珊瑚の髪のセイレーン

 中島にとって、その日は欧州国境警備隊に配属されて初の船出であった。

「お、お、お、お疲れ様です、隊長!」

 海上の監視は僕たちがやりますから、隊長は船内で休んでいてください。今日は暑いですから! と言ってパラソルを差し出し、デッキの柵に寄りかかって真鍮の望遠鏡を覗き込んでいた隊長にじりじり照り付けていた日光を遮る。背後で彼の先輩隊員らが「あちゃ~~」という顔で見守っていた。

「ん……? ああ、確か君は密入国リストからのスカウト…異能力者の中島君か」

 左肩の白いぺリースを潮風になびかせながら、目前の男はその辺にあった手頃なサイズの木箱によっころしょと腰を下ろし、制帽をくいと上げて中島を見た。

 男の名は太宰治。黒い髪と黒い瞳を持つ日本人でありながら、軍と同等の権限を持つ欧州国境警備隊の一個連隊を任されている人物である。
 中島のような特異な能力を持つ者であれば、使える手駒としてスカウトされることはある。だが、欧州の出身でない者が肩書を与えられるまでに出世することなど他に例が無い。中島は自分と同じ国の出身である彼がどうやって今の居場所を手に入れたのか、ひょっとしたら自分と似たような境遇で国を追われた人間なのではないかと、ずっと気になっていた。だから、この第八水上機動隊への異動が決まったときは、それはそれは飛び上がるほどに嬉しかったのだ。

「そうか…これだけ暑ければ、氷山なんて現れっこないよねぇ…」
「はいっ! ……え? 氷山?」
「巨大な氷山の一つでも現れてくれれば、かのタイタニック号のように、連合政府ご自慢の特殊装甲船も綺麗にまっぷたつ、私達はみな海の藻屑と消える…どうだい? ロマンチックだと思わないか?」
「え……えーっとぉ……」

 返答に困窮して周りの人間を見回すが、近くにいて会話の聞こえていた隊員たちは全員首を振って「諦めろ」という表情を自分に向けていた。

「嗚呼、第四に戻りたいよ。第四は河川の国境警備だったのだけどね、ローレライ伝説のある場所で、私はその美女ローレライに魅了され船ごと沈めてもらえることだけを楽しみに日々仕事に励んでいたというのに…海なんて広いばかりで何も楽しいことがない」

 川と違って一度出るとしばらく街へ飲みにも行けないし、地獄だよ。と言って、太宰は肩を落とした。『水上の太宰は死にたがり』式典で一度目にした太宰の風貌と地位
だけで憧れを抱いていた中島は、そんな有名な噂話を知らなかった。

「隊長は…なぜ第四から第八へ?」

 その隊を率いる隊長自身が異動するなんて異例中の異例である。

「知らない? この海域に最近厄介な賊が現れるようになって、元の第四が隊長を含め全員沈められたんだ。私たちは再編成された第四ってわけ。君の異動を決めたのも私だよ」
「賊…そんなに強い賊をこの隊だけで…?」

 大丈夫なんでしょうか、と言いかけた瞬間、船体が大きく揺れた。甲板に出ていた隊員たちが突然ばたばたと倒れ、ピンで縫い留められるように木床にめり込んでいく。現れたか、と呟いて、太宰はデッキに立て掛けていたサーベルを杖にして立ち上がった。

「巨岩のような大男…連邦政府の機密を探っている重力使いの異能力者」

 太宰はぺリースを翻し、腰を落としてサーベルを構える。ぐっと力を込めて一閃放つと、その場に倒れていた隊員たちが見えない重力から解放されてよろよろと起き上がり始めた。これが太宰の異能力だろうか。圧倒されていると、大飛沫を上げて、海上にまるで戦艦のように巨大な大岩が出現した。遥か頭上から落下してきたようだった。
 不意に、その岩の影から何かが飛び上がるのが見えた。アアア…と地響きのような声を上げてこちらに飛びかかってくる。中島は咄嗟に太宰の前に出てその何かの拳を腕で受け止めた。目前には、燃えるように赫い髪の小柄な人間が闘志をむき出しにして中島を威嚇している。海に落ちたときに濡れたその髪が貼り付いて顔はよく見えなかった。

「巨岩のような大男という情報は間違いだったようだね…巨岩に乗っているだけの、こんなセクシーなお嬢さんだったとは」
「ハァ……? てめぇ、何言って――」

 ぴたり、と目前の人間の動きが止まった。太宰は中島とその人物の間に割って入ると、少しかがんで、その濡れた頬を優しく撫でて口付けた。

「隊長!?」
「!? んんっ! む! ん~~~!?」

 突然映画のように熱烈なキスをされた賊は動転して太宰の背中を必死に叩くが、さっきのような大技はなぜか発動せず、体格差もあってされるがままになっていた。正直何が起こっているのか分からないが、きっと太宰には自分が及びもつかない考えがあるのだろう! そう思って中島は目の前の光景を見守った。

「…………」
「んー! んむ、ん――!!」

 …………長い。ほとんど息継ぎの間も与えずに口付けを深くし、最初は優しく添えていただけの手は、ゆるくウェーブのかかった珊瑚色の髪を掴んでがっちりと拘束していた。相手の口腔内を蹂躙する音が、側で見守る中島の耳にも聴こえるほどに激しくなり、中島はいったい自分は何を見せられているのだろうと思いながら、半歩だけ後ずさった。いつの間にか他の隊員たちも集まり、事の成り行きを固唾をのんで見守っている。

「う…あ、はぁ…ん……」

 太宰の背をどんどんと叩いて抵抗していた賊は、次第にその手で彼の制服の袖にしがみ付いているような格好になり、膝からがくがくと脱力してぺたりと甲板にへたり込んだ。おおっ! と周囲の隊員から謎の歓声が上がる。太宰は自分も一緒にその場にしゃがみ込んで、海水でびしょ濡れのシャツの裾から手袋を嵌めたままの手を潜り込ませ――

「……あれ?」

 胸がない。太宰がそう呟いたのと、賊が彼の胸倉を掴んで強烈な頭突きを食らわせたのはほぼ同時だった。

「いきなり何しやがる! 変態かテメ……ん?」

 濡れた髪をかき上げてしげしげと太宰の顔を見つめた賊の顔つきは男性であった。彼の顔には中島も見覚えがあった。欧州で億を超す懸賞金のかけられている海賊、中原中也だ。

「へぇ…手前、『売国奴』太宰治じゃねぇか。新聞より実物の方が美形だな」
「それはどうも。そうか…我々の国境を荒らしていたのは君だったのだね」

 この際男でもいいかな…という不穏な呟きに中原は顔を歪め、「手前を相手にするにはちと準備が足りねぇ」と吐き捨てると、デッキの柵を乗り越えて青い海へと落ちていった。
 追いますか、と駆け寄って来た隊員が尋ねたが、太宰は少しの間思案して、いや今日のところはやめておこう、あちらさんもそのつもりだとのんびり答えた。

「太宰隊長…あの人は、敗戦国日本では『羊の王』と呼ばれた英雄です」
「知ってるよ? あんな美人だとは思わなかったけどね。そんなことより、私は自慢じゃないがどんな遠目からでも男性を女性と間違えたことはないのだよ。いやぁショックだなぁ…中原中也…本当に人間かな?」

 太宰は手に持っていたサーベルをまたその辺に無造作に立て掛けると、中原が飛び越えた柵の手すりに凭れかかって静かに波打つ海面を見下ろした。

「そういえば、海ではセイレーンというのだったね」

 この海にも、楽しみができたよ。

 太宰はそう言って、鼻歌を歌い始めた。