白衣と袈裟

「それでね、院内の公衆電話を幾つか撤去しようかって話になって、地下三階は駐車場に一台、廃棄物センターにも一台あるから、霊安室前のやつはいらないねってことになったのだけど」

 数珠を手繰り寄せ、真言を繰り返し唱える。

「業者が来る前日、突然その一台が鳴り出すようになったのだよ。確かに電話番号は割り当ててあるけど、どこにも公開していない。それなのに昼夜問わず何度も。上の診察室まで聞こえることはないけれど、駐車場で運悪く聞いてしまったスタッフが怖がっちゃって」

 男二人の噛み合わない声と声が、冷たい廊下に反響する。
 こういう大きな建物内での除霊がいっとう面倒である。スプリンクラーや火災報知器の性能が一般の住宅とは段違いだし、数も多い。灯明や香を焚いて浄化することができない。
 一度、お祓いの間だけ電源を切ってもらえないかと聞いてみたことがあるのだが、点検の際を除いて安全上の理由でできませんと断られた。言ってみればこの作業も「点検」のようなものではないかと思うのだが、腐っても僧侶の身の上で、あまりに業者じみた発言をするのもはばかられた。
 その結果、問題のフロア一帯をぐるぐる歩き回りながらひたすらに読経して浄化していくというローラー作戦しかなくなったわけだ。これの何が嫌かというと、とにかく時間がかかることと、その間ずっとこの白衣の男に付き纏われることである。

「今日もあの派手なバイクで来てたでしょ。よそのお坊さんみたいにオートバイにしなよ、身の丈に合わせて。あ、これは比喩ではなくてそのままの意味だよ」

 よくもまあぺらぺら喋る。教師、歌手、アナウンサーに並ぶ声帯酷使職業である僧侶の自分でも、乾燥した屋内を歩き回りながらの読経で声が掠れてきたというのに、後ろを付いて歩きながら延々喋り続けていたこいつは咳払い一つしない。
 振り向きざま、代わりに俺がでかい溜息を吐いてやった。

「……あとは霊安室の中だけだ。今日は仏さんは」
「いないよ。君が着く前に葬儀屋がみんな引き取っていったから今は空っぽ」
「病院は廃業してお化け屋敷にした方が儲かるんじゃねぇか? いるぜ。しかも一体じゃねぇ」
「うーん…一応大学病院だからね、儲からないから立ち退きますってわけにもいかないのだよ。それに、人は恐怖にもすぐ慣れる。ここにいる幽霊さんたちが毎回手を替え品を替え脅かしてくれるというなら別だけど、ね」

 ピシッ!と家鳴りのような音が鳴った。

「そら見ろ、怒らせたぞ」
「おや、そう? 死んでまで働かせるなって?」

 これはうちの寺に心霊絡みの相談で来る人間の十人中十人が口にするラップ音というやつである。その大半は相談者の気のせいか、本当にただの木造建築特有の家鳴り現象なのだが、残念ながらこの病院の柱は全て鉄筋コンクリートだし、目の前にいる男に今の音は聴こえていない。

「相変わらず亡者を煽る才能だけは一級品だな。見えも聴こえもしてねぇくせに、このポンコツ長男が」
「出た、中也の霊感ハラスメント。責められたって無いものは出せないの。まぁ実際見えてないけどさ、要するに、この霊安室がタマリ場になってるって展開なんでしょ?」

 首から提げていたIDでドアロックを開錠し、先に入ろうとした太宰の腕を掴んで止めた。彼は面食らった顔で何?と言ってこちらを振り返る。

「外で待ってろ。手前に何かあったら説明が面倒くせえ」
「誰に言ってるのさ。こう見えても私、超強い霊能力者の血を半分引いているのだよ? 知ってると思うけど」
「知ってるわっつうか俺も同じ血を半分引いてるわ! 勤行も果たさず還俗した手前に御仏の加護が一ミリでも残ってるわけねぇだろ。秒で取り憑かれて死ね」
「中也こそ、そんな派手な髪色で坊主とか言われても説得力ないのだけど。剃髪に失敗して死んで」
「剃らねぇし! 手前は落ちてるメスに刺さって死ね」
「落ちてるわけないでしょ。何もうネタ切れ?」
「そこに落ちてるから言ってんだろうが。手出したナースに毒盛られて死ね」
「ふふ悪いけど女性関係の管理は完璧――……どこに落ちてるって? あら、本当だ」

 太宰は背後から俺の右肩にのしっと頭を載せて、霊安室の床にぽつんと落ちている銀色のメスに視線を向けた。

「管理どうなってんだよ。手前の落とし物か?」

 わざと体重をかけてくるその邪魔な蓬髪を振り払い、俺は部屋の中へと足を踏み入れ、拾ってやろうと手を伸ばした。
 一瞬、かたっ、とその刃先が震えたように見えた。

「中也! 離れろ!」

 太宰が声を張り上げた。床に落ちていたメスはひとりでに浮き上がり、俺の喉元目がけ一直線に飛んできた。反射的に部屋の隅へ飛び退き、間一髪のところで急所は外せたが、袈裟の上からざっくりと肩を裂かれた。焼け付くような痛みに思わずその場で膝をつく。

「中也、血が……!」
「っ…さわぐんじゃ、ねぇよタコ……くそ、こいつは」
「ポルターガイストだね」

 天井の蛍光灯がジーと音を立てて明滅し始め、遺体保管用の冷蔵庫がガタガタと激しく揺れ出した。

「チッ…今日は空っぽだったんじゃねぇのかよ」
「そのはずなんだけどねぇ」

 でもこれで、鬱陶しがられても付いてきた甲斐があるというものだ。そう言って太宰は俺を立たせると、後ろから俺の肩を抱き、ほら、やっちゃえ、と囁いた。

「今日は最悪の一日だ」
「謝礼は弾むよ。出すのは私じゃなくて院長だけど」
「金だけの問題じゃねぇんだよ」

 もう太宰からの仕事なんて受けなくてもいいくらい、太宰の力なんて借りなくてもいいくらい、俺がまともな後継ぎになれていたなら、一時の収入につられてのこのことこいつの前に顔を出す必要もないというのに。
 父さんが生きていたら、きっとこの部屋に入っただけで除霊完了していただろう。父を手伝っていたころの太宰も、同じくらい強い力を持っていたはずだ。
 うんざりだ。こんな半端な力しか持っていないのに、寺を継がされて、存続させるだけで精一杯な自分にも、ある日突然「見えなくなった」と言って俺を一人残し、俗世に消えていったこいつにも、だというのに頻繁にこうして呼びつけられることにも、同じことばかり考えている自分にも!

「オン。ア……」

 真言の一音を唱えただけで、鈴のように澄んだ音が自分の唇から吐き出された。
 印を組む指先は火の灯ったように熱い。太宰に触れられている肩から、密着している背中から、マグマのように熱くて、テンションをおかしくさせるエネルギーが流れ込んでくる。無理やり覚醒させられるような不快感と、何でもできそうな全能感に満たされていく。
 神様に成ったかのような気分だった。俺の声、視線、指の動きだけで、暴れ狂っていた亡者たちが大人しくなっていくのが分かる。
これが、今の太宰の持つ力だった。霊が見えなくなっても、父親から受け継いだ法力は残っていて、俺のような霊感のある人間に直接触れることで、それを増幅させることができる。
 遺体保管用冷蔵庫の扉がひとりでに次々開き、中からスライド式の金属板が押し出されてきた。太宰が言っていた通り、中には誰もいない。宙を舞っていたパイプ椅子も床に落下し、蛍光灯は耳障りな音を立てて消えた後、壁のスイッチを何度押しても点灯しなくなった。壊れてしまったらしい。

「あーあ、先月交換したばかりなのに。霊ってどうしてすぐ電化製品を壊すのだろうね」
「……電気は…干渉しやすいからだって昔、父さんが……」
「……中也? うわ、肩の出血すごいよちょっと、中也!」

 視界がぐるんと回って、真っ白な何もない天井が見えた。

「つまんねー場所……」

 太宰。手前はなんでこんな場所にいる。
 二人で本堂に寝転んだとき、いつも天井には極彩色の宇宙と、この世のものではない花、荘厳な竜が描かれていた。
 半分しか血のつながりがなくたって、手前は俺を、兄弟と思っていてくれたんじゃなかったのか?

「……治。なんで…出てった……?」

 だめなんだ。俺では、あの人の後継にはなれない。
 俺は、悪いものを寄せるばっかりで、祓うなんて――。

♡  ♡  ♡

「は? 見えなくなったぁ?」
「うん」

 なんでだろ、こないだ童貞捨てたからかなぁ、と僕が言うと、「どっ」と息を詰まらせて、中也は僕の部屋に敷きっ放しの布団に目をやった。

「やだなスケベ。さすがにウチには連れ込まないって」
「スケベはどっちだよ! いつの間に…つか、その理屈は成り立たねぇだろ、父さんに俺たちがいる時点で」
「そだね。僕の母さんと見合い結婚した後で、パブで働いてた中也のママに入れ揚げて愛人にして、彼女の遺言で隠し子の中也がいきなりうちに来て、母さんは怒って家出。家出って言っても実家に帰っただけだけど。でもそれを追いかけて謝ることもしないでいるんだから、なかなか絵に描いたようなクズというか、生臭坊主だよね」

 この話をすると、中也はいつも申し訳なさそうに下を向く。
 僕は一応本妻の息子で、中也は父がよそに作った隠し子。それは紛れもない事実だが、そのことに傷ついているのは僕の母だけだし、なんなら母もここでの質素な暮らしを脱して、大病院のお嬢さんに戻る口実ができたわけだから、実際うじうじ気にしているのは中也だけだ。

 十五の夏、小さく折り畳まれた便箋一枚握りしめて、赤毛の少年が寺の楼門の前に立っていた。
 楼門の二階は僕の秘密基地だった。僕はそこで母に隠れてゲームをしながら、格子窓から彼を見下ろしていた。
 ここはどこの町にもあるような仏寺だが、住職である父がテレビの心霊企画で人気アイドルに取りついた霊を除霊してみせてからというもの、その手の相談客が連日訪ねてくるようになってしまった。父は出張相談も受けていたので、父が不在の日にアポなしでいきなり来られることも多く、どうせあの少年も、その手の厄介な相談客だろう。そう思って最初は無視していた。
 やがて日が暮れて、門前の仁王像の真上に設置している人感センサーライトが点灯した。少年はまだそこに立っていた。

「あのさぁ」
 僕と同い年くらいだろうか。背が小さいから、年下かもしれない。だから同情したってわけじゃなかったけれど。

「ずっとそこにいられると、セコムが来ちゃうんだけど」

 気が付いたら声をかけ、二階に招き入れていた。

「手前…ここの寺の子か?」

 彼は元からここに置いてあった古い掛軸や仏像と、僕が後から持ち込んだゲーム機器とを交互に見て、僕に尋ねた。

「てめぇじゃない、治。ここの住職の息子」
「息子……」

 そうか、と呟いた声が、湿っぽい板張りの床に沈んだ。

「残念だったね、父さんなら留守だよ」

 父はいませんと言うと、アポなし突撃客はいつもこういう反応をするし、慣れっこだったはずなのだが、このとき僕は無性にいらだちを覚えた。

「……言っとくけど、父さんじゃなくても、君が外に連れてきたアレくらいなら、追い払ってやれるよ」

 格子窓から外を見下ろすと、黒い二本足の生き物が三匹、門の前を行ったり来たりしていた。サイズと動きは日本猿に似ているが、その顔には目も口も見当たらないので、厳密には「生き物」ではないのだろう。だから、父さんがこの敷地内に張り巡らせている結界の中に入ってこられないのだ。

「見て、ほら。ちょうど三匹いる。三猿だ」

 僕が人差し指の先をそれらに向けて右から左へ動かすと、三匹は頭のてっぺんに糸でも付いているかのようにぐいっと引っ張られ、横一列に整列した。隣で様子を覗いていた少年がぎょっと目を丸くする。

「入れないのは明らかなのにあそこに留まっているのは、君が出てくるのを待っているのかな。好かれてるね」
「ついてきたんだ…昔から、そういう体質で……」
「ふーん。成程、それで父さんに祓ってもらいに来たわけだ」

 見えない拘束から逃れようとじたばた暴れ出した三匹に指先を向けたまま、今度は左から右へすいと線を引く。すると、三匹は同時に足元からぼろぼろと灰になって崩れた。
 すげぇ、と素直に感嘆の声を上げられたのがむず痒い。

「ここの敷地内にいれば、とりあえず安全だよ。霊を寄せる体質自体をどうにかすることは僕にはできない。明日父さんが帰ってくるまで、しょうがないからうちに居れば」
「え、いいのか? 俺、金は持ってな……」
「宿坊じゃないんだから、宿代なんて取らないよ。あ、でも母さんには僕の友達って伝えるから、口裏は合わせてね」

 わかった。と返した声には緊張の色が滲んでいた。
 君、名前は? と尋ねたら、彼はずっと手に握りしめていた紙の切れ端を広げて僕に差し出し、なかはらちゅうや、と名乗った。それはある女性から父へ宛てた手紙だった。

「俺はたぶん、手前の兄弟だと思う」

♡  ♡  ♡

 ゆっくりと意識が浮上してくるにつれ、肩の痛みも鮮明になってきた。ずきん、ずきん、と心臓の鼓動のように脈打つそれを感じながら、俺は静かに息を吸って、吐く。
 身体は少し硬い寝台に横たえられていて、微かに消毒薬の匂いがする。きぃ、と回転式の椅子が回る音がした。薄目を開けると、すぐそばで薄緑色のカーテンが揺れたので、俺は再び瞼を閉じて、眠っているふりをする。

「ちゅうや」

 太宰の声だ。
 変わらない。俺が眠っているとき、そっと俺の寝所を訪れて、まず俺が寝ていることを確かめるために名前を呼ぶ。
 それは普段の挑発的な呼び方ではなくて、そのときだけ、とても大切な、オルゴールか何かのように呼ぶのだ。

「中也、そろそろ痛み止めが切れるころだけど。大丈夫?」

 瞼の外に感じていた眩しさがまた遠のいていく。カーテンが内側から閉められたのだ。
 仰向けに寝ている耳のすぐそばで、ぎし、とベッドの軋む音がして、シーツが沈んだ。天井を大きな人影が覆い隠す。

「まだ起きないの……?」

 首筋にひたりと冷たい手の平が触れた。
 手が冷たい人間は心が温かいなんて、とんだデマだなぁと俺は思う。昔は、やっぱりそうなんだ、と思っていた。太宰がこうして密やかに俺に触れ、優しくキスをする度に。
 俺は目を覚まさない。
 自分が寝ているときに太宰の気配を感じると、条件反射でこうされることを待ってしまう。よく躾けられた犬のように。
 好きだったのだ。俺に気づかれないようにされる口付けが。
 何の見返りも得られないのに何度も触れてくれるのは、俺に対する親愛からだと思っていた。突然現れて家庭をめちゃくちゃにしたのに、俺という個人を必要としてくれていると。
 なんてあさましい。太宰が変わらないのではなく、俺自身が太宰にあのころのままでいてほしいと望んでいるのだ。
 欲しがりだね。と、からかうように囁かれた言葉は、吐息を感じるくらいにすぐ至近距離で聴こえて、次の瞬間、唇が唇で塞がれた。
 少年時代の戯れを、なぜ今になっても再現するのか問いただす気にはならなかった。この口付けがあのころと同じものであるならば、ほんのひと時ふれるだけですぐに離れていくものだからだ。

「んっ……ふ、っ、」

 けれど、そんな未来予測は裏切られた。てっきり軽く重ねるだけだと思っていたキスは、何度も角度を変えて落とされ、その度に少しずつ舌先で口をこじ開けられていく。
 歯を舐められた、と感じた咄嗟に上がった右手を、太宰の左手で体重をかけて押さえ込まれ、指を指で縫い留められた。

「いッ……」

 ならばと左手を上げようとしたら、左肩の傷口を中心に左半身がずきいっと痛んで、思わず顔が歪み、声が上がった。
 今のはごまかしきれない。観念して両目を開けると、太宰が俺の身体を跨いで、にやにやと見下ろしていた。

「……怪我人を押し倒すなよ」
「主治医が声をかけたのに、寝たふりしているからさ」

 俺が着て来た墨染は左半分だけ脱がされて、怪我をした肩から二の腕にかけてぐるぐると包帯が巻かれていた。

「結構縫ったよ。痛みが取れるまで左手は使わない方がいい」
「勝手に縫うな。同意してねぇぞ」
「手術の同意書ならちゃんとご家族に書いてもらったよ?」
「家族? 誰だ?」
「私♡ お兄ちゃんありがと♡って言ってもいいのだよ?」
「元家族だろ! 手前は母方の姓に戻っただろーが、ってか誰がお兄ちゃんだ! 昔から言ってんだろ俺の方が手前より誕生日早いんだよ! っ、いてて…」
「ああほら、大きな声出したりしたら傷に障るって」

 誰のせいだ誰の。じっと睨みつけると、太宰は楽しそうに笑って再び顔を近づけた。白衣の襟から、ふわりとサンダルウッドの香りがする。香木からのやわらかい移り香とは違う、香水の甘く残る匂い。

「や……めろって!」

 右手は押さえつけられているし左手は痛い。顔を背けて逃れようとするも、空いている方の手で顎と下唇をがつと掴まれて、乱暴に口付けられてしまった。にゅるりと濡れた粘膜が侵入してくる。

「んは…っ、ん、ん! ~~ッ、う、ゃ、め……」

 太宰の舌が俺の口の中で、歯列をなぞり、上顎のでこぼこを通って、舌の裏側にまで潜り込み、小さなひだを突つく。
 俺はされるがままその動きに翻弄されて、溢れてくる唾液が口の端から垂れるのも止められず、息継ぎのチャンスを伺うので精一杯だった。何もできずに硬直していた自分の舌に舌が絡まり、じゅ、じゅっ、とあけびの汁を飲むように吸い付かれる。臍の下がじわりと熱くなった。
 これが何なのか。それくらいの知識はあったものの、高校卒業後すぐに寺を継ぐための修行に入った自分の性の実体験は、十代に太宰からされていた優しいキスで止まっている。
 あの寝物語の最後に落とされるような心地良い唇の感触が、自分にとっては最上のいけない秘密だったのだ。
 それが急にこんなの、とても太刀打ちできない。毒でも飲まされているかのように口の中が痺れて、喉元から背骨まで、ぞわぞわと変な感覚が走り抜ける。

「ふふ……。ちゅうや、気持ちよさそうな顔してる」

 気持ちいい? この変な感じは、快感なのか。分からない。どちらかというなら、どうなってしまうかと、…怖い。

「昔は、こんなこと…しなかった……」
「そりゃそうさ。今はもう大人だもの。私も、中也も」

 大人は寝たふりなんてしないんだよ。そう言われたら、なんだか突き放されたような気分に陥った。

「もう家族じゃないから、だからこんなことを?」

 今のキスは、兄弟ですることじゃない。
 途中から同じ苗字になって、途中からまた違う苗字を名乗ることになった自分たちが、果たしていつから兄弟で、いつから兄弟でなくなったのかは知らない。俺をあの広すぎる寺に一人残して出て行った太宰になら、分かるのだろうか。

「そうだよ。家族のままでいたら、できなかったことだ」

 太宰はこともなげにそう返し、再び顔を近づけた。
 起き上がって頭突きをお見舞いしてやろうとしたら、読んでいたのかひょいと身体を離して、俺を押さえつけていた手も放した。指と指の隙間が涼しく感じた。

「ご苦労様。お代はいつもの口座に振り込んでおくよ」
「もっといい霊媒師がいるだろ。次からは俺を呼ぶな」
「中也がいいのだもの」
「…………手前なんか、」

 その後に続く言葉を飲み込み、俺は着衣の乱れを整えると、まだおぼつかない足を引きずりながら診察室を出た。

♡  ♡  ♡

「よし……これで元通りかな」

 人気のなくなった霊安室で、脚立を使い、備品庫から貰ってきた新品の蛍光灯に交換する。
 中也が怪我を負ってまで成仏させてやったのに、もう別のよくないものが集まり始めていた。次は、最初から出そうな部屋全部に蛍光灯のスペアを隠しておいた方が早そうだ。
 いわくつきの穢れきった土地の上に建てられた病院。この土地にあるから、私は母の実家ではなくこの病院を選んだ。
 霊を寄せる体質の中也が来ると、普段は大人しくしている雑霊たちが騒ぎ出す。毎回、中也を呼ぶ前までは心霊現象なんて起こっていないのだ。彼は自分が寄せ集めた霊を除霊して帰っているだけ。無自覚なマッチポンプ。

「でも、怪我をさせたのは許せないなぁ」

 すい、と指先で線を引くと、それらは跡形もなく消滅した。
 自分が寺を継いでいたら、中也は家を出て他の仕事をしていただろう。育ての恩人である父の遺した場所に縛り付けておくことで、彼は永遠に私のそばを離れない。

「この次もよろしくね、幽霊さん」

 神も仏もここにはいない。ねじくれた恋心だけが、今日も自分を生者たらしめていた。