眠りの森の獣

2020年3月18日

 眠り姫はもう目を覚ましたかしら。
其処此処に脱ぎ捨てられていた中也の外套、手袋、帽子を拾い、Qが監禁されていた小屋に戻ってみると、果たして姫様はいまだ夢の中であった。

あのジョンとかいう組合ギルドの働き蟻君には早々にご退場いただいた。相手が私一人ならばとめげずに向かってくる可能性も考えてはいたが、私に背後から短刀ナイフを突き付けられていた上、中也に蹴られたときに片足をやったらしい。あまり時間はないよ、はやく敗走し給え、と彼に告げてやれば、苦渋の表情を浮かべてよろよろと森の奥へ消えて行った。
彼には、本拠地へ戻り、この圧倒的な敗北を詳細に報告してもらうとしよう。探偵社とマフィアが共闘路線に入ったということも。
あの『葡萄』は種を植え付けられた宿主と樹木を繋ぎ感覚を共有リンクさせる。私がこの小屋の地下で発見したとき、横浜中の樹木と痛覚を共有させられていたQは、人一人の体では体験し得ない壮絶な苦痛を与えられて完全に気を失っていた。
痛みとは、それを身に感じるだけで体力を擦り減らす。まして一度に膨大な数の人間に対して異能力を発動させたのだから、この小さな身体の消耗は如何許りであったろう。

「この様子じゃ数日は目覚めなそうだけど…さぁて、どうしたものかな」

 床に倒れていたQを抱き上げる。この子はポートマフィアの記録が正しければ十三歳になった筈だが、昔、抵抗するそのくびを掴んで持ち上げた時よりも軽いと感じた。私が大人になったということだろうか。
このままここに転がしておいても良いのだが、これから自分がしようとしている行為に観客ギャラリーは不要だった。中也がラヴクラフトに吹っ飛ばされた時に崩れた外壁から外へ出て、運良く無傷で残っていたガスボンベの台座に寄りかからせるようにしてQを降ろす。念には念をと、コートの内ポケットから取り出した手錠で片方の手首を台座に固定させてもらった。
これで万が一目を覚ましたとしても逃げられないだろう。月明かりの下でちょこんと座り、首をかしげて静かに眠っている姿を見ていると、まるでこの子の方が人形のようだった。

「悪いね、迎えの馬車が来るまで、ここで月光浴でもしていておくれ」

 そう言い残して小屋の中へと引き返す。
この小屋はおそらく、組合ギルドの作戦参謀がQの異能力を利用するプランを発案したとき、それに備えてこの場所に建てておいたのだろう。外観も新しいし、扉の蝶番にも錆一つ見られなかった。
当然、見張りが寝泊まりすることも想定して水道やガスを通したのだろうが、どうせならベッドも置いておいてよと、戸棚を漁って中からキャンプ用のシュラフを三枚引っ張り出しながら敵さん宛の文句を言った。
組合といえばそのトップが金に物を言わせて各国の異能力者をスカウトし、その者たちに本業があっても構わず組織に引き入れていると聞く。そんなにお金があるなら構成員が寝るベッドくらいねぇ、とまあしつこく文句を言ったところで誰も聞いてくれる者はいないわけで。私はシュラフの横のジッパーを開けて一枚に広げたそれを全て床の上に重ね、上からぽんぽんと手で感触を確かめた。これでよしと。

「あれ…なんか、むしろ私の部屋の敷布団より柔らかいかも…?」

 お高いシュラフだったようだ。ついでに自分のアパートの万年床がいかに安物の煎餅布団かということを思い知らされ、地味に落ち込んだ。
あんな布団で事に及んだら、高級志向で綺麗好きな中也はすごく怒るだろうな。まあ、その『事』を目が覚めた後も覚えていられたら、の話だが。

「覚えていなくても、知らない筈はないのだけどね…」

 彼は、力を使い果たして眠りに落ちる寸前に「ちゃんと俺を拠点まで送り届けろよ」と言った。最後の方は半分眠っていたのか口ごもっていたのかよく聞こえなかったけれど、確かに「拠点まで」と言った。
四年前は、私も中也もそれぞれのセーフハウスを持っていた。横浜の主要なエリアに複数所有しておいて、必要に応じて潜伏拠点として使用する。だから普通は自分以外の人間にその場所を教えたりはしないものだが、組んで仕事することの多かった私たちは、互いの拠点の場所をほぼ全て把握していた。
激しい戦闘の後で、彼が力を使い果たして眠ってしまったときに限り、その場所から一番近いどちらかの拠点まで彼を運んでやるのが飼い主たる私の務めであり、翌朝そんな私から「ああ本当に手のかかる犬だ」と嫌味を言われ複雑な表情で押し黙るのが、彼の恒例であった。
中也はいつも、目を覚ますと開口一番にこう言ったものだ。

 ああクソ、何も覚えてねぇ。

 部屋の匂い、身体の痛み、肌の痕、口の中に残る味、最中の記憶はなくとも、自分が何をされたのか思い当たらないほど中也は馬鹿ではない。わざと素っ裸にして転がしておいたこともあったし、コンドームのゴミを目に付く場所に捨てておいたこともあった。それでも、彼は何も言わなかった。
この世の理では、罪の後には罰が来るべきなのだろうが、結局私は、初めて私の前で汚濁を使い、三日間意識の戻らなかった中也を医務室で犯したあの夜から、一度もこの行為を咎められることのないまま、マフィアを抜ける直前まで、同じ罪を重ね続けた。
私と中也にとって、こうなった後で「拠点へ行く」というのは、そういうことなのだ。マフィアの誰かに連絡しろと言われたら、そうしてやっても良かった。けれど中也は、そうは言わなかった。

「……さて、今度は王子様を迎えに行くとしようか」

 今回は行儀良く扉の方から外へ出た。先刻までの激戦が嘘のように、森は静まりかえっている。
中也は最初座った体勢で項垂れるようにして眠っていたのが、今は草の上に大の字に倒れて、夜風と呼吸していた。その身体に歩み寄り、膝裏と背中に腕を差し入れて抱き上げた。

「って、重っ…! 大して伸びてないくせに鍛え過ぎでしょ、この筋肉馬鹿…」

 見た目、敦君よりも背が低いものだから気軽に持ち上げたらバーベルだった。彼の上半身を抱え込むようにして抱き直し、小屋の中へと戻った。