時にはヴァージンのように
君、まだその首輪をしてくれているのだね。
カウンターに頬杖をついて背中をだらしなく丸め、いかにも酔いつぶれている風に装った声音で絡んでみると、間に一つ席を空けて隣に座っていた男がうざったそうに片手でしっしと追い払う仕草をした。
「話しかけんな。つか、他の店行けよ」
「厭だよ。中也が出ていけば? 折角善さそうな店を見つけたと思ったのに、蛞蝓がいるなんて最悪」
「それは此方の台詞だ自殺願望。包帯の付属品が一丁前に酒なんて飲んでんじゃねぇよ」
川の泥水でも啜っとけ、と吐き捨てて、中也は煙草のパッケージの底でカウンターを数度叩き、昔から愛着している銘柄を一本唇に咥えた。
「あぁ、いいなぁ。私にも頂戴」
「やなこった」
「もーらいっ」
「あっ!? てめ、そりゃ俺…の…」
強請って素直に寄越さないことなど分かっていたので、中也が卓上のゴールデンバットを黒い手袋に覆われた手のひらで隠した隙に、身体を椅子一つ分乗り出してその唇から掠め取ってやった。
そのまま彼の隣に座り直し、片足だけ座面の上で胡座をかく時のように折り曲げて、使いさしのブックマッチも拝借する。表に『ALEXANDRITE』とバーの店名が印字されていた。
柔らかい紙のマッチの頭薬を台紙の着火剤で擦ると、しゅわしゅわと燃えた。その小さな炎に顔を寄せ、甘い香りのする煙を深く肺に吸い込む。
ちらりと隣の中也を見ると、私へのクレームは尻切れになったまま続けられる気配なく、どうしたのだろう、おつかいで道に迷った子供のような顔をしていた。しかし一瞬のことで、私の吐いたバットの煙に紛れたそれは、煙が晴れるとまたいつものしかめ面に戻っていた。
使うかい? と私が店のマッチを指先でくるくる回して見せると、要らねぇ、と嘆息して新しいものを口に咥え、ジャケットから取り出したデュポンの黒いガスライターで火を点けた。
「相変わらず気障な趣味だねぇ」
「手前は趣味が悪くなった」
「酷いなあ」
私が多くの人にとって悪趣味であるのは元々だよ、と言うと、それもそうか、と淡白な声を返し、ふぅと細い煙を吐いた。
そして、それきり中也は黙ってしまう。
全く、これだ。話しかけるのはいつも私の方からなのだよな。口には出さずにそんなことを思う。
私たちは友人関係ではないから、自分が最近どうしているかなんて、互いに報告し合うことはない。それに、中也は一度騒ぎ出すと喧しいが、元来は口数の少ない男なのだ。それは自分がマフィアにいた時代から変わらない。彼の方から私に話しかけてくるときは、抗争を何とかしろとか作戦をどうするだとか、好きに暴れて構わないかとか、要は仕事の話だった。探偵社とマフィア、生きる場所が離れた今は、それを求められることもない。
彼との会話の殆どは、私の売り言葉に彼の買い言葉、中身なんてないそれだけで何時までも話していられたものだった。
「……手前がいつまでも、あのときの約束を使わねぇからだろうが」
「………えっ?」
不意を突かれて思わず聞き返した私に、何だよ呆けてんのか? と正面に並ぶ酒瓶から視線を動かさぬまま彼が言う。空になっていた彼のグラスに気づいたソムリエが後ろからそっと彼の葡萄酒のボトルを取って代わりを注いだ。
「あ、お兄さん、日本酒はあるかなぁ」
「ねぇよワインバーなんだから」
「ございますよ」
「あるのかよ…」
「いやあ思った通り、善い店だ。それじゃ、お兄さんのお勧めを適当に持ってきてよ。あ、お代は隣の彼に付けといてくれ給え」
「オイ払わねぇぞ俺は」
「実は私、今日フラれちゃったのだよね」
「………はっ?」
今度は中也の方が不意を突かれ聞き返してきた。ワイングラスに指を添えたまま、漸く隣に座る私の顔を見る。
「此処に来る前にその子と喫茶店でデェトしていたのだけど、どうやら私が他の女性とも逢っているのが不満ならしくて、私のことが好きだけど、自分を一番愛してくれる人と付き合うことにしたんだってさ」
「そりゃ、百パーセント手前が悪いって話じゃねぇか」
睡蓮の花が彫られた江戸切子のグラスが置かれ日本酒が注がれた。きんと冷えていて、舌の上で心地良い甘さが広がっていく。
中也の手元から二本目の煙草をくすねたが、彼はもう諦めたのか何も言わずに見ていた。
「そうかなぁ。私は今夜は彼女と過ごす心算でいたから一人で寝るのがつまらなくてこうしてお酒の力を借りようとしているし、彼女はそこまで好きでもない男と付き合い内心満たされぬ日々を送る。彼女と付き合う男は彼女を一番に愛しても一番に愛されることはない。誰も幸せにならないじゃないか。女性の決断はいつも抽象的で残酷だよ」
「一番残酷なのは手前だよ、馬ァ鹿」
世の女性たちのためにもさっさと死んでくれ、と言って、私の胸にとんっと右手の人差し指を突き付けると、その手を銃の形にして「ばぁん」と撃った。
「はは、動かなくなった。死んだかな」
「ちょっとなに…気色悪いことしないでよ」
一瞬、本当に心臓を撃たれたようにどきりとした。
どうせ、酒に弱い彼がほんの数杯の葡萄酒で酔い始めてたちの悪い絡み方をしてきただけなのだが、いつも懐に忍ばせている愛用の短刀で斬られたことも、自慢の拳で肋を折られたこともある私には、じゃれるように触れられた箇所がむず痒くてたまらなかった。
「嫌がらせだよ色男。首領から休戦を言い渡されている今はムカついたって理由だけじゃ殴れねえからな。まぁせいぜい寂しい夜を過ごせや」
金が払えるんなら、うちがやってる店の女を派遣してやってもいいぜ。くつくつと笑いながらそう言って、中也はグラスに残った葡萄酒を喉に流し込み、席を立った。
「え、ちょ、中也、帰っちゃうの?」
「あんだよ。出て行って欲しかったんだろ? 俺は帰って寝る。明日早えんだ」
「駄目! 帰らないで中也! このお店思ったより高くて君がいないと好きなだけ飲めないのだよ!」
「マフィアにたかってんじゃねえよ、この甲斐性なし! 立ち飲み屋にでも行ってろ!」
「冷たいなあ、恋に破れた相棒を少しは慰めてくれたって――あ、いいことを思いついた」
私が『いいこと』と口にしたら中也は露骨に嫌な顔をした。昔からこういう場面でそれが彼にとっていいことだった試しがないからだ。そして今回も、その予感は当たっている。
「あのときの約束、今使うことにしたよ。中也は今後、私が女性に振られたときには全身全霊で私を慰めること。いいよね?」
「……やっと使ったかと思えば」
やり甲斐がねぇにも程があるな、と溜息を吐いて、中也は一度肩に掛けたコートを再び椅子の背に戻し、隣に座り直した。カウンターの向こうでマスターが目配せしてきたのにコーヒーを一杯注文する。やっぱり少し酔いが回っていたらしい。
「私の命令を一度だけ何でも犬のように遂行する約束だ。大嫌いな私を誠心誠意尽くして慰めるなんて、嫌がらせとしては上等だろう?」
「手前が女に振られる度にか? 一度だけって条件はどこ行ったんだよ。手前はあれだ、ランプの精に『ずっと自分に従え』とか『魔法を使えるようにしろ』とか願うタイプだな。セコいやり方しやがって」
「私ほどのいい男がそう何度も振られると思うかい? 実質この一回きりかもしれない。年代物のランプから出られるまたとないチャンスだよ、妖精さん」
「どうだかな。今の手前の取り柄なんてその無駄に整ったツラとよく回る口だけだろ。毎晩呼び出される羽目になることだって有り得るぜ」
なんだか褒められている。昔から中也は酔うとやたらに人の顔を褒めてくる癖があったが、それは今も健在なようだ。
「ノリ悪いなあ。じゃあやめておく? 財布だけ置いて行ってくれてもいいよ」
「探偵社ってのはそんなに儲からねぇのかよ、昔は俺の十倍は稼いでたくせに」
「別に給金が少ないわけではないよ。財布が川に流されたり…あとは、ほぼ毎晩飲んでいるからねぇ。殆どお酒に消えているのかも」
「マジの人間失格じゃねぇか…」
「お後がよろしいようで。で、返事は?」
中也は目の前に提供されたコーヒーカップの中の黒い湖面を黙って見つめていた。珍しく角砂糖を一粒落とし、小さなスプーンでくるくるとかき混ぜながら、命令なら聞くさ、そういう約束だからな、と答えた。
「ただし、一度きりじゃない内容に変えてきた代償に、俺から二つ条件を付けさせてもらう」
「二つも? 慾張るねぇ」
まぁ聞くだけ聞こうか、と言って、日本酒を手酌できるように瓶で持って来させた。何を言うつもりか知らないが、どうせこの会話自体が私にとっては今夜の暇潰しなのだ。それならば相棒の口数は多い方が良い。
「一つは、傷心のロミオを慰めてやる方法は俺が決める。リクエストは聞くだけ聞くが、採用するかどうかは俺の気分次第だ」
「駄目だよ。それじゃさっきみたいに私を置いて帰ろうとしたって、一人にしてやるのが慰めになるとか言えば通ってしまうじゃないか」
中也は構わずに続ける。
「方法はこの後に言うが、毎回同じだ。途中で変えたりしねぇ。もう一つの条件は、俺をこの件で呼び出すとき、手前は手前を振った女のことを事細かに俺に話すこと」
「は……?」
ぽろ、と三本目の盗品の灰が指からこぼれた。一つ目は予想の範疇だったが、二つ目は予想外だった。
「容姿は勿論、服の好み、喋り方、出自に生業、歩く時の足の裁き方からベッドの中での振る舞いに至るまで、全部だ。そうしたら――」
「そうしたら……?」
「そうしたら、全部その通りにしてやるよ」
それが俺の慰め方だ。返事は?
中也は私の目をまっすぐに見つめながら、角砂糖入りのコーヒーに口を付け、甘ぇな、と舌を出した。