魔法の世界
こんなとこでも本の虫か、太宰。
罰当たりなとこに座ってんじゃねぇよ、と溜息を吐いて、中也は太宰を見上げた。
毎朝決められた時刻に全ての生徒が集められ、教師の長い説教を聞かされる場所である礼拝堂だが、夜もふけた今は、その説教をする教師が立つ教卓に腰掛け分厚い本のページを捲っている太宰と、とうに寮の門限を過ぎてから現れた中也の二人きりである。
「罰当たりだって? おかしなことを言うなぁ。君が神を信仰しているなんて初耳だ」
「無神論者だとアピールした覚えもねぇよ」
そう言いつつ、実際中也は神の存在を信じてなどいない。そんなものは周りが勝手にでっち上げて名前をつけただけのものであると、他ならぬ自分の身の上のこととして理解しているからだ。
「だが、この世界にはそういうモンがいてもおかしくねぇ。情報が少なすぎるから用心しているってだけだ」
「情報ねぇ」
高さのある教卓の上から、太宰がひらりと飛び降りる。彼の靴底は綺麗に磨かれた床に触れることなく停止し、ほんの数センチの高さを保って浮遊していた。
「また気色悪りぃ技を身につけたのか」
「酷いな、君が向こうの世界でやっていたことじゃないか。重力操作……とは、ちょっと違うのだけどね」
ありがとう、もういいよ、と太宰が自らの足元へ優しく声をかけると、浮いていた靴底は静かに床へ着地した。
「それで? 情報の不足を嘆く君は、夜な夜な寮を脱け出し校外へと出かけて、何か収穫はあったのかな」
「何も。一時間も森を歩いて、しけた町が一つあっただけだ。日付も変わってねぇのに、酒を出す店まで閉まってやがった」
「今の見た目じゃ、どうせ入れてもらえないでしょ」
セーラーの襟の付いた指定のブレザーをぺらぺらと捲って太宰は言う。登山の真似事してまで飲みに繰り出したかったわけじゃねぇよボンクラ、と舌打ちで返し、中也は長椅子にどっかり腰掛け、煙草に火を点けた。
「あーあ、また制服のまま吸って。匂いに敏感な蘭童先生のお仕置きが待ってるよ」
「は、そんなもん。適当に逃げ出すさ」
「今の君に出来るのかな。魔法が効かないというだけで、それ以外はちょっと身のこなしが軽いというだけの子供が」
「子供なのは手前も同じだろうが。手前の方こそ、俺が授業をサボっていた間に懲罰房行きだったって聞いたぜ。週一で入れられてるんじゃねぇか? そんなに拷問されんのが好きだったならもっと早く教えてくれよ」
会話しながらまた本の続きを読み出した太宰を見上げ、中也はぴしぴしと鞭を振るうジェスチャーをした。それを視界の隅に認め、ふ、と馬鹿にしたように太宰は笑う。
「とんでもない。拷問なんて受けていないよ。私が此方の森さんの部屋から何度も禁書を持ち出すから、他の学生への示しのために罰を与えたと装っているだけさ」
あの人の性根は此方の世界でも変わらない。役に立つ駒は甘やかし、それを使う場面までは好きにさせてくれる。私が高等な魔法を習得することは、彼とこの学園にとってプラスにしか働かない、そう考えているのだろう。
「こんな辺鄙な場所にガキを集めて、怪しげな術を教えて、いったい何に使うっつうんだ。向こうでの世界大戦のように、魔法とやらを当てにしてガキどもを戦場に送り込むつもりか」
「おやおや、まさかとは思うけど君、此方の世界の住人たちに情が移っているのかい? ちょっと寝食を共にしたくらいで、ちょろいマフィア様だ」
「安心しろよ、同室の手前にも一切情は湧いてねぇ」
「そこは湧いてほしいなぁ」
今、このケースに対応しうる戦力は私たち互いに二人だけなのだから、協力し合うほかないでしょ。私だって夜に君の寝顔を見るたびにカーテンレールで首を括って死にたくなるのを我慢しているんだから。と、細い指先を自らの喉元に添えて、苦しげな表情を作り、舌を出した。
「朝起きたらカーテンレールが折れてたの、あれ手前の仕業かよ。きっちり死んどくか、壊したら直すかどっちかにしろ。どうせああいうのもちょちょいと直せんだろ?」
「まあね。本当に便利な力だよ。魔法書を読むのにもさほど時間はかからなかったし、書いてある通りにやれば、一人で色んなことが出来てしまう。精霊に頼めば、冷めたコーヒーは熱々になるし、散らかした部屋も掃除してくれるし、門限を破るルームメイトのために、施錠された寮の門を開けることだってできる。異能力より良いよねぇ」
そう言って、いつの間にか中也の胸元から掏った煙草を唇に挟み、人差し指の先でぽっと火を点けた。おもちゃのライターみてぇだな、と中也はうんざりした顔で溜息を吐く。
吸い殻ごと焼いて規則違反の証拠を隠滅してしまってから、二人は連れ立って寮への道を歩いた。
「手前、まさかこのまま戻れなくても良いとか寝ぼけたこと思ってるんじゃねぇだろうな」
「中也は戻りたいの?」
「たりめーだろうが。何の異能か知らねぇが、いきなり訳の分からねぇ場所に飛ばされたかと思ったら、ガキの体になってるわ、魔法なんてものを勉強させられるわ、見知った顔の連中は別人で、手前だけが同じ境遇、だというのに手前ときたら面白がって一向に本腰入れて事態を解決しようとしやがらねぇ。ストレスで禿げそうだわ」
中也が夜な夜な寮を脱け出して外を歩き回るのは、気晴らしの目的が大きかった。二人で同じ問題に直面した時、太宰が目立った動きを見せない状況下で中也があくせく駆けずり回ったところで、それは徒労に終わることが多い。ぎりぎりまで何も知らせずに、分かりにくいヒントだけ寄越して一人で策を組み立てている。太宰はそういう男だ。
しかし、この世界に飛ばされてから既に数ヶ月、太宰は他の学生らと一緒にお勉強に励んでいるだけで、不本意ながら寮の部屋を同室にして様子を見ていても、元相棒である中也を動かすようなサインを送って来る気配もない。それどころか此処での成績が優秀でついでに見た目も良いが故に、女子から恋文を貰っては適当につまみ食いしている節がある。
こいつはこの世界を満喫しているんじゃないか、と中也は疑念を抱き始めていた。
「龍頭抗争のときみてぇにぶん殴られたくなかったら、そろそろ真面目にやれ。俺は、あのとき以来、手前を侮って自分が馬鹿を見るのは御免なんだよ」
「……酷いなぁ。君にとってこれは、そんなに悪い状況?」
「あ? どういう意味だ」
「知っているんだよ。向こうの世界に戻ったら、君は結婚するんでしょう。欧州のお嬢さんと」
「おい、まだどこにも出してねぇ話だぞ」
「まったく、情報屋との世間話で聞いたときは耳を疑ったよ。今どき政略結婚なんて流行らないでしょ、組織の忠犬もここまで来ると滑稽だね」
「……うるせぇよ。『白紙の文学書』が焼却された今、裏技で世界を掌握することは最早どこの組織にも不可能だ。横浜を脅かす存在は潰す。その方法が、ぶん殴るかお手々繋いで抱き込んじまうかってだけの違いだ。後者を取ればマフィアの損害はゼロ。俺にとっても、悪い話じゃねえ」
「へぇ、美人なんだ」
「ああ。結構好みだ」
「やれやれ、洋モノが好きとはね、つくづく中也とは趣味が合わないよ」
「昔、手前から借りたAVのことを言ってんなら、今でも時々悪夢に見る。趣味が最悪なのは手前で、俺は普通だ」
「その最悪な趣味に付き合っていたのは誰だっけ?」
「……ここで蒸し返すのかよ、それを」
元カノか手前は、と吐き捨てると、何とでも言えば、と太宰にしては切れのない返答がかえってきた。
施錠されていた門を音もなく開け、互いの足音さえ消している。太宰の操る魔法は、確かに万能であった。
中也も何かの手がかりがあるとすればこの『魔法』という存在だろうと思い、此処へ来た当初は一緒になって魔法書を読み漁ってみたものだったが、どういうわけか中也が太宰と同じ呪文を唱えても、魔法が発現することは一度もなかった。その代わり、あらゆる魔法を中也は打ち消すことができる。まるで太宰と中也に出来ることが入れ替わったかのようだった。
無効化の能力とは、無敵で厄介極まりないものだと中也は思っていたが、いざ自分が手にしてみると、どうも使い勝手が悪い。あれこれ知恵を働かせて立ち回らないと、魔法使いに囲まれたこの世界で教師を含め他者を出し抜くのは難しい。あいつもあの能力を手にした当初は色々苦労したのだろうか、そんな風に思った。
首尾良く寮に戻り、自分たちの相部屋の前まで来ると、扉に備え付けられたポストにファンシーな柄の封筒がみっちりと押し込まれていた。それを見もせず扉を開けて中へ入って行く太宰に呆れながら、律儀に回収して中也も続く。
太宰の机の上には大きな紙袋が置いてあり、太宰宛てのラブレターは後で返事を書くからと太宰が言うので毎日中也がポストから引っこ抜いてはそこへ放り込んでいた。返事を書いているのを見たことは一度もなく、哀れな乙女心は山のように積み上がっている。
「おい、ゴミ箱じゃねぇんだぞ。毎日毎日キリがねぇから部屋のポストに入れるのはやめろって女どもに言っとけ」
「なぁに、男の嫉妬は醜いよ、中也」
「俺は誰かさんと違って、敵の異能空間にいる女に性欲向けられるほど見境無しじゃねぇんだよ。そのうち腰振ってる間に刺されるぞ」
「こないだビンタされたけど、魔法で眠らせたからOK」
「どのへんがOKなんだよ。全部アウトだろうが」
「中也が用事もないくせに毎晩出かけるからいけないんじゃないか。何なの? 私に何かされるとでも思ってるわけ」
思ってるよ。間髪入れずに答えると、太宰は目を見開いた。自分で聞いておいて動揺してんじゃねぇよ、弱虫。そう言葉を続けた中也には、このときようやく答えが分かっていた。
いつまでも貰えないヒントは、いつまでも貰えないことこそがヒントだったのだと。
やはり太宰は、向こうの世界へ戻るつもりがないのだ。しかし、戻る方法を得ようとすらしないのは慎重で周到な太宰のやり方には反している。
「本当に、頭のいい奴の考えることはクソだりぃな。言えば済むようなことで、よくも俺を何ヶ月も拘束しやがって」
帰ったらどれほど仕事が溜まっているのか、想像したくもない。やっと首謀者が分かったのだ、今夜は後先のことなど忘れて、自分の好きにしようと中也は決めた。
「戻る方法を探そうとしねぇのは、手前が最初からそれを持っているからだな、太宰」
「……だとしたら、どうする? 私を殺すかい」
「ああ、そりゃ当然殺す。だが、俺は情の深い男だからな。犯人の要求も、言われる前に呑んでやるよ」
私の要求? と尋ねる太宰を無視し、中也は太宰の『ゴミ箱』の中身を逆さまにひっくり返した。何通ものラブレターが部屋の床に散らばり、最後にひらりと一枚の白い紙片がその山の上に落ちた。拾い上げると、癖のある字でびっしりと物語が書かれている。二人の青年が、少年の姿になって魔法の世界へ飛ばされ、その世界で生きていくという物語だ。
「白紙の文学書の『頁』を隠し持っていたとはな。それをこんなことに使っちまいやがって…マジの馬鹿だな、手前は」
で、このセーラー服はどういうことだよ、と答えは分かりきっていたのだが尋ねてみると、案の定「私の趣味」という答えが返ってきた。
「あーあ……思ったより早くバレちゃった。その頁を破れば、元の世界に戻れるよ。でも、一つだけ私のお願いを聞いて」
最後にこのままヤらせろとか言うんだろ、と言うと、うん、よく分かったね? と悪びれもせず言う。却下したら中也のケチ、ケチは結婚できないよ、と少年の顔でぶうたれた。
「そうだな、結婚はやめだ」
そっちが本物のお願いだろ? 泣いて喜べよ、クソ太宰。
はっと見開かれた瞳を見納めに、こんな世界とはサヨナラ。
中也は満面の笑みで、自分宛の恋文を破り捨てた。