プール

2023年3月4日

 わざわざ探しに来てやったわけじゃない。
 ただ校舎の窓から彼の姿が見えたから、彼が一人で延々と水の底を覗いていたから、うんざりしながら冷やかしに来てやったのだ。

「何してるのさ、こんな所で」
「太宰、丁度良かった」

 これ何だ? と彼は自分の足元の凍った水面を革靴の踵で叩いた。

「プール」

 プール。私の言った言葉を繰り返し、へぇこれが、と珍しそうに氷の奥を覗き込みながら、彼は氷上にしゃがみ込んだ。

「割れても知らないよ」

 青いペンキの三の文字がかすれたスタート台に腰掛ける。ずっと凍っているんだろう、今さら割れっこねぇさと鼻で笑った。

「田舎にはまだ取り壊されずに残っているのがあるって聞いたが、本当なんだな」
「そーね。私達のいた街じゃ実物を見ることはなかった。取り壊すのだってタダじゃない。放っておいた方が合理的な場合もあるのさ」

 これっていつの氷なんだろうな、と彼が言う。
 君がここに来てからじゃないの、と私は言わずにポケットから出した飴玉を口に放り込む。

「夏が来なくなって、外の水は凍って、プールっていうとあめんぼとかがいたんだろう、たしか? この中に閉じ込められたそういうのは、凍っている間なにを考えているんだろうな」
「死んでから凍ってる。死体は何も考えないさ」

 急に何をおセンチな話を始めたのだろうこの馬鹿は。こういう奇妙な行動、自分の記憶の中の中也とのズレが太宰にはいちいちたまらなく腹立たしいのだった。

 空からばら撒かれた白紙の文学書の紙片。中也は大規模なブラックホールを展開し、それら紙片を全て呑み込むことで無効化しようとした。何度思い出しても無謀な作戦である。掃除機じゃあるまいし、変なもの吸ったら壊れるとか思わなかったわけ? 本当に私がいないとろくなことを思いつかない。
 地上に落ちてきた中也を受け止めたとき、汚濁形態を解除することはできたのだが、白紙の文学書が持つ強大な異能のエネルギーは中也の重力子を逆に取り込み、切り分けられたそれぞれの紙片の世界へと持ち去った。そのとき、制御装置である中也の人格と呼べるものも分かたれ、連れて行かれてしまった。私はおそらくそのさなかに中也に触れて彼の異能に干渉したことによって、その世界と現実世界を行き来することが可能になっている。現実世界で目を覚まさなくなった中也に触れて眠ることで、彼の夢に潜るようにして。

 私の頭脳を持ってすれば、散り散りになった中也を全員連れ帰ることなど造作もないと思っていたのだが、一人目の中也の時点でもう体感時間四年は手こずっている。中学生という設定で開始されたのも良くなかったのか、世界に起こった事実と今いるこの世界の真実をまじめに語り聞かせたらものすごい生温かい目で「そういう時期ってあるよな」と言われた。頭にきて目が覚めてから隣に眠っている中也の顔に落書きした。

 与えられたシナリオから外れた行動をしたらどうなるのだろうと、中也と通っていた都会の私立校から、黙ってど田舎の公立校へ転校してみた。そこには私の知る顔が異常に多く、そのことに不気味さを感じつつも、友の顔をしたキャラクターに絡んで日々を過ごしていたら、中也の方から私を追ってきた。

「ねぇ、なんで私を追ってきたの。向こうへ帰る気はないんでしょ?」
「なんだよ、また『向こうの世界』の話か? 中二病め……やっぱ無理か」

 中也はプールの上に立ち、両手を広げる。突然氷上に亀裂が入り、驚いて手を伸ばした私を、彼はからかうような顔で見返した。

「手前と俺が十五の時、同じ学校に通って、普通に学生やってたら、こんな感じだったか。そんなことをうっかり考えちまったら、あの紙くずの『筆者』にされちまったみてぇだ。手前のことを笑えねぇ。俺が誰より……こんな世界、寒いと思ってたよ」

 彼の足元の氷が砕け散り、咄嗟にスタート台を正しく使ってしまった。躊躇いもなく跳ぶんじゃねぇよ、と彼はくすくす笑って、冷たくも温かくもない真っ暗な穴へと落ちていく。腕を掴まれ頬を撫でられたかと思った瞬間、学生ごっこをやってこのかた初めてキスをされていた。
 四年も付き合わせてわるかったな。まぁ少しは俺の気持ちも分かったろ。
 それじゃ次の世界の俺によろしくと、そう言って離された手が、目が覚めて隣にあることを確かめて、私は深くため息をついた。