中華街の店で、昏睡状態にされて運ばれた? それにしては記憶の途切れ方が唐突だ。まるで映画のフィルムを変なところで切って繋ぎ合わせたみたいに、一瞬で別の場所に移動している。意識を失うほどの暴力を受けたような痛みもないし、料理に何か盛られている感じもなかった。
「手前が今考えているような、真っ当な暴力で連れ回すことも、考えはしたけどな」
真っ当な暴力とは?? ゴリラのパンチにレギュラーもイレギュラーもノーマルもアブノーマルも無いと思うのだが、十分な距離を取れないこの密室で中也とやり合うのはどう考えても私が不利だ。無意味に怒らせる発言をするのは得策ではない。
私は観念したというポーズで両腕の力を抜き、座席の背もたれに背中を預けた。沈黙で話の続きを促す。
「そう、手前に異能は効かねぇ。かといって、糞忌々しいことに、単純な暴力で手前の予想を上回ることなんてできやしねぇ。だが、」
ラヴクラフト――と、何時ぞや二人で交戦した組合(ギルド)の男の名前を口にした。
「『異能ならざる不可思議』なら、手前を出し抜くことも可能なんじゃねぇかと思った。さっきみたいにな」
「異能でないなら、何? さっきのおかしな杖は」
これか、と中也はあっさりそれを取り出して見せた。
「これは、魔法のステッキだ」
「まほうのすてっき」
「ああ。呪文を唱えて振ると、魔法が使える」
「へぇ~。…………私、帰っていい?」
見たいテレビがあるからさぁ、と言いながらコートのポケットから携帯端末を取り出し、現時刻を確認する。
まぁ待てよ、もうすぐ頂上(てっぺん)だから、と中也は必死に引き留めるふうでもなく、窓の外の夜景を眺めながら私をたしなめた。
「地上に着いたら帰るからね。魔法だか何だか知らないけど、オモチャで遊ぶお友達は同じマフィアの中で……」
……頂上? 猛烈な悪寒に襲われた。そう、つい先刻真っ赤な薔薇入りのリングケースを見せられたのと同種の嫌な予感。今は何時だった? まずい。休日のこの時刻、観覧車に乗ったら、たぶん海の方で、
どーん! と大輪の花火が夜空に咲いた。色とりどりの閃光に互いの顔が照らされ、影を帯びて、またなめらかに光る。中也の目は少年のようにきらきらしていた。
「太宰! 好きだ! 付き合ってくれ!」
うわあああああああああ!!!!やっぱり!!!!
不覚を取った。こんなベッタベタの横浜デートプランにまんまと嵌まってしまった。
「分かった」
「分かってくれたか!」
「そうじゃない。君が私に頼み事をしたくてその手段としてこんなことをしているって可能性を今捨てた」
純然たる嫌がらせだ、これは。
ぶつぶつと浮き上がった鳥肌が戻らない。自分と両極のセンスの持ち主である中也からガチで口説かれたら、ここまで精神にダメージを受けるのか。自分を格好良いと信じて疑わない中也がその可能性に行き着いたことは素直に賞賛してやってもいい。
「その『魔法の杖(ステッキ)』とやらに、本当に時間を戻す力があると仮定しよう。君はそれを手に入れて、この嫌がらせを思いついた。とすると、君の気が済むまで、私はこの状況から解放してもらえないのだろうね」
「まぁ、そうだな。嫌がらせじゃねぇけど」
「嫌がらせじゃないなら何だって言うのさ」
もうずいぶん昔に、中也とキスをして、セックスもした。でもそれは、他人に説明をするのも面倒な心に溜まった澱を、吐き出すのに丁度良かったというだけ。指輪を贈ったり、花火の下で告白するような関係ではない。
「観覧車が気に入らねぇんなら、別の場所でやり直してやるよ。どこに行きたい?」
「もう一度、同じ時間に戻ってかい?」
「そうだ」
「成程ねぇ……」
控えめに言って地獄である。
嫌がらせの終着点(ゴール)は、嫌がらせを仕掛けた側にとってそれが不利益になるか、満足して飽きることだ。
前者の状況を作るには、私からも何か仕掛けなければならないが、何をしても時間を戻されてしまうとなると難しい。中也を満足させる方は簡単で、おそらく私が彼にまいった私の負けだと降参する姿を見せるだけでいい。絶対に嫌だが。
「……もうすぐ地上だよ。さっきの告白の答えはノーだ。次はどこへ連れてくつもり?」
「そうだな。ヘリを一機待たせてあるから、夜景を」
「却下。次」
「ディナークルーズを予約しているから、船上の夜景」
「次」
「手前を仮死状態にして、俺の異能で空からの夜景を」
「夜景から離れて!? あと最後のやつ論外なのだけど!死体に夜景見せて愛を囁くの!? サイコパスかな!?」
私たちの乗っているゴンドラが乗り場のすぐ近くまで降りてきた。今からこれに乗るのを楽しみに待っているカップルたちの行列が目に入る。
中也の考えるデートコースを回らされたら、ああいうカップルたちの衆目環視の中で告白を受けるはめになるかもしれない。できるだけ人目につかない場所で決着を付けたい。
「中也、私、大事な話は誰もいない場所で聞きたいなぁ」
「そうか。分かった」
前にもそう言ってたもんな。と言って中也は杖を振る。
前にも…? そんな記憶はなかったが、聞き返そうと口を開いたのとほぼ同時に、中也はあのふざけた呪文を唱え終えていた。
「……ここ、どこ……」
一艘の木の小舟の上で私たちは向かい合い座っていた。
「さぁ。どっかの海上。誰もいない場所だろ」
潮の匂いが強い。海鳥の鳴き声が聴こえる。映像によるトリックなどではなく、本当に海の上を漂っている。小舟はカヌーを少し大きくした程度の大きさで、二人で定員ちょうど。見たところ水も食糧も積んでいない。
生命維持に危険が及ぶ心配無用で、いつでもこの場所から逃れられると思っているからできることだ。やはりあの杖一本あれば、本当に時間を巻き戻せるのか。
「あのさ、たとえ時間を戻したとしたって、どうやって私をこんな場所まで連れ出したの? 中華街や観覧車はまだしも、ちょっと説得したくらいじゃ」
「ちょっとじゃねぇからな」
中也は途中で話を遮った。
「『ちょっと』じゃねぇ。十回、二十回とやり直して、そのうちの何回目かで手前を連れ出すのに成功してんだ」
「え? 君が時間を戻したのはこれで二回目じゃ」
「違う。もう数えてねぇけど…千回は超えた。時間を戻したことを手間が覚えていられたのは、そのうちの二回」
「中也……ただの嫌がらせにしては」
私が途中で言い淀んでも、中也は何も言わずぼうっと海を眺めていた。まだ告白もしてこない。
「その杖、どこで手に入れたの」
「関内のルノワールで一服してたららヤクザがくれた」
どういうヤクザだ。それに、あの呪文。
「アガレスというのは時間を司る悪魔の名前だ。君さぁ、オカルトに手出しちゃったんじゃないの」
「オカルトだぁ? そんなんじゃねぇよ」
中也は舟が傾かないように重力操作の異能を使って私の目の前まで歩み寄り、コートの内側から折り畳まれた一枚の紙面を取り出して見せた。
「何これ。読めない」
書類のようだが、見たことのない言語で書かれている。契約書だよ、と言うと、彼はまたそれを元通りに畳んで仕舞い込んだ。
「ちゃんと契約して譲り受けたんだ。この杖で時間を戻す魔法を使わせてもらう代わりに、オフの日は魔法少女になって魔獣を倒してる。なぁ太宰、そんなことより」
「そんなことより!?」
「俺と付き合ってくれ。頼むよ。俺と付き合ったら毎日きっと飽きないはずだ。――死なせない」
「…………中也って、ほんと傲慢ね。昔から」
そんなどろどろした目をして訳の分からないことばかり言われる身にもなってほしい。
こいつ、ちゃんと誰かを口説いたことあるのかしら。デートプランもプレゼントも壊滅的にださい上に、一緒にいる間そうして暗い顔まで見せられたんじゃ、これで色っぽい返事を貰おうって期待する方がおこがましいというものじゃないの?
「目、閉じてよ」
キスしてあげる。と言って中也の手を引いて舟底に押し倒し、上からゆっくりと覆い被さる。私たちがもぞもぞと動くたびに舟が揺れて、ちゃぷんと波が立った。
「太宰…っ、あ、待て、ここじゃ…」
「うふふ。久しぶりだね、もっと嬉しそうな顔したら?」
頬を撫でて唇を重ね、記憶を呼び起こすように彼の舌を誘い出し、自分のそれと絡めると、小さく喘いでびくんと肩を震わせた。ぐらぐらと舟が揺れる。
転覆しそうだなと若干のときめきを感じる私に対して、中也は何度も重力を制御しようと微かな赤い光を纏おうとし、その度私にあちこち触られて駄目になる。
「あっ、あっ……熱い、手前の手……」
よく見ると、彼のいつも強気に輝いていた瞳の周りは隈だらけで、胸元をまさぐると、少し痩せていた。肌は氷のように冷たい。
「ねぇ、私を困らせる悪い子中也。一体どんなこわい夢を見せられて、そんなに怯えているの?」
悪魔は人を誘惑するものだ。その悪魔とやらによほど恐ろしいものを見せられて、それでこんなに思いつめているのだろう。その洗脳を解いてしまえばいい。
苦し気に酸素を求める姿が、かわいそうで一層口付けが長くなる。その合間に、中也はぽつりと呟いた。
「俺、桜木町で映画……ビー…スト……う、ううっ……」
「映画?? 待って、落ち着いて中也。大丈夫だから…ゆっくり息を吸って…そう、やっぱり何か見ちゃったんだね。君が、どんな未来を見てきたのか知らないけど」
両手で顔を覆って苦し気に呻き出した彼の胸元から銀色の杖をかすめ取り、一面に広がる大海原へと放り投げた。あっ、と中也が声を上げる。
「オカルトなんかに頼ってそんな辛気臭い顔してる未来も大差ないよ。だいたいなぁにあの呪文、アガレスミラクルルルルルルー……だっけ?」
「馬鹿ッ! やめろ!」
私が呪文を口にした瞬間、びかっと海面が光り、虹色の光の柱が何十本も一斉に突き出した。海水がぼこぼこと沸騰し始め、夜空に瞬いていた星々が一つまた一つと流れ落ちてくる。
「え、すごい…。世界の終わり? 綺麗だねぇ、中也!」
「綺麗だねじゃねぇよボケカス! あの杖は、使用者と杖の先が指した対象の時間を戻す。手前がさっき投げ捨てたことで杖はこの海を――いや、地球の時間を戻そうとしているのか……?」
「あっはっはまさかぁ~、あ、見て中也、プテラノドン」
「白亜紀じゃねぇかクソが!」
「いやぁ、こんなに面白いものが見れるなら、怪しげな魔法でループさせられまくった迷惑も許せちゃうな」
「何を呑気なこと言ってんだ。つうか、太宰は契約してねぇのに、なんで魔法が使えたんだ?」
「えっ……私、ひょっとして魔法少女だった?」
「手前のような魔法少女がいるか。……そうか、きっと俺のせいだ。俺が何度も太宰を中心として時間をループさせたから、因果の糸が太宰に集約しちまったんだ」
「言っている意味がよく分からない」
「今の手前なら、この世界を一部じゃなく、初めから丸ごと創り変えることができるってことだよ」
「私、神様みたいじゃない」
「はっ、そうだな。……良かったじゃねぇか。昔っから手前、何にも面白くねぇってツラしてたろ。俺と寝てたころは特に。今なら、その面白くねぇ世界をどうとでもできる。大嫌いな俺がいない世界にすることだって」
「ふーん、そう。それはいい考えかもね」
そんなことより、中途半端に火の点いた身体をどうしたものか。無自覚にはだけた胸元をちらつかせながら唇に触れている男を眺めながら、どう考えてもこの世界、ホテルがないし、ベッドもお風呂もローションもないよなぁと考える。あと、恐竜がうるさい。
「ねぇ、中也」
なんだよ、と全部諦めたみたいな声で彼は応じる。
「好きだよ」
びっくりした間抜け面の背景に真っ赤に燃える巨大な隕石が落ちてきて、私は爆笑しながら、たくさんのことを考えた。
君のこと、私のこと。こうだったらいいのになという、世界のことを。
海があかく染まった。
「なんだよ太宰。こんなところに呼び出して」
「だから、好きだよ中也。私と付き合って♡」
「は? きめぇ、死ね」
忙しいんだよこっちは、と中指を立てて吐き捨てると、中也は席を立って足早に喫茶店を出て行った。
アイスコーヒーの後にサービスで提供された熱い緑茶を啜っていたら、すぐ前を四歳くらいの女の子が小さな歩幅で走り、おもちゃの杖を落とした。
それは三十センチ程の長さで、先端がハート型になっていて、その中心に赤い宝石が埋め込まれている銀色のステッキだった。
「落としたよ、お嬢ちゃん」
呼び止めてそれを拾ってやると、女の子は恥ずかしそうにもじもじしながら、「それ魔法の杖なの。欲しい?」と甘い高音で囁いた。
「いらないよ」
私はくるくるとそれを指先で遊ばせ、女の子の眼前でぴたりと止めてやった。その子は赤スグリみたいな瞳でしばらく私の顔をじっと見つめた後、「あなたは、時間が戻ったらいいのにって思ったことはない?」と言った。今度は大人の女性のような声に変わっていた。
「そりゃああるさ。私は人間だからね」
だったら――とその子が続けようとした言葉は、からんからんとドアベルが鳴った音にかき消された。
ずかずかと不機嫌な靴音が近づいて来る。
「中也、忘れ物かい?」
「……おい。さっきの話、どうせまた何か企んでるんだろ手前。気になって仕事に集中できねぇから、最後まで話してけ」
「ふふ、いいよ。この後の仕事はキャンセルしたまえ」
ああ?そんなに長い話かよ、と文句を言いながらも、中也は携帯電話を取り出して口ぶりから彼の部下と思われる相手に連絡をし始めた。
「ね、言ったでしょう。いらないって」
魔法なんかなくたって、私の犬は、ちゃんと自分の足で私のところに戻ってくるんだ。
少女のような何かはつまらなそうに口をへの字にして、私の手から杖を奪い取ると、店の出口へと歩いて行った。
「何だあのガキ…足音がしなかった。異能者か?」
「よその犬にすぐ噛みつかないの。さて、今日の予定はなくなったよね? ホテル行こっか」
「ハァ!?」
「何想像してるの? そこで話すって言ってるの」
「てめ…紛らわしい言い方すんな!」
きゃんきゃん吠えながら隣を付いて来る中也を横目で見ながら、好きって言ってくれたことは消さなくてもよかったかもなぁと一瞬考えた。
「ま、それはこれから言わせればいいか」
何のことだよ、と訝しむ彼をガチで口説く方法を頭の中で千通り考えて、とりあえず手を繋いだ。中也の悲鳴が心地よかった。