パラダイスの隙間

「からだがいたい」とぼやいてもアラアラウフフといじられなくなったのは、犬飼と凪が楽園街の見回りを始めて数週間経った頃だった。

太い依頼もないのに毎晩見回り後にはにゃむの店で一杯注文する。
他の店の面々も、自分の店を閉めたらふらりとやって来るようになり、黒い電線に雀が並ぶようにカウンターに腰掛け、『今日の変客』、『今日のヤクザ』、『今日のいやがらせ』ネタでほんのちょっと笑ってから帰るということがお決まりになった。
巌真組による営業妨害の成果あって、よほどのファンか世捨て人以外、外部の人間は楽園ビルのテナントに寄り付かなくなっていた。だからこちらも気兼ねなく、内輪ネタで罵詈雑言吐いて酒を飲んだっていいというわけだ。
そんな雰囲気が少し寂しくさせてしまったのか、かほは最近姿を見せない。

哲太が自分の店に来る客の中に変なガキが紛れ込み始めたと話したとき、だいぶ酔いの回っていた刺青屋が「おまえのとこの客はもともと変なガキばっかだろ」と言った。哲太はそれに対して別に気分を害した風もなく、ただ一言、「あいつらはキモいけど変やない」と返していた。
そのとき、凪は残念に思った。
かほが今のを聞いていたら、また「推ししか勝たん」とか言って、きゃあきゃあ喜んだだろうにな、と。

今日も見回りの後、犬飼と凪は二人でにゃむの店に寄って、ウィスキーとラムコークを注文した。
凪が両腕を上げて大きく伸びをすると、にゃむは慣れた様子で「昨日は凪がソファだったのね」と言いながら、自分用のウーロンハイを作って乾杯を促した。

「睡眠は大事よぉ。凪、アンタ、若さを過信して変な体勢で寝てばかりいたら、そのうち体壊しちゃうからね」
「んなこと言ったって、事務所にベッド二つ置くスペースねぇし」
「ンもう、二人ベッドで一緒に寝たらいいじゃない」
「……!」
「あ、だめだめ。凪ちゃん『ふぇ!?』ってなっちゃうから」
「笛?」
「黙れ!シネっ!!」
「凪ちゃんって悪口のボキャブラリーが貧弱でいいよね」
「うるせ~~~~!!」

狭いカウンター席でぎゃあぎゃあと言い合いを始めたとき、ギィとドアが開いて、最上階にあるキャバレー『パラダイス』のママが溜息をこぼしながら入って来た。

「今日もおつかれさま。適当に作るわね」
「ありがと。はあ…あのチンピラども…今日も安酒一杯で粘りくさって、腹立つ!」

先代ママのメリーから役目を継いだ彼女と一緒に飲むようになったのも最近だ。
上品にセットされた夜会巻きのヘアスタイルとメイクからは大人びた印象しか受けないが、実際は犬飼とほとんど歳が変わらないらしい。ということは、凪とも同世代ということになる。『パラダイス』の営業時間中におつかいで頼まれたものを届けに行ったときなど、隙のない笑顔を貼り付けて接客している彼女を見る度に凪はその迫力と年齢のギャップにおどろいてしまう。
そんな彼女が、営業時間外には自ら作ったギャップを埋めるようによく喋る。

「困るわよねぇ。他のお客さんが怖がって来なくなっちゃうし」
「ウチはもう、女の子たちが次の場所を見つけるまで置いておくためだけに開けてる感じよ。後は逆に、アイツらうちで飲ませとけば他の店を荒らしに行かないでしょ。同じいやがらせするなら若い女と酒を飲める店の方がいいもんね」
「人身御供じゃないの」
「何ソレ」
「生贄ってことだよ」

犬飼は、にゃむから渡されたほぼトマトジュース味のカクテルをカウンターの角に座っていた彼女に手渡し、そう答えた。

「イケニエ? そんなかわいそうな役やってるつもりはないんだけど。それに…キャバレーの方はそんな感じで大赤字だけどさ、ホテルの方は繁盛してるのよ。皮肉よね、治安が悪くなるとああいう場所の需要が高まるの」

ああ…という表情で犬飼とにゃむは聞いていたが、凪にはぴんとこなかった。

「そういうの嫌ってたメリーも黒田くんもいないしね。警察もこの街で起きることにはいいかげんだし。他の場所の締め付けが厳しくなってきたから、こっちに流れて来てるのよ」
「なぁ、そういうのって何」
「でも従業員は足りてないんじゃない? 何人かまとめて辞めてったでしょ」
「そうなのよ。受付のおじいちゃんは住み込みだからいいけど、掃除が足りてない感じ。何部屋か閉めようかと思ってる」
「ちょっと勿体ないわねぇ」
「この状況で新しく雇うっていうのはナイでしょ」
「それもそうだけど……」

犬飼が人手不足の話題を振ったことで、ホテルがどういう需要で繁盛しているのかという話は聞けなくなってしまった。
よく分からないが、聞いた感じ、良い使われ方ではないのだろう。
凪は、友達に誘われて初めて楽園ビルを訪れ、ここのホテルで乱暴されかけたときのことを思い出し、記憶から追い出すように頭を振った。「酔った?」とにゃむが気遣う声をかける。

「そうだわ。どうせ使わないならその部屋、犬飼ちゃんと凪に貸してあげられない?」

頭を重そうに振りながらうつむいた凪を見て、よほど見回りの疲れが溜まっていると思わせてしまったのか、にゃむが突然ぽんっと手小槌を打って言った。凪は突飛な提案におどろいて瞬時に顔を上げ「ハァ!?」と大声を出す。

「この子たち最近早朝と夜に見回りしてくれてるのよ。楽園座の火事もあったし、自分たちはここに住み込みだからって言って。それでよく眠れてないみたいで」
「別にいいけど。掃除とシーツの洗濯は自分たちでしてね」
「えっ、いや、いらね」
「……お言葉に甘えさせてもらおうかな。ついでに他の部屋の清掃も手伝うよ」
「ありがたいけど、バイト代出せないから本当についででいいわよ」
「一部屋分の家賃がタダってだけで十分だよ」
「あ、うう…」

凪を置いてどんどん話が進んでいく。
翌朝、ここのホテルで長年受付をしている老人が欲望屋の事務所を訪ねて来て、閉鎖される予定になっていた数部屋のルームキーを犬飼に預けていった。一室は欲望屋が借り受け、残りの部屋は手の空いたときに清掃をして、終わったらその部屋の番号を受付に伝えれてくれれば良いという話になった。

ホテルの部屋の掃除なんて出来るのかよ、と、いつぞやもっさんと泊まった高級ホテルの埃ひとつ落ちていなかった部屋を思い出して凪は不安を洩らした。
部屋の鍵に付いているアクリルのキーホルダーを天井の蛍光灯に透かしながら、できると思うよ、と犬飼は答えた。掃除は毎日やっていたから慣れっこなんだ、と。
どの口が言ってんだと言いかけたが、そういえばこの事務所には生活に必要最低限の物が足りなかったりするくせに、ゴミがその辺に落ちていたり、シーツやソファが汚れていたりすることはないと思い当たり、言葉を飲み込んだ。自分がそれをやった記憶は数回しかないので、買い出しなどに出かけている昼の間に犬飼が掃除をしてくれていたということになる。一応雇われている側でそれはどうなんだ。
というか言ってくれれば凪だって掃除くらいする。犬飼のこういうところが、対等じゃないような気持ちにさせて、時々凪を拗ねさせる。このときも凪は少しもやもやして、つい「お育ちのいいことで」と軽口を叩きそうになったが、犬飼の過去を知ってしまった今となってはブラックユーモアにも程があるのでぐっと押し黙った。

「ごめんね? 育ちがよくって」

凪の考えていたことを読んだように、犬飼はにやにや笑ってそう言った。
凪はその手からルームキーを奪い取ると、さっさと行くぞ!とやけっぱちに声を上げて先に事務所を出た。

* * *

犬飼と凪に宛がわれたのは、狭いツインルームだった。
若草色の床は靴のままで歩くとぺたぺたと音が鳴った。病院みたいだなと思いながら、凪はドアを開けるなり目の前にでんと現れた2台のベッドを凝視していた。

「ベッドが、ふたつ!?」
「ツインルームだからね」
「いや、ベッドはひとつでいいだろ!」
「えっ…凪ちゃん、一緒に寝たかったの…? 今からでもダブルに替えてもらう?」
「一人は事務所のベッド使えばいいって意味だ!」
「ああ、なぁんだ」

何が「なぁんだ」だ。
シングルベッドで一緒に寝たって、自分のうろたえる反応を見て楽しむだけで実際は何もしてこないくせに。
と、本人には言えるわけがない不満を凪は小さな胸の奥に押し込めた。

絶対、両想いだと思う。
多分、勘違いじゃない。ないはずだ。
楽園座で目と目が合ったときに感じたあの熱を、犬飼も感じていたと思ったし、だからあれ以降、二人の距離はぐっと縮まっている。それこそにゃむや他のみんなからバカップル扱いされるくらいに。

でも、それは、心の距離の話で。

「折角貸してくれたんだから、ご厚意に甘えようよ。ここは安宿の部類だけど、それでもあのベッドよりは寝心地いいと思うな。きっと疲れも取れるよ」

そう言われてみればたしかに、犬飼が粗大ごみ置き場から拾ってきたというあのベッドよりマットレスが分厚いように見える。

「でもベッドとベッドがコレもうほとんどくっついてんじゃん! 隙間がない!」
「部屋が狭いんだからしょうがないよ」
「…………犬飼オマエ、また面白がってんだろ」
「面白がってるというか……」

犬飼は着ていたジャケットをハンガーに掛けると、ワイシャツのまま手前のベッドに倒れ込んだ。
いつも見下ろされている目線が逆になる。

「喜んでる」

その言葉通りの表情で見つめられた。
躯の内側が発火したように熱くなる。その火はじわじわと凪の喉を焼いて瞼まで紅く染め上げ、おなかの奥をじくじく苛めながらつま先まで到達した。

他の部屋の清掃を済ませた後、風呂にも行かずそのまんまの身なりで来ていた。
灼けた喉でぼそぼそとそれを指摘すると、犬飼は腕のところに捲り皺の付いたワイシャツも脱いで、ベッドとベッドの隙間にぽいと落とした。

「……て、テレビが事務所のよりも大っきいのな」
「液晶だと小さい方なんじゃないかな」
「へー、そうなんだ」
「壁に掛けられるのいいよね。何か見たい?」
「や、いい……」

間が保たない。
こことさほど変わらない狭い部屋で一年以上一緒に寝泊まりしていたのに、今さら緊張してしまう。いつもと違う部屋の匂いとか、この状況に。

「あ、シャワーって、使っていいのかな」
「自分で掃除するならいいって言ってたよ。でも、シャンプーとかはないから大浴場の方がいいんじゃない?」
「そうだな……あー……朝に、するわ……」
「うん。疲れたし、今日はもう寝よう」

カチャ、とベルトの金具を緩める音が聴こえて、凪は自分でも意識していないのにびくりと肩を震わせた。
犬飼は一瞬手を止めたが、何も言わずに腰からベルトを引き抜くとそれもベッドの隙間にぽとりと落とした。
黒い眼帯は床ではなくベッドのヘッドボードに置いて、それじゃお先にィ〜…ムニャムニャ…フカフカ…とわざとらしく眠そうな声を出して布団を被った。

凪は自分も着ていたスカジャンと靴下だけ脱いで隣のベッドに潜り込んだ。たしかに事務所の布団の十倍ふかふかである。もっさんの仕事先で百倍ふかふかの布団を知ってしまったことが少し残念だが、これに寝ていたら翌朝の身体が痛むことも減りそうだと思った。
横を向くと、犬飼も凪の方に身体を向けて両目を閉じていた。その露出した肩と両腕、眼帯のない白い瞼を見つめていると、変な気持ちになってくる。
もっさんに泊めてもらった高級ホテルの風呂で自覚してしまった気持ち。あれ以来ときどきこうして凪を悩ませる、「さわりたい」「さわられたい」という欲望。

そういう欲望は、自分みたいな女らしくない女には無縁だと思っていた。もともと興味が薄かったし、二度男から襲われかけてからは、自分の人生にそういうものを関わらせることを避けてきた。
依頼でしおりという女性のストリップを見て、凪は自分の中にも《女》という生き物が踊っていることを知ったのだ。それが悪いものじゃないってことも。

「う、う~~ん……むにゃむにゃ……」

犬飼の真似をしたつもりが、だいぶ輪をかけてわざとらしい。
凪は寝がえりを打つふりをしてベッドの端に転がり、右腕を隣のベッドへ伸ばした。
白いワイシャツ、ベルト、スカジャン、靴下、二人が身に纏っていた布たちが落ちて、ベッドとベッドの間の隙間に橋を作っていた。
あと少しで届くという距離で臆病になって、手を引っ込めようとしたとき、犬飼の手がそれを掴んだ。

びっくりして目を開けたら、犬飼も両目を開けて自分を見つめていた。
彼の口元は柔らかく微笑んでいた。
その顔を見たら、凪の感じていた緊張もするするとほどけてゆき、手をつないだまま、ときどき指先を絡ませたりして、しばらくそうして見つめ合っていた。

犬飼も、自分と同じように思ってくれているのだろうか。
自分と同じように、どうやってこの橋を越えたらいいのか、とまどっているだけで。

指先から伝わってくるぬくもりに、次第にうとうとと眠気がやってくる。
あと何回。あと何回かこの部屋で眠ったら、超えられる気がする。
正月の歌みたいだな、と思った凪はくすりと笑った。