みそか

2023年3月4日

やぁ中也、部屋暖めておいたよ。
私がソファーでくつろぎながら手を振ると、部屋の主人は眉を顰めてため息を吐き、手に持っていたスーパーの袋を二つ、シンクの上にどさりと置いた。

「頼んでねぇよ。ったく…よく殺されずに入って来れたな」
「何言ってるの。大晦日だからって護衛を引き上げさせたのは中也じゃない」

油断してるなぁ、君の首を欲しがっている組織がいくつあると思ってるの。
中也は私の小言をうるさがるように目を逸らし、帽子と外套を脱いでコートスタンドに掛け、最後にうやうやしく真紅のストールを肩から外した。
前首領・森からポートマフィア首領就任の祝いに贈られたストール。中也は森さんの使っていたものが欲しかったそうだが、これから身につけるものにはより気を遣わなければいけないよとやんわり断られて同じ仕立ての新品を贈られたらしい。それを大切そうに扱う中也を非常に面白くない思いで見つめる。
どうやら今年も、あれを燃やせずじまいのまま年を越すことになりそうだ。
分かっている。自分が森から贈られた外套を燃やしたのとは意味合いが違う。現ポートマフィア首領が前首領から贈られた持ち物を、武装探偵社の社員が奪い燃やす。それは組織間抗争の開戦の狼煙でしかない。ただの嫌がらせの後始末にしては負債が勝ちすぎるのだ。
自分から中也への嫌がらせなのに、自分と中也の間だけで完結してくれない。今の中也は、抱えているものがあの頃よりずっと大きくて重い。自分とて、好き好んで探偵社の皆を巻き込みたいわけではない。

ふと、女々しくも過ぎた時代に想いを馳せた。
十代の自分なら、それでも嫌がらせを実行できただろうか。そんなこと知ったこっちゃないと。あれは私の犬なのだからと言って。
あるいは、二人で一緒に暮らしていた二年間。あのときの自分なら、ねぇそれ捨ててよ、嫉妬しちゃうと今なら口が裂けても言えないような本音をさらりと言えたのか。

「勝手に押しかけといて、辛気臭ぇツラ見せてんじゃねぇよ」

ゆったりとした部屋着に着替えた中也が、テーブルの上のリモコンを取ってテレビを点け、居座るんなら手伝え、そろそろ始まっちまうと言ってキッチンへ行った。

「紅白なら七時半からだよ?」
「はぁ? 何言ってんだ、大晦日はRIZIN見るに決まってんだろ。六時からなんだよ」
「げー。普段から暴力三昧のくせに何が楽しいわけ?」
「格闘技と暴力は違ぇんだよ。……ふ、」

懐かしいやり取りさせんな、ばか。
思わず笑ってしまった中也が急に険のない声で言ったので、それ以上「ごっこ」を続けることができなくなり、私は、何を手伝ったらいいの、とシンクの上に食材を並べている彼の隣に立った。

「んー、そうだなぁ…白菜を…いや、蓮根…うぅん…昆布…そうだな、昆布を表面ちょっと拭いて水と一緒に鍋に入れて、沸騰しそうになったら大人の人を呼んでくれ」
「はーい! ……あのね、馬鹿にしすぎでしょ、私のこと」

だいたい大人の人って誰のことさ、と嫌味で言うと、隣に立つ男は「俺のことだよ」と答えながら白菜の芯を切り落とした。もう三十四だ。

「同い年なんだけどなぁ。中也、水ってどのくらい入れたらいいの」
「てきとう……あー、六百くらいかな。このカップで二杯」

言われた通りに、鍋の中でふらふら揺れている昆布を監視しながら、野菜を切り終えた中也が蟹の胴体と足を切り離しているのを、嬉しさを噛み殺した変な無表情で眺める。

「わぁー! 蟹だ! 中也大好き!」と言って彼に抱きつく自分の幻が、湯気の中に一瞬よぎって消える。おい沸騰してるぞ、呼べよ大人の人を。中也がその湯気の中に割って入って、昆布を取り出し、酒やら味醂やらを入れて一度味見してから蟹を投入していく。

「まったく手前は、台所じゃコーヒー淹れるしか能が無ぇんだから」
「コーヒー淹れられるようになっただけ褒めてよ」
「なに甘えてんだ。ほら、次はフライパンの蓮根の監視。焦がすなよ」
「そっちが子ども扱いしたくせに。……これも鍋に入れるの?」
「いや、それは副菜で焼きびたしにする。鍋だけじゃ食感がさみしいだろ」

キッチンから見えるテレビの画面が、何色ものレーザーライトでびかびかと光っている。中也の年末のお楽しみ番組が始まったらしい。中也はちらちらと画面を気にしながら、「最初のカードは流し見でもいいから」と誰に向けているのか分からない釈明をして、白菜と椎茸、焼き豆腐を鍋に入れる。それから菜箸で蓮根を転がしていた私の体にとん、と寄りかかり、横から手を出してフライパンの火を止めた。
こんなことでどきっとして、大人ってこんな恥ずかしいものだったかしら。
IHコンロが収納されている棚を行儀悪くつま先で指して、これ持ってけと指示される。ハイハイとテーブルの上にそれをセットして、そろそろだろうからと、二人分のグラスと中也が冷蔵庫に常備しているピクルスとチーズを出して並べる。

「今日はあれがいい」

そう言われて、白ワイン用のワインセラーから一本取り出し、ラベルを見せてやると、満足そうに口角を上げた。ソムリエみたいに使うなと抗議しないのは、そのワインセラーを開けたら、彼が飲まない日本酒のボトルが三本も揃っていたからだ。

「よし、第三試合には間に合ったな」

最後にせりと残りの蟹を加えて蓋をし、テーブルの上のIHコンロの上にその鍋を置いて弱火の設定でくつくつと煮始めた。

「それじゃ、食おうぜ」

私たちは一つのソファーに横並びに座って、乾杯もせずに、それぞれの酒を飲み始める。生姜と胡麻の味がする甘酢ダレに浸った蓮根は、シャキシャキしておいしかった。そろそろいいかな、と中也が鍋の蓋を開けると、蟹と出汁のいい匂いがふわりと漂い、思わずじっと凝視してしまった私のことを、隣で満足そうに見ていた。

「……ねぇ、紅白見ようよ」
「見ねぇって。手前だって普段から歌番組なんて見ねぇだろ」

どうしてだろう、ちょっといじわるしたかった。あまりに中也の部屋が、隣にいるのが、心地よくて、中也のごはんがおいしそうで、少しかなしくなったんだ。
君をさらって、毎日こうしていられないのはなぜかな。
自分たちがそれを望んでいるのに、許してやらないのも、また、自分たち。

「……じゃあ、石川さゆりが出たらチャンネル変えて」
「……は? なん、なんで?」

びっくりして変な口調になった中也に、さて何と返したものかと一秒で考える。
たぶん彼女なら今年の紅白にも出ているだろうってことと、たぶん大御所だから後半に出番があって、格闘技も人気選手の対戦は普通は後半に組まれているだろうから、中也の邪魔をするには丁度良さそうだと思った、実際の理由はそれだけなのだが。

「……なんでって? 別に…好きな歌手がいたらおかしい?」
「好きな歌手? 初めて聞いたぞ」
「君に話してないことくらいあるさ。……似てるんだよね、ちょっとだけ」

母親に。そう言ったら、中也は一瞬だけ目を見開いて、信じられないくらい下手な演技で「ふーん、あっそう」「手前も人の子だったなぁ、そういえば」と言いながら、右に座っている私からは見えないように左手でスマホを操作し始めた。絶対に今「紅白 石川さゆり 時間」で検索している。現金なもので、たちまち気分がよくなった。

「ねぇ、中也」
「なんだよ」
「蟹、おいしい。ありがとね」
「なっ…大丈夫か手前、また変な異能にかかったんじゃねぇか」
「大晦日だもの。少しくらいは素直になるさ」

蟹すきと、お酒と、「おーっとここで流れるようなタックル! 不屈! 不屈の闘志です!」…なんか暑苦しい実況と、たぶん満腹になって夜も更けたころに懐かしの演歌が聴ける。
大晦日に部下を働かせたくないこのちびっこボスは、毎年楽しみにしているくらい好きなこのイベントを現地会場に見に行くことはしないのだろう。日付が変わっても、私と二人だけじゃ初詣にも行かないかな。私といること以上に、安全なことなどないというのに。

「……なぁ、太宰」

石川さゆりの出番は調べ終わったのか、中也の左手は赤ワインの入ったグラスをくるくる回している。新年になる前に潰れるんだろうな、どうせ。

「なぁに?」
「部下たちは休ませたが、俺は今日も働いてた」
「ああそう、おつかれさま」
「明日は一切仕事しねぇ。本部が襲撃でもされねぇ限りは、一日オフだ」
「……その心は?」
「明日はどこか出かけようぜ。で、手前は俺の後にこの部屋へ入る。久しぶりに、ただいまぐらい言って入って来いよ」
「……だいじょうぶ? 中也」

蟹で頭こわした? と尋ねると、こわすなら腹だろ、と律儀につっこんで、そういうわけで、決まりだ決まり、あともう一つ、と勝手に次の話題へ進む。

「手前が嘘から生まれた嘘太郎なのはもうとうに諦めてるが、さっきみたいなのはやめてくれよ」
「嘘太郎て。…気づいてたの?」
「何年一緒にいると思ってる。…だから、ああいう大事なことは、知らなかったと思うと嫌というか、ちょっと…さみしいだろ」
「蓮根の副菜の存在理由と同じじゃん」
「気づいたか」

なきゃないでいいが、ないとつまんねぇだろ。そう言って今度は遠慮なく全身の体重を私に預けた。目の前のテレビ、消したら怒られるかな。怒られるんだろうな。
中也が酔いつぶれる前に、そういう雰囲気に持っていけるだろうか。
何年も一緒にいすぎて、今更そんなことで悩む。

「明日私がただいまって言ったら、ちゃんとおかえりって言ってよね」
「おー、まかせとけーい」
「軽っ! もうだいぶ酔ってるじゃん!」

もし君が、明日私と初詣に行ってくれたなら、あのストールが自然発火してくれるようにお祈りしよう。
そして肩の荷物を下ろした君と、新しい年を暮らせますように。