神様のヒマ潰し

 恋をしたら、死のうと思っていた。
 知らないことはそれだけだった。
 正確に言えば、現状僕が知らないことの中で、僕が興味を持てることで、かつそれを知る方法の目途が立たない物事というのが、それだけだった。
 知識を集めてみても概念が溢れるばかりで、肝心なことはなんにも分からない。手っ取り早く体験しようにも、恋をするには相手が要るし、自分がその相手に対して恋愛感情を起こす必要がある。それが一番難しかった。
 恋を「活動」と解釈する人はこのように言う。まずは相手を見つけることです、その相手とデェトに漕ぎ着けたならそれはもう恋愛であり、それを望むなら、相手を探す方法、デェトの作法、関係を円満に継続させる秘訣を伝授してあげましょう、と。
 そのように指南されるものが恋ならば、そんな攻略法の存在するレクリエーションに、なぜ多くの人が振り回されるのだろう。神話の時代から、ヒトも神も恋に溺れ、時に道を踏み外してきた。それほど抗いがたい何かが、そこにあるのだ。
 僕は、恋は「熱病」ではないかと――そのようなものであったらいいなぁ、と思っていた。
 それを患ったら、死ぬほど苦しくて、でも死ぬほど楽しくて、実際に死んじゃったり殺しちゃったりするらしい。
 一寸楽しそうでしょ。僕はその惨状を、できるだけ間近で観察したかった。
 でも、それを自分と一緒に楽しんでくれる誰か…というのが、全くイメージできないのだ。姿形、声、表情、どんな性格の、どんな人物なのか。

「あーあ。まったくままならないなぁ」

 生きるなんて行為に何か価値があると本気で思っているのか。そう訊ねたことの返答は聞かないまま、森の診療所を出て来たところだった。といっても、出て来た理由が森からのお使いなので、結局また報告に戻ることになるのだが。
 けれど、僕が彼に同じ質問をすることも、『何故死にたいか』なんて質問を彼が僕にすることも、もう二度と無いだろう。そんな気がする。
 胸ポケットの中で携帯電話が震えた。ひょいと摘まんで画面を見ると、森からの連絡であった。お使いの道案内兼護衛を選べということだった。送られてきた数名分のプロフィールに目を通し、この人がいいと一人だけ指名した。ぞろぞろ連れ歩くのは聞き込みするのに不便だし、いかにもマフィアですという感じで恥ずかしい。
 不採用にした人物も、みんな荒事に強そうで怖い顔した大人ばかりだった。森は彼らの一番上から、電話一つで命令できる立場にある。
 自殺に失敗して森のところに担ぎ込まれたときは、まるで死神のような風体の男に助けられたものだなぁとそれが少し愉快であったし、その死神が、横浜の暴力の象徴たるポートマフィア首領の生命を刈り取ろうとしていることを知り、面白そうなのでついて行った。
 しかし、その後の死神は組織人となって、明日、明後日、数年先の算段をしてばかり。未来のことで悩むのは、その時点まで自分たちが生きていて、できるだけ良い状態でいたいと考える人間の特権だ。死神は、現実、死神のような人間であったということだ。
 きっとこれからもこうだ。ひょっとしたら次こそはと淡い期待を抱いては、それは自分の想像を超えることはない。
 自分が想い焦がれている「死」でさえも、もしかしたら、単調で、ひどく退屈なものなのかもしれない。初めて経験するのだから、できるだけ意識を保ち、感覚を保ち、それでいて一つの感情に大部分を支配されるようなことなく、それを味わい尽くしたい。だからそんな望みを叶える毒薬を調合してあげるよという甘言に乗ったのだったが、どうやら、約束はうやむやにされる流れだ。
 自分はあの男から、何かを期待されている。
 足元の水たまりを車影が横切り、数歩先に黒のハリアーが停まった。運転席から降りて来たモノクルを掛けた男が僕に一瞬鋭い眼差しを向けた後、一礼した。

「一つ尋ねても?」
「いいよ。僕が貴方を指名した理由は、貴方が今から行く土地に詳しいから。道だけじゃなく、土地柄という意味で」
「……は、成程…」

 道案内兼護衛役の男は、今ひとつ成程ではなさそうな声で、しかし質問する前に僕から答えを言われたために、それ以上重ねて聞くことはせず、運転に集中し始めた。僕の人選は正解だったようだ。
 先代首領の幽霊探し、か。
 このお使いを終わらせた後、やはり甘き死にはありつけないとなったなら、あの殺してくれない死神を散々嘘つきと罵った後で、診療所を出よう。
 森と出会う以前の放蕩暮らしに戻るだけだ。違うのは、先代首領殺害の秘密を知る者として、それまでに気まぐれで起こしてきた小さなトラブル由来のものとは比べ物にならない苛烈な追跡を受けるはめになるだろうということ。しかしそれも、さっさと自殺に成功してしまえば関係のない話である。成功すれば、だが。
 今のところ、自殺はいつも未遂に終わっていた。
 別に人目に付く場所を選んでいるわけでも、誰かに予告めいた匂わせをしているわけでもないのに、どういうわけかいつも誰かまたは何かによって阻止される。
 自分の足元に大量の時限爆弾をセットしたときなんかは、設置中に誤爆しないよう、かなり繊細な作業を求められたというのに、それも森によってデンジャラスかつドラマチックに解除されてしまった。あの人は単なる通りすがりのおせっかいな他人ではなく、明確に僕を死なせたくない理由を持っているから厄介だ。なんというか、すごぉくがんばって止めにかかってくるのだ。
 どうせ死ぬなら楽しい方法で、なんて趣向を凝らすから邪魔する猶予を与えてしまうんだろうか。次からはもっとオーソドックスで手軽な方法を試すことにしよう。縄で首を吊ったり、川に飛び込んだり、手首を切ったり、うん、そういうのにしよう。それを僕の日課にしよう。
 そうだよ。なんなら、こんなお使いなんて投げ出して、今日それをしたっていいじゃないか。古書店で最近入手した『完全自殺読本』という稀覯本を捲りながら、気まぐれが騒ぎ出した。
 だって、こんなに何もない世界で、今まで生きてきたことの方が変だったんだ。生きているだけでえらいなんて意味不明なポリシーも持てない。僕は、死にさえ怠惰で、「ひょっとしたら今度こそ」と思ってしまう程度にロマンチストであっただけ。
 そして、そのロマンチストが最後にすがっているのが、未知なる恋という病。

「空から飛んでこないかな……恋」
「は……?」
「何でもない。独り言」

 世の中で指南されている方法に従って探したところで、恋は見つかる気がしない。
 見つかったとしても、それが僕の興味をそれこそ〝死ぬまで〟引き続けてくれる期待は薄い。
 そういうわけで、これはきっと少年の夢想のままで終わるのだろう。……いいのだ、それで。これ以上世界にがっかりさせられずに済むのだから。
 まるで自分は、身体の両側から迫る石壁に少しずつ潰されて、圧死する賊だ。たぶんこの世界に非はなくて、僕が異物で、誰もが普通に生を謳歌するこの世界にとっての、侵入者なんだろう。
 
 
 ***
 
 
「そういえば昔、この店で手前が変なことを聞いたよな」

 木のカウンターに斜めに肘をついて、手の中のワインをぼうと眺めながら中也は言った。
 薄暗い店内で花梨の木の赤みがかった光沢が、中也の黒い革手袋と、その指が柔らかく埋ずもれている白い頬を浮かび上がらせている。
 蝋燭の炎がゆらめいているようだった。昔は大雑把に後ろで結んでいた髪が、今は首筋にほそく絡み付いている。私はそれを瞳の端で盗み見ていた。

「この店は初めてだけど? 中也酔ってるでしょ」

 津軽びいどろの盃を傾けながら、そうしらばっくれた。
 ごくり、と自分の喉を酒が落ちていく音が、やけに大きく聴こえた。隣にいる男にまでは聴こえていないだろうと思ったが、中也はじっと私の横顔を観察し、それから吐息のようにかすかに、ハ、と笑った。

「俺が覚えてて、手前が忘れてるなんてことがあるかよ」
「………落ちのない、面白くない話だ。掘り返したって、酒の肴にはならないよ」
「ふ。はは。あのときも、俺は手前にこう言った気がするな。――なんだよ。珍しく余裕のねぇ面しやがって」

 カウンターに空のワイングラスが置かれた。唇をワインでしっとり濡らした彼は、今夜このバーで私に会ってから、まだ死ねも殺すも口にせず、ただ何かを待っているように見えた。

「この話が面白くないってなら、それは手前のせいだろ?」
「は? そっちから振ってきたくせにどういう難癖」
「違うな。始めたのは手前からだ、太宰。手前が始めて、手前が落ちをつけずに放り投げてきたものだ。…なぁ、そろそろ笑わせてくれてもいい頃合いじゃねぇか?」

 四年あったんだ。仕込みには十分だろうよ。
 中也はそう言って、グラスをカウンターの奥へ差し出し、オリーブの実を一粒噛んだ。気づいた店主が何も言わずにそっと新しいワインを注ぐ。

「………だったら」

 もうどうにでもなれ、と思った。

「だったら、あのときと同じ質問から始めるよ」

 今夜中也がここに現れることは知っていた。知っていて来た。一度あんな形で再会してしまったら、もう敵対組織だからとか、見つかったら追手が来るとか、適当な理由を付けて避けることができなくなってしまったのだ。

「………中也、」

 私はいつでも中也に会える。会いに行ける。
 中也がいつどこで何をしているかなんて、私には簡単に分かってしまう。近くで飲んでると分かっただけでこの足はこのざまだ。追いかけてしまう。止められない。
 ああ、悲惨だ。二十二歳になったのに、十代のあの頃に、〝それ〟を追いかけていた自分に、引き戻されてしまう。

「――恋をしたことはある?」
 
 
 ***

 恋をしたことがあるか、と中也に尋ねたことがあった。
 隣に座っていた中也は手の中のワイングラスを数秒眺めてから、ねぇな、と答えた。

「うそ。彼女いたじゃない」
「あ? ああ…」

 そのとき僕は、ほんの一秒、いつもより前のめりに反論してしまった。しまった、と無表情の裏で後悔したが遅く、そういうときに限って野性の勘かなにかが冴え渡る中也は、ニヤリと底意地の悪い顔をして、座っていた丸椅子をずいずい引きずり、僕の顔を横から覗き込んだ。

「なんだよ珍しく余裕のねぇ面しやがって。面白そうだな」
「面白いことなんて何もないよ。ただの雑談なんだから、変な嘘つかないで、って言ってるだけ」
「嘘なんてついてねぇ。手前が『彼女はいるか』と聞いていたら、俺は『いない』と答えたし、『彼女はいたか』と聞いていたら、『先週までいた』と答えたよ。手前、なんて言った? 恋をしたことがあるか? ……ぶっ、はっ! 似合わねぇ~! 雑談にしても他になかったかよ」

 あの彼女とは別れたのか…。
 当時十六歳の僕は、酒の味にも、酒を酌み交わすというレジャーにも何の感慨も持たなかったので、こういう店ではいつも店主に「適当に置いて」とオーダーしていた。
 その僕がおもむろにメニューを開いたので、すぐ隣に座っていた中也も何を頼むのかと覗き込んでくる。僕の左肘と中也の右肘がとんとぶつかった。

「この一番高いスパークリングワインをお願い」
「おいおい、どういうタイミングでどういう注文なんだよ」
「うるさいなぁ。僕が何を飲んだって自由でしょ」

 二人分とは言わなかったのだが、店主はすらりとした形のシャンパングラスを二脚僕たちの前に並べて、泡が落ち着くのを待ちながらゆっくり数回に分けてそれを注いだ。

「いや、俺はいらねぇんだけど…まぁ、もらうか」

 太宰の金だしな、とせこい事を言いながら、中也は自分が飲んでいたワインを一息に飲み干してから、提供されたシャンパンをこれまた一息に飲み干した。

「うわっ…最悪」

 そんな飲み方して、紅葉さんに怒られるよ。と僕が言うと、中也は一瞬背筋を正して顎を引き、今更空っぽのグラスをエレガントに傾けたが、すぐにそのグラスをコンと卓に戻して、「内緒にしろよ」と僕を見た。

「酔ってるでしょ……」

 僕の淡白な飲み方とは裏腹に、中也は《暗殺王事件》の後くらいから、こうやって酔い潰れるまで飲もうとすることが増えた。その辺で勝手に潰れていてくれるならいいのだが、なぜか酒量がある程度に達すると、決まって僕の名前を連呼し、弱りはてた彼の部下から僕に連絡が来る。
 当然迎えに行ったりなどしないが、そもそも連絡が来ることが鬱陶しいので、迷惑だから家で一人で飲むか、自分との作戦の後なら付き合ってやると言ったのだ。そしたらこういうことになった。
 マフィア御用達の店に鉄と硝煙の匂いをくっつけて現れれば、見た目が子供だろうと何も言われずに酒が提供される。いっそ西部劇に出てくる酒場のように、お子様は帰んなと突っぱねてミルクでも出してくれれば、その店をどこより贔屓にするのだが、今のところ巡り合えていない。
 まったく、一年前は身長が伸びなくなるからとか言って、仲間に誘われても飲まなかったらしいのに。
 そしていざ飲むと、本当に酒癖が悪い。タチも悪い。
 付き合ってやるなんて言うんじゃなかった。でも、自分以外の人間の前でこんなだらしない表情をされるのも想像するとすごく不愉快だ。

「おしゃべりできないくらい酔ったんなら、もう帰るよ」
「待てよ、今日はまだそんなに酔ってねぇ。もう少し付き合え。今日は手前の作戦で散々働かされたんだ」
「えぇ? あのくらい余裕でしょ。中也が考えたあの恥ずかしい作戦暗号も全部入れてあげたじゃない」
「誰が全部入れろっつったんだよ、ラーメン屋か手前は。無意味に跳んだり跳ねたりさせやがって…雑技団からスカウトが来たら手前のせいだからな」
「そうなったら僕も一緒に行ってあげるよ。中也を入れた箱に剣を刺す係になるね」

 空いたグラスに二杯目がサーブされる。中也は「もういらねぇ」と言って、元々自分が飲んでいた赤ワインのおかわりを頼んだ。口に合わなかったようだ。

「これ、甘くておいしいのに」
「ジュースでも飲んでろよ。…で、なんつったっけ? 恋をしたことがあるのか……その『雑談』に対する俺からの返答は、『ない』だ」

 飽きもせずまた同じワインを飲み始めた中也の瞼が、その色が移ったみたいにほんのり赤く染まり始めた。

「じゃあ最近別れた彼女も、その前にいた彼女も、別に好きでもないのに恋人にしてたってこと?」
「……なんだよ。メンヘラストーカー女製造工場の手前に純情を問われる筋合いは無ぇ。あのな、手前に弄ばれたって苦情が俺宛てに来るのぶっちゃけすげぇ迷惑してんだよ。せめて組織内の女はやめろ」
「中也だって、似たようなものじゃん」
「俺は手前に迷惑かけたことねぇだろ。……つうか、さっきから何の話してんだ。手前、俺の付き合ってた女に興味があるのか? 言っとくが紹介しねぇぞ」
「は? どうしたらそういう発想に至るわけ?」

 失礼すぎるでしょ、僕に。と言いながら小皿に残っていたピスタチオの殻を弾いたら、酔っ払いのくせにひょいと軽く避けられた。

「だったらなんで俺の彼女の話になんだよ。俺が誰と遊ぼうが手前には関係ねぇし、第一、興味もねぇだろ」
「遊びなんじゃん、中也だって」
「遊びだよ。でも手前のは『弄び』なんだよな、たぶん」
「どう違うの」
「んー……お互いに楽しんだかどうか…?」

 それなら僕だって、と言いかけて、やめた。
 単に気が向いたときや、そうするのが任務の上で効率的だと判断したとき、僕は女性と付き合う。始まりは中也のそれと変わらないはずだ。
 けれど、それが楽しかったかと聞かれたら、誰の顔も、交わした言葉も、浮かんではこない。
 元来自分は、女性の肌の柔らかさや自分に向けられる声の優しさを好んでいると思う。動機が仕事のときでも、嫌々そういう手段を選んだことはない。好きでしたことだ。それなのになぜ、何にも残っていないんだろう。

「ああ、わかった」

 言葉を返さず黙り込んだ僕を珍しそうに数秒見つめて、それから閃いたという顔で中也は僕を指差した。

「手前ひょっとして『恋が何か』を俺に聞いてんのか?」
「…………」

 いよいよ頬まで上機嫌に色づいた彼の顔を無言で見つめ返すと、それを肯定と受け取った中也の肩がぷるぷる震え出した。きゅっと結んだ唇の中でもごもごと爆笑の予感が膨れ上がっているのが見て取れる。アー死んでほしい。

「ぶあっはっはっははははは! ば、ばっかじゃねぇの」
「ああもう酔っ払い。騒ぐなら帰るよ」
「つい一時間前にあんなに殺してきた奴が! 恋!」
「殺人鬼テッド・バンディにだってガールフレンドはいたさ。殺すことと恋をすることに相互関係は存在しない」
「はぁ、はぁ…は~笑った。手前のこと大っ嫌いだけど、ときどきすげぇ愉快だよ。そういうとこは好きだ」

 大砲が胸をずどんと丸くぶち抜いていった。

 どんなときでも表情を変えずにいられる人間で本当によかった。本当は今すぐ胸を押さえて「うぐぅ」と呻きながら床に蹲りたかった。

「恋か。恋ねぇ……。いや、笑ったりしてわるかった。考えてみたら、俺も同じことを考えたことがあったよ。《羊》にいたころに」
「ああ…マフィアよりは、サンプルが多そう」
「そうだな。そのときは、興味があったというよりは、それ絡みの面倒事に対処するすべを知りたかった。男も女も、誰かを好きになったと言い出しちゃ変な行動し出して、周りもそれを応援したり邪魔してみたり、そうこうしているうちに付き合いだして、別れて、すぐにまた相手を変えて同じことを始める。そして、やたら俺が巻き込まれた」
「想像できるなぁ」

 王様を取れば勝ちだもの。チェスも世渡りも。
 彼らがただ純粋に相談相手に中也が適任だと思ってそうしていたと思っているのだとしたら、中也ってほんとリーダーに向いてないんだな。羊の王なんてやめて正解。感謝してほしいね。
 と言ってもよかったが、彼らの話を僕が持ち出すと九分九厘機嫌を損ねる。今日はもう任務の後だし、だいぶ飲んだし、今から口喧嘩する気分ではなかった。

「…それで、悩める青少年たちのカウンセリングを経て、中也が出した結論は?」

 教えてほしいか? と楽しそうに笑って、中也は両腕を枕にしてカウンターの上に頭を載せた。

「あ、ちょっと。そろそろ落ちるなこれ…ちょっと中也、聞かれたことにはちゃんと答えなよ。ていうか寝るならここじゃなくて帰って――うわっ何これフニャフニャ!」

 とろんとした眼差しで僕を見上げているその横っ面を指でつついたら、ふにゃんと指先が白い頬に吸い込まれた。
 咄嗟に頭の中に白いマシュマロの像が浮かんで、死にたくなってウッドストックと一緒にたき火で焼いた。

「もにゃ…っていう…はなぁ~だざい~」
「えっ? 何?」
「だからぁ…恋っていうのは、ひまつぶしなんだよ…」

 頬から指先を離したら、中也は酩酊した表情の割にはっきりした口調でそう言った。

「…明日死ぬかもしれない命なのに、あいつら、たまたまそのいっとき恋した相手を庇って死んだりする。数か月前だったら別の相手を庇っていたかもしれないし、数か月後なら、そんな気は失せていて、我が身かわいさに相手の命を差し出していたかもしれないのに…」
「それは、無常の話だよ。感情は無常の最たる例だ」
「いいや、違う。そうじゃねぇ。命を懸けた気になるのが好きなんだ、人間は」

 僕たちは互いに互いの目から目を離さずに話していた。
 それだというのに、中也の瞳の奥は、どこか遠くを映しているような気がした。深く沈んでも、底の見えない青。

「何かに全部を預けねぇと、生きている実感が得られない。そうしていないと、長い一生を前に意味だの価値だのを求めて、見つからなくて、途方に暮れてしまう」
「……つまり君は、恋をする人間は皆、自己実現の方法を他者に求めている――と言いたいの?」
「実現…? ああ…長い一生を夢のような時間と置き換えるんなら、そういう解釈もありだな。長いつっても、ほとんど百年も生きやしねぇのに」

 くっくっ、と笑って、中也はカウンターに頭を載せたまま、黒い革手袋の指先で、カウンターに使われている花梨の古材の年輪をゆるゆるとなぞって遊んでいた。
 こういうの見たことあるな。何だっけ。
 そうだ。四方をアクリル板で囲われた、蟻の巣を観察するキット。蟻が中の砂を掘り進んで巣を作る、その生態を横から眺めているような。

「ヒマ潰し……」

 なるほど、君は、恋を知らない。
 
 
 ***
 
 

「それで、また告白もできず接吻だけして敗走したと」
「敗走なんてしてません~~! しっかり綺麗に壊滅させたし安吾に頼まれてた裏帳簿だってホラこの通り」
「任務の成功の話じゃありませんよ」

 まぁこれは貰っておきます、と言って安吾は私の手から黒いUSBメモリを受け取り、鞄に仕舞った。

「何に使うの?」
「内緒です。小銭稼ぎですよ」

 いつもの夜だった。
 退屈な仕事をして、また死にそこねて、なんとなくこのバーに足を向ければ、三人集まる。
 この頃の私は十八になっていて、組織内で歴代最年少の幹部に就任し、良くも悪くも気を遣われすぎる立場だった。
 部下に付けられた人間にちょっと世間話を振っただけで相手はがちがちに緊張して長考し、その上、面白くも何ともない返答を寄越す。
 けれどこの店にいる時間だけは、安吾と織田作と私の三人で互いに気を遣わず他愛もない会話に興じ、それでしこたま笑って夜を食い潰せた。
 そう、本当に他愛もない話をして。

「太宰君、いいかげん中也君に告白するなり、しないならしないで中途半端に手を出すのはやめなさい。組織内で噂になっていますよ。《双黒》が任務中脈絡もなく接吻するとか、見たら死ぬとか、宝くじが当たるとか」
「当たった奴がいるのか?」
「参加しないで織田作。ああやっぱり君たちに話すのじゃなかった。人生は後悔の連続だね」
「先週の『負けたら一つ恥ずかしい秘密を話す』という賭けで負けたのは太宰君ですし、そんな勿体つけて言わなくても組織内の皆知ってましたよ」
「えっ。またまた〜、そんな有り得ないでしょ。ねぇ織田作」
「知ってた」
「嘘だろ…? 第三者の口から『中也に告白』なんて単語を聞かされただけでも発狂して鍍金を飲み干す寸前の精神状態まで追いつめられたというのに、その他大勢の他人にまで知られてるなんて恥の致死量じゃないか!」
「僕は、その発狂の原因を取り除くための提案をしたまでですよ。それにその他大勢にまで知られているのは、先程言った君たちの奇行のせいです」

 安吾が奇行と言っているのは、私が中也と人目はばからずキスをしていることだろう。
 それは十六歳のある夜から始まった。ここではない別のバーで中也と酒を飲み、私は彼に「恋をしたことはあるか」と訊ねた。
 彼は「ない」と答えた。そして、恋というものは、人がヒマ潰しにするものだと言った。まるで小動物同士の喧嘩、あるいは幼児の癇癪を見守るような穏やかな眼差しで。
 その表情を見た瞬間、ほとんど衝動的に口付けていた。あれこそまさに癇癪と言えるものであったかもしれない。なんだか訳もなく苛立って、焦って、苦しくて。
 中也はぽかんとした顔でしばらく私を無言で見つめ、それから、革の感触が冷たい手を私の首筋に回すと、ぐっと顔を近づけて囁いた。もう一回。

「とっとと告白なさい。好きだ。付き合ってくれと」
「うわああああああううん……ぶくぶく……」
「ぶくぶく?」
「心象風景における溺死……」

 ハァ、と安吾が呆れた溜息を落とす。

「この際はっきり言いますけど、玉砕前提なんですから、いっそ早く言ってしまった方がいいのでは?」

 織田作がウィスキーのおかわりを頼んだ。私の目の前に置かれているグラスの中身は今夜一番に私が来店してから一ミリも減っていない。
 酒場で酒を飲んだら飲んだ分だけ、この時間の一区切りが近づくような気がして、それが物寂しかった。私はできるだけ長く、この変わり者の友人たちとオチのない与太話を続けていたかった。

「玉砕前提? 安吾、それは分からないよ」
「え? だって中也君の恋愛対象は女性でしょう」

 それがマジョリティだからというのではない。『マフィアの凡てを識る男』と評される坂口安吾が言う言葉には、必ず裏付けがある。おそらく中也の過去の交際遍歴から、胸と尻の大きな年上の気の強い女性がタイプだということまで知っているのだろう。おまえは欠片も掠ってないぞ、と言いたいわけだ。
 そんなこと、僕は三年も前から思い知っている。

「私の予想では、私が告白したら、中也は受ける」
「接吻しても拒まれないからですか? もう中也君は相棒として君の奇行に慣れすぎていて、何を言っても無駄だと諦観の極みに達しているというのが僕の見解です」
「というか、太宰と中原は恋人同士じゃなかったのか?」
「織田作さん、そこからですか? 先週太宰君が言っていたでしょう。『私は実は中也のことが前からすきで、でもどうやったら付き合えるのか分からなくて』わっ、ちょっとやめなさい太宰君、安全ピンでスーツの縫製を解こうとしない! また地味にすごく嫌なことを…!」

 先週のここでのやり取りを再現し出した安吾の上着の肩口を持っていた安全ピンでちくちく刺してやった。ぼろにされては困るとしぶしぶ上着を脱いだ彼に、いつまでも堅苦しい格好でいたから着替えを手伝ってあげたのだよ、と言ってやる。嘘おっしゃい、とすかさず返ってきた。

「まぁ先週君たちの前では一通りの恥を晒したから、いいんだけどさ」
「いいなら変な照れ隠しをしないでくださいよ」
「悪戯するのは好きだけど、されるのは好きじゃないんだ。……で、なんだっけ。そうそう、中也はフリーのときに告白されたら八割受けるよ。その相手に今まで同性がいなかったのは単に偶然と、見た目か何かの要因で中也の気が向かなかったからであって、性別に拘りはないと思う」
「じゃあ大丈夫だな。太宰は容姿がいい」
「え~~~やだ~織田作ってば、照れる」
「はぁ…じゃあ何ですか、先週の恋愛相談の時点から今日ここまでの話も全部茶番で、実際は付き合おうと思えばいつでも付き合えるし、何の問題も抱えていないと」
「うーん……半分は正解」

 付き合うことは比較的容易だと思う。タイミングと態度を間違えなければ、「おう、いいぜ」と男らしいこと極まりない返答を貰えるだろう。問題はその後だ。

「中也にとって、恋愛って『ヒマ潰し』なんだよね」
「あまり中原らしくないな」
「というか、どちらかというと太宰君寄りの価値観では?」
「そうだね。およそ全てのことは死ぬまでの暇潰しだと私も思ってる。でも、中也のそれは私のそれとはだいぶ違っていてね……なんていうのかな、神様目線っていうの?」

 かみさまめせん、と二人が同時に復唱した。

「中也自身がヒマ潰しをしたいというよりは、中也でヒマ潰しをしたい人間の相手をしてやっているという感じで…相手からの恋愛感情を全部一時のものだと割り切った上で、敢えてその舞台に乗ってやっている」
「都合のいい男のポジションが好きなんですかね」
「それに甘んじている、っていうんでもないんだよ。あの通りの性格だから、自己価値を低く見積もっているわけでもない。例えるなら、上空から人間たちの営みを見守っているような、親鳥が雛鳥を見るような、慈しみ? 的な…? オエッ言っててきつくなってきた…とにかく」

 ごくありきたりに「中也のことが好きだから付き合ってほしい」などと告白したが最後、中也の中の私は、『大嫌いな相棒』から『恋に振り回されている可愛い人類の一人』に大幅ランクダウンしてしまう。いや、彼の中ではランクアップなのかもしれないが、私にとっては、嫌われている方が余程ましだ。

「付き合えたとして、私もあの腹立つ神様目線のヒマ潰しに使われて、ある時あっさり捨てられるんだ……それだけは絶対に嫌だ!」
「ああ見えて、案外達観しているんですねぇ、彼」

 だから太宰君の相棒なんてやっていられるんでしょうか。と、ちっとも嬉しくない感想を言って、安吾は店主に自分一人分の勘定を頼んだ。

「この後も仕事か? 安吾」
「ええ。済みませんが、この後は織田作さんに頼みます」
「達観か……正直、よく分からなかった」
「そうでしょうね」
「いや、太宰の説明が理解できなかったわけじゃない。それに、中原のことをそう知っているわけでもないが――、中原は、普通の人間に見える」
「……そうですね。中也君が神様ではないとしたら、その特殊な価値観は、『知った故』である可能性と、『知らぬ故』である可能性がありますよ」
「民俗学の話してる?」
「はい。未開の風習や思考には、未開ゆえに人間のプリミティブな精神活動が色濃く表れる。織田作さんのおかげで、君たちの奇行の理由も正しく理解できた気がします」
「私は全然わからないけど…未開のゴリラの思考なんて」

 では次回までの宿題ということで。と言って、安吾は鞄と上着を手に店を出て行った。

「太宰」
「なに、織田作。ああ、さっきの話ならもういいんだよ。私も本気で相談しているわけじゃあない。ただ、君たちと馬鹿話をして笑いたかっただけなんだ」

 そう言って、あれ、ひょっとしたらこれも、自らの恋愛を舞台化して踊る行為だろうかと、思った。

「安吾の言う通りにしようかなあ。つまり、わざと振られるタイミングで告白してしまえば付き合うこともなく従って別れることもなく、私の悩みは一つ解決する」
「太宰」
「そうだそうしよう。どうしてこんな簡単なことに今まで思い当たらなかったのだろうね。中也に出会ってから今までずっと患ってきた大病とようやくオサラバだ。よぉし、善は急げ、早速今から中也の携帯に」
「太宰」
「……なぁに」
「振られたら慰めてやる」
「――いらない! ていうか、私を振るとか何様なわけ? 振られるくらいなら告白なんてするもんか! 絶対に!」
 
 
 ***
 

「だざい」
「……何」
「俺は、手前と出くわすことについて、それが偶然だったことは今までに一度しかなかったと思ってる。擂鉢街に手前が広津を連れて現れた、あの最初の一度だけが偶然だ」
「じゃあそれ以外は何だったって言うの。私が中也に会いたくて仕組んだとでも?」

 わかってんじゃねーか。と、ワインですっかり出来上がった無邪気な笑顔で、中也は私の唇にオリーブを押し込む。

「ふぁへへ。ひらはい」
「ああ、わりぃわりぃ。甘い方が好きなんだよな」

 その上からさらにドライフルーツを追加してきた。そういうことじゃない。あと、どっちもそんなに好きじゃない。

「うえっ…。中也、君の酒癖の悪さ相変わらずだね」
「今日は特別だ。迷惑のかけ甲斐があるからな」
「最悪。送らないからね、今の君の家なんて知らないし」
「だったら、俺が酔いつぶれる前に、目的を果たせよ」
「目的…? は、ちょ、ちょっと、言ってるそばからつぶれかけてるじゃないか」

 んー、と応答はもう怪しい。カウンターの上で両腕を枕にして頭を載せ、どこを見ているんだか分からない目で私の方に顔だけ向けている。
 何度も見た光景。何年振りかの。

「懐かしいなァ……手前のその…」
「私の……?」
「俺が手前に出くわすときは、いつも、手前が俺に何かをしたいときだった。大がかりな嫌がらせだったり、俺が大失敗したと耳聡く聞きつけて嫌味を言うためだったり、俺に何かを、言おうとして、言わない……」

 そういうときしか、出会わねぇんだ。
 バーの椅子と椅子の間は、こんなに離れていただろうか。うすく開いた中也の唇が、遠い。

「今夜は随分ロマンチックなことを言うね。吐きそう」
「ん? 吐いてこいよ、待っててやるから。手前も酒に弱くなったな、この四年ちっとも会わずにいた間に」
「そうしようかな」

 お言葉に甘えて、トイレに吐きに行くふりをしてこのまま置いて帰ってしまおうか。
 中也の言う通り、私がマフィアを抜けてから四年も過ぎたのだ。その間に、一人で酔い潰れたときに迎えに来させる哀れな部下の一人や二人できただろう。
 まさかいまだに私の名前を連呼して、つながらない電話番号にかけたりなんてしていないはずだ。

「四年…俺が探しても、手前が俺に会おうとしなければ、絶対に会えないように仕組まれていた。だから…」

 置いて行こうと決めて、そっと席を立った瞬間、中也がぼそりとそんなことを呟いた。

「探した……? 中也が私を? 首領の命令で?」

 中也の声は次第に小さくなり、何か言っているようだがよく聴こえない。私はせっかく立ち上がったばかりの椅子を動かして、彼の真隣にもう一度腰を下ろした。

「……だから今日は、手前が俺に会いに来たんだ…。なぁ、そうだろ。偶然じゃない。そうだって言えよ」
「…………うん」
「何が望みだ? ここの勘定か?」
「うん……いや、違う…」

 ああ、あの頃と、抱えている衝動はまるで違わないのに、そして、こうして近づけば、すぐに届く距離なのに。
 あの頃の『奇行』が今はできない。

「中也。昔、恋はヒマ潰しだと言っていたけど……今は……って、寝てる……」
 
 
 
 連れて来てしまった。
 すっごく重かった。何やってるんだろう私。
 いま中也がどこに住んでるかなんて知らないし、調べればすぐに分かることだけど、バーの店主の「連れて行け」という視線が痛くて、とりあえず中也の財布で会計して店の外に連れ出して通りにいたタクシーの後部座席に放り込んだ後、面倒になって自分の社員寮を告げてしまった。
 もう国木田君も敦君も寝ている時間だ。ポートマフィア幹部を拾って来たから寝顔に落書きでもして遊ぼうよ! と誘ってこの後の時間に付き合わせることもできない。

「なんなのもう…煽るだけ煽って、寝落ちとか…」

 腹いせに彼の頬をつまんで横に引っ張る。もう片方の手で自分の頬もつまんでみる。やっぱり中也の頬の方が全然柔らかい。大人になってもコレ変わらないのか。
 携帯端末を起動して『ほっぺ 柔らかくする 方法』で検索してみた。所在ない状態の人間が取る行動である。

「フェイスラインをラップで覆って三分間入浴? ……いや、絶対してないでしょ。してたら見たいし。普段から口を大きく開けることが多い……これかも。昔からぎゃんぎゃんうるさかったし」

 でも、口自体はそんなに大きいわけでもないんだよね。めいっぱい開いたらたぶん私の方が大きいくらいだったと思う。――キスをすると、いつも私が中也を食べているような気分になっていたから。

「そうとも知らずに、私の前で眠ったりしてさ……」

 無造作に畳の上に転がされている中也の唇にそっと触れて、開かせる。やっぱり、普段の印象よりもやや狭いその口の奥に、あかい舌が見えた。
 胸の奥でチリチリと火の粉が舞う。
 苦しい。切ない。キスをしている間は、これの処方箋のように効いたのに、今それをしたら、もうそれだけで満足できる気がしない。

「……やめやめ。飲み直して、朝になったら捨てに行こ…」
「なんだ、やめるのか…?」

 買い置きの蟹缶と日本酒を取りに行こうと立ち上がったら、しっかり理性を残した声で呼びかけられた。

「……狸寝入りとか」
「いや、タクシーに乗る直前までは寝てた。でも、俺の狸寝入りに気づかないなんて、衰えたなぁ太宰」

 中也は台所に行きかけていた私に「水くれ」と要求し、ぐるりと部屋を見回して、良い部屋じゃねぇか、と感想を言った。

「思ってもないくせに…はい、お水」
「嘘じゃねぇよ。昔、同じ手を使って連れ込ませたあのゴミ箱より百倍マシだ。今だから言うが、コンテナは人が住むためのもんじゃねぇ」
「自称君のお兄さんには、趣のあるところだと言ってもらえたのだけどね。まぁ、酷い場所だとも言っていたけど。……連れ込ませた? って言った? 今?」
「ああ、言った。この手を使うのはこれが二度目だ」

 中也は私から受け取ったコップの中の水道水をごくごくと飲み干している。私はというと、蟹缶と酒を取りに立ち上がったはずなのに、足の裏がその場に貼り付いて動かなくなってしまった。

「俺は、…俺に何か言いかけてはやめる手前の顔を見るのが好きだった。その何かの代わりにキスをされるのも」

 十五のときから好きだった。
 十六のときも好きだった。いつから気づいてた?

「十七のときも、十八のときも、いつも手前は俺のことを、――そうだ、今の手前のその目だ。その目で見ていた」
「中也……私に何を言わせようとしているのか、分かってて言ってるの? ここは私の部屋なんだよ」
「勿論。手前のその情けねぇ顔を見るのが懐かしくて、今日は最後まで言わせたくなった。あのコンテナに行った日も、同じことを考えてた。まぁあんときは、やたら何度もキスした後で手前が急な任務が入ったとか言い出して俺をあのゴミ箱に置き去りにして行ったわけだが」

 今度はその手は使えねぇだろ? と言って、彼は目の前に立ち尽くしている私に手を伸ばした。
 膝を折ってその手を取り、畳の上に縫い留めて、白い頬に触れた。柔らかい。指先で形の良い顎をとらえて唇を寄せたら、ぱん、ともう片方の手の平でガードされた。
 ころころ…と空になったコップが畳を転がる。

「ちょっと……中也、それはないでしょ」
「最後まで言わせたくなった、って言っただろ?」

 言葉で言え、ということらしい。

「ううう…いやだ」
「わがまま言うなよ。二十二歳だろ」
「私は私の恋が君のヒマ潰しにされるのも、君が私のヒマ潰しに付き合ってあげてます人間たちへの慈愛ですみたいな顔するのも腹立つ。そういうんじゃないんだ。中也が、…中也が私とおんなじ病気になってくれないんだったら、言いたくない!」
「そっ…………うか。わかった」
「なにそのニヤけた顔! 今どういう感情?」
「えっ…や、可愛いな~…って」
「イヤーッ! 最低! その勘違い甚だしい神様目線ほんとにムカつきすぎて大嫌い! 私がいつから、どれだけ…っ、ああもう、萎えた萎えました! 酔いもさめたでしょ。もう帰って。そして、できるだけ早いうちに死んでね」
「いや、待てよ。分かったから」
「はぁ? 何が分かったって――」

 数年越しに到来した致死量の羞恥に顔をそむけていた私の人並みに硬い頬が悪戯につつかれて、振り払うように向き直ったら唇が触れ合っていた。

「う……」

 その瞬間、ぶわっ、と全身の感覚が鋭くなり、与えられたものを余さず受け取ろうと貪欲に暴れ出した。
 こんなの最悪だ。完全に中也のペースじゃないか。そう思うのに、欲しいものは欲しくて、気づいたら畳の上で彼の身体に圧し掛かっていたし、息継ぎは忘れた。

「ふっ…はぁっ、はあ、…だざ、い」

 手前にひとつだけ、謝るよ。と、中也は言った。
 いつか、手前が恋とは何かと俺に訊ねたとき、俺はそれを知っているつもりで答えた。と。

「けど、本当は知らなかったんだろうな」
「俺は、今の手前みたいな顔で誰かを見つめたことがない。その目が俺を見なくなって、四年……。足りなかった。何が足りないのか分からねぇけど、足りなかったんだ」
「なぁ、『これは何?』 教えてくれよ、太宰」

 中也の唇が、私の上唇をぱくりとついばみ、こちらの舌を揶揄うように尖らせた舌先でつつく。以前は犬みたいに一生懸命口を開けて吸い付いてきたのに、自分の口が私より小さいと分かってそれを楽しむような動きだった。

「七年遅れでやっと罹患してくれたの? しかたないか、犬は人より丈夫な生き物だものね」
「犬に芸事を教えるのは飼い主のつとめだろ」
「おや、犬の自覚あったの」
「ああ。飼い主の方には自覚が足りなくてがっかりだよ。普通は四年も放置されたら飼い主のことなんて忘れる」
「うふふ…忘れた?」
「ああ忘れた。キスのやり方も変わるくらいには」
「っ! やっぱり! 他でヒマ潰ししてたじゃん!」
「うるせぇ! 手前が言えた話かスケコマシ!」
「中也のビッチ! やっぱり遊びと弄びは同じだ!」

 しばらくそんな言い争いを続けた後、静かにせんか! という隣室の国木田の怒号と壁を殴りつける音で私たちは顔を見合わせ、今すぐ離れたくなる気恥ずかしさと、どうにも離れがたい名残惜しさで、何も言わずにキスを続けた。

 長いこと、自分はこの世界に間違って迷い込んだ存在のように感じていた。それが、ある日アクリル板の向こう側から現れた存在に釘付けになって、死ぬこと以外の出口があることを知った。
 出口の先も退屈な現実であることに変わりはなかったが、少なくとも恋をしている間は、今日よりも明日、明日よりも明後日、より心を揺さぶられる出来事への予感に震えて、それに明け暮れていられる。

「ねぇ、中也に飽きちゃったらどうしようかな」
「殺してやるよ」
「最高!」

 そうして私は先の心配もなくなって、やっと掴んだ恋の柔らかい皮膚に噛み付いた。