胸の煙
【注】太中の現パロ&年齢操作(中也9歳→17歳、太宰22歳→30歳)、雰囲気暗め
上記、苦手な方はご注意ください。
タイトルはずとまよの曲から。
両親の葬式の日だった。
車の事故で、後部座席に乗っていた俺だけが生き残り、二人の顔は見せてもらえなかった。
死んだと聞かされたとき、俺は泣いたと思う。小学四年生なので、死ぬというのがどういうことかくらい分かっていた。もう会えないし、話せないということだと。
叔父さんの車で病院から帰ると、知らない人が何人も俺の家にいて、勝手に箪笥や食器棚を開けていた。
ろくなもんがない、と舌打ちした男がいた。叔父さんは俺に「お父さんお母さんとの思い出を持っていってもらっているんだよ」と言った。それを持っていかれたら、俺には何が残るんだろうと思ったが、それを聞いていいのか聞ける人がいなかったから、聞けなかった。
その後も大人たちが何をしているのか、一つも分からないままよそゆきの服を着せられて別の場所へ移動させられ、黒い服の人間しかいない建物の中で、お経とお茶と世間話とオレンジジュースを交互に飲んだ。
トイレに行ってくる、と言って廊下へ出た途端、控室から聞こえてくる会話の中に俺の名前が増えた。俺は走り出していた。飲みすぎたオレンジジュースの酸っぱい味が、詰まった排水口のように喉から溢れ出してきた。建物の外に出ると、周囲一帯ぐるりと山であり、車に乗せられて長い時間走って来たこの場所がいったいどこでどうやって帰ればいいのか、見当もつかなかった。スマホもなくしたままおそらく解約されてしまったし、蝉の鳴き声を聞きながら途方に暮れていた時だった。
「……君、中原博士の子供?」
その場に立ち尽くしていた俺に、一人の男が声をかけてきた。俺がいま出てきたこの建物の入口の横に、柱で隠すようにして喫煙所が設置されており、男はそこに立って煙草をふかしていた。
「うん。そうだけど……」
おじさんは誰、と言おうとして、おじさんという呼び方で良いのか迷った。
背丈は自分の父や他の大人たちより少し高いように見えた。くせのある黒髪を整えた様子もなく無造作に下ろし、暑いのかネクタイを首元でゆるめて、シャツのボタンも一つ外していた。そこから覗く白い包帯は首の上の方までしっかり巻かれていて、よく見ると同じ包帯が手首にも巻かれているのだった。それじゃ暑いだろう、と思った。黒い服を着ているから、この人も叔父さんが呼んだ大人たちのうちの一人なのだろうと思ったけれど、さっきまで控室に集まっておしゃべりをしていた他の大人たちとは全然違っていて、子供にしては大きすぎるけど、大人というにはあまりに変で、だからなんて呼べば良いのか分からなかった。
「……たばこ吸うところ、中にもありましたよ」
「知ってるよ。君、その歳でもう吸うんだ。やるね」
「おれが吸うわけないだろ。中の方が涼しいから教えてやってんの」
男の小馬鹿にしたような話し方にむっとして、俺は一応敬語を使おうと思った判断を一瞬で撤回した。
叔父さんも他の大人たちも、控室から時々何人か出て行っては廊下の先にある小さなガラス張りの部屋で煙草を吸っていた。そんな暑そうな格好で外で吸わなくても、この人もあそこで吸えばいいじゃないかと、そう思っただけなのだ。
「それは親切にどうも。でもいいんだよ、もうすぐ見送りの時間だからね」
「見送り?」
「君もそのために来たんじゃないの? ああ、ほら――今、昇っていくよ」
指先で促されるままに頭上を見上げると、快晴の空に薄い水色の煙が一筋、飛行機雲のように昇っていくのが見えた。
それは少しすると白色に変わり、やがて真っ黒になって勢いを増し、もくもくと煙突から噴き出す。なんともいえないにおいが鼻を刺した。
このときの俺は、自分が連れてこられた建物が火葬場という場所だということも知らなかった。
知らなかったけれど、その空を見て、理解した。
「随分と静かに泣くお子様だ」
男がそんなことを言ってきたので、大声出したって変わんないんだろ、と俺は言い返した。
父さんと母さんは死んで、家の中は荒らされて、今まで通りにできることの方がきっと少ない。泣きわめいて周囲にどうにかしてもらおうという年齢は過ぎていたけど、たとえ俺が幼稚園児でも赤ん坊でも、それは変わらないように思えた。
「もう人生おしまいだ~って思ってる顔だね」
「おじさん、子供いじめんのが趣味なの?」
「子供なんていじめて何が楽しいの。それより、ずっと控室で彼らの話を聞いてたんでしょ?君はこの先どうする?」
「……知らない。あの人たちがしてた話なんて、ほとんど聞いてなかったし」
「思考停止かい?博士に育てられたのに、頭が悪いな」
「……やっぱいじわるじゃん」
「でも、容姿はいい。……ね、私の所に来ない?稼げるよ」
「おれ、売られんの?」
いじわるな大人じゃなくて、ヤバイ大人じゃん、と言ったら、今日ここに来てるのはみんなやばい大人だよ、と言って笑った。どういう感情で笑ったのだかさっぱり読めない笑顔だった。
「まぁ、君の人生だ。どのやばい大人についていくかは、任せるよ」
男の吐いた細い螺旋上の煙が、俺の表情を隠した。「お子様」の前だというのに、遠慮なくスパスパ吸いやがるので、さっきから胸に苦い味が溜まっていくような感じがする。
ついていく……?そうか。俺は、あの煙突の煙がすっかり見えなくなったら、誰かについていかなくてはならない。誰かに自分を、委ねなくてはならないのか。
小学四年生で、まだ自分で自分の面倒を見ることもできないから。
そんなの、なにが「君の人生」だよ。俺にはまだ、俺の自由にできる人生なんて存在しないんじゃないか。
「大人はずるいな。選択肢なんてない。どれを選んだって同じじゃん」
「そんなことはないさ。中原博士の弟…君の叔父さんについていけば、どんな暮らしであれ、養ってはもらえる」
「おじ…あなたについて行ったら?」
「私を養うことができる!」
「なんで子供の俺が大人のあんたの面倒を見るんだよ!」
「心配しなくても、人様に言えないような仕事をさせたいわけじゃない。私の知人に劇作家を生業としている朝霧という男がいてね。彼がちょうど君くらいの年齢の『影があって生意気そうな子役』を探しているのだよ。保護者という後ろ盾があるうちに、自分で金を稼ぐ手段を得ておくのは良いことだよ。それだけ早く、支配から逃れることができる。自らの意思で」
それにしてもどんどん口が悪くなっていくね、と男はなぜか嬉しそうな目で俺を見下ろした。やはり背が高い。俺も、大人になったら、同じくらいの背丈になるのだろうか。
「一つだけ教えてくれ」
「いいよ」
「あんたは誰?おれの父さんと…どういう関係だったの?」
「一つだけと言ったのだから、二つは答えられないな。二つ目の質問は、おいおい私の弱みでも握って、聞き出すといい」
その言い草は、俺が自分の手の内に転がり込んでくることを初めから確信しているようだった。
「私の名前は、太宰治。定職にはついてない」
「不安しかねぇんだけど……」
「でも、私のところへ来るだろう?」
「……ああ」
なぜだろう。こんな、今さっき初めて出会った、血のつながりもなさそうな男に俺は、自分の一部を委ねようとしている。
盆や正月に顔を合わせていた親戚よりも、この太宰という男について行く方が、ずっと自然なことのように思えたのだ。
「決まりだね」
太宰が灰皿の上で吸いかけの煙草を揉み消すと、計算されていたかのようなタイミングで、俺たちの前に一台のタクシーが停まった。
「ここからはだいぶ遠いから、眠っておくといい。着いたら起こしてあげるよ」
俺を先に後部座席に乗せ、後から隣に座った太宰にそう言われると、魔法をかけられたように力が抜けてまぶたが重くなった。
車のドアがばたんと閉まって、深い緑の山道をタクシーが走り出す。
まだ途中なのに出て行っていいのかな、と俺が呟くと、もう終わったよ、と言って太宰が窓の外を指差した。
火葬場の煙突から昇る煙は、いつの間にか真っ白な雲のようになって、それも薄く消えゆくところだった。
「よかった……」
両親がいつも着ていた白衣と同じ色だ。そのことに安心し、俺はゆっくりまぶたを閉じて、空からよく見えるよう、窓にぴったり寄りかかって眠った。
――八年後。
「太宰!帰らねぇなら帰らねぇって連絡しろって何度言わせんだ手前は!三十にもなって連絡ひとつできねぇのかよ」
「えー、したよ連絡。頭の中で」
「それは連絡したうちに入らねぇんだよ!言い訳が子供以下だぞ。まだ酔っぱらってんだろ、さては」
「昨日は与謝野先生に随分飲まされちゃってさぁ……お風呂入りたい。髪洗ってよ中也~」
「甘えんな。俺はこれから撮影だから、腹が減ったら冷蔵庫ん中のおかずで適当に食っとけ」
じゃあな、と突っけんどんに言い放ってマンションのドアが閉められ、ばたばたと慌ただしく走っていく足音が聴こえた。
撮影の予定が押してるなら、ぎりぎりまで私の帰りを待ったりしなくていいのに、本当に年々犬っぽさに磨きがかかっていく。
それを喜ばしいと思っているのか、腹立たしいと感じているのか、一言では説明できなかった。
「甘えるな、か」
自分の部屋を一度開け、ざっと中を見回してから、中也の部屋のドアを開ける。
昨日、中也が学校から帰ってくる前に自室に脱ぎ捨てておいたシャツがなくなっている。中也のベッドの布団を捲ってみたが、そこにはない。今日はベッドの下にもないようだ。
「洗濯は間に合わなかったみたいだけど……あ、あった」
今日はクローゼットに突っ込んでたかぁ。
彼の衣服を崩さないように取り上げて、鼻先を近づけると、自分の馴染んだ体臭に微かに混じる別の匂い。
中也は私の知人のつてで紹介してもらった役者の仕事にすっかり慣れて、最初は不貞腐れながら私にあれこれ相談してくることもあったがそれもなくなり、ちびっこのくせに時々モデルみたいな仕事も受けて、今ではそのへんの大人よりずっと稼いでいる。
出会ったときに私が話した言葉を覚えているのなら、もうとっくに自らの意思で逃げていいのに、いつまで経ってもそうしない。
中学生になった半ばからだろうか、こうやって私の着た後の服や持ち物をこっそり持ち出して、洗濯してたとか借りたとか言って後で返してくることが増えた。
面白いからそのまま放置していたら、もう三年も続いて立派な習慣になっている。三年も続けていると油断が出るのか、最近ではこうして隠し方も杜撰だ。
「馬鹿な奴……」
自分のシャツをまた中也のクローゼットに戻し、リビングへ行くと、つけっぱなしのテレビ画面に、中也が出ている清涼飲料水のCMが流れた。
今の中也が声をかければ、しゃぶってくれる女の子の一人や二人、見つけるのに苦労しないだろうに。
雛鳥のように一途に私の熱を求めて。
私が全部知っていると打ち明けたら、あいつどんな顔をするだろう。
きっと真っ青になってから真っ赤になって、それからまた青くなって、ああ、想像したらやりたくなっちゃうな。どうしよう。でも。
(馬鹿か、手前。甘えんな)
私が死んでから死ぬって約束も、秒で記憶持ちで生まれ変わって来いって約束も、私のことを忘れないって約束も、全部破った中也が悪い。そんな約束した覚えはないって君は言うんだろうけど、私が約束だよって言えば、なんだかんだで律儀に果たしてきた男だ、これに限って果たせないなんて無しじゃないか。
だから私、中也を作らせてしまった。そして今、中也じゃない中也が、やがて自ら中原中也を完璧に演じるように仕向けようとしている。
胸に吸い込むシガーの煙は、とうに彼の匂いではなくなっているというのに。