飛んできた一羽のカモメが、黒い尾羽をたたみ、柵の上にとまって朝の光を浴びている。
 東口のマクドナルドのテラス席で正面を流れる帷子川を眺めながら、エッグマックマフィンをかじり、百円のホットコーヒーを口に含む。
 いい気分だ。この一日は天から降って湧いたものではなく、面倒な任務を片付けて勝ち取った休暇だった。
 《暗殺王事件》から一年が経った先月、俺の部隊にとある密輸組織の殲滅命令が下った。横浜港の周辺を最近うろちょろし始めた華僑の連中で、用心深く潜伏先を変えながら逃げ回っていた。
 俺と部下たちは、そいつらのアジトを襲撃して逃げ遅れた奴を捕まえて拷問して次のアジトの場所を聞き出して、また襲撃してそこでも逃げ遅れた奴を捕まえて拷問して…という終わらないオリエンテーリングを繰り返していた。
 事前情報では特に後ろ盾も持たない小所帯だという話だったのに、そろそろ全員殺ったんじゃねえかと思っても、また次のアジトが出てくる。逃げながら器用に人と組織を拡大しているらしかった。
 こういうとき、クソ太宰を引っ張り出せたら三秒で最短ルートを指し示してくれるのだが、あいつはあいつで別の任務でしばらくポートマフィアの拠点に顔を出してもいなかった。何やら身分を詐称して、どこぞの組織に潜入しているらしい。見つかってくたばっていたらいいんだが。
 俺は、部下たちに一旦寝ろと指示をして、自分も拠点の仮眠室で五時間ほどぶっ通しで寝た。捕虜にした奴が次のアジトの場所を吐いたら、作戦もそこそこに突撃し、またそこで捕虜を連れ帰って…ということを続けていたから、みんなほとんど不眠不休だったのだ。
 睡眠の力というのは本当に侮れないもんで、そうしたら目が覚めるなり頭の中に一つの考えが閃いた。
 次の潜伏先を考えるのではなく、なぜ潜伏先を次々変えるのかを考えたら、このオリエンテーリングの各ポイントに置き去られた奴等は逃げ遅れたのではなく自分たちのリーダーを逃がすためにわざと囮として残り、時間稼ぎをしていたのだ。そうだと仮定すれば、彼らが次のアジトを白状するまでに要した時間内で逃亡可能な範囲にある場所を片っ端から洗えばいい。
 こんな単純なことに気が付くまで随分時間を浪費してしまったが、幸いこちらの部隊に損害は出ていないし、リーダーの潜伏先に隠れていた残党もまとめて一掃できたので、殲滅任務は成功したと言っていいだろう。
 リーダーの身柄を拘束して姐さんの拷問班に引き渡し、報告書を出したのが朝の六時。
 シャワー室で部下の一人が「中原さん、あいつらの組織の名前聞きました? リーダーが持ってたハンコみたいなやつに刻印されてて、それがBTSっていうんですよウケません?」と完全に徹夜&任務達成ハイの目で絡んできたのを「そりゃあ面白えなあ。帰って寝ろ」とあしらって、汗と火薬の匂いをシャワーで流した。
 拠点に置いていた私服に着替えて横浜駅へ向かい、このまま自分の部屋へ帰って寝ようかどうしようか、と考えながら、とりあえず何か腹に入れようとマクドナルドに立ち寄って、現在時刻は七時半。
 久しぶりの休みだし、変に目も冴えていて、なんとなくこのまま帰るのはもったいないような気分だった。帰ってベッドに倒れたら最後、今日一日寝て過ごすだけになることは間違いなく、それならいっそ体力が空っぽになるまで遊び倒してから寝るのもいいと思った。
 スマホの液晶が着信を知らせた。太宰だ。無視。
「こっちの仕事は片付いたし、今更用はねえっつの……」
 海風になでられて少しぬるくなったコーヒーを飲み干し、紙製のカップを指でぺこぽことへこませながら、今日をどんなふうに過ごそうかと考える。
 何をしよう? こんな明るい時間からする遊びなんて、マフィアに入ってからはほとんど縁がない。ツーリングかゲーセンくらいだが、疲れたらすぐ帰って自分の部屋で寝たいから遠出はしたくないし、ゲームという気分でもない。かといって横浜近辺で今更見たいものなんてないしな。
 ……ああ、そうだ。
 俺は手の中でくしゃくしゃに丸まったマフィンの包み紙に目を落とす。
 食べ歩きというやつをしてみようか?
 俺は今まで、食事という行為そのものを悠長に楽しんだことはない気がする。
 一番古い記憶で口にした食べ物は、擂鉢街で――あの一帯を『擂鉢』にしたのは俺なので、そう呼ばれ出す以前の名もなき貧民街であったが――そこを彷徨っていたとき、《羊》に拾われて分け与えられた白いパンだ。
 うまいとかまずいとか考える余裕はなかった。口の中で噛んで飲み込むだけで体の内部が熱を帯び、汗が噴き出し、食べ終わる頃には息もぜえぜえ切れていた始末で、「すごくつかれる」と思った。あのときの自分は、食べるということがどういう行為かも知らない状態で外の世界へ放り出されて、ほとんど本能だけで歩いていたから、体がひどく消耗していたのだろう。
 拾ってやった恩を忘れるなよ、と白瀬はよく俺に言ってきたが、あそこで何も食べないままでいたら、俺は死ぬか、俺自身の意識を手放し異能を暴走させて、死ぬよりもっとひどいことになっていた。それを「恩」と表現するのが適切なのかは分からない。けれど、誰に言われずとも、俺はそのときの出来事と初めてパンを噛んだ感触を忘れることはないだろう。
 そして俺は重力操作の異能力を揮い、恩人に危害を及ぼす連中を退けているうち、いつしか王と呼ばれ始めた。
 《羊》は大人と取引をしない。だから生きていくための手段は常に盗みだった。ホテルの食糧庫や貨物船に忍び込み、食べ物と酒を盗んだ。盗みの最中はもちろん、隠れ家に戻って彼らと一緒に戦利品にありついているときも、俺は一人でいるとき以外はいつも周囲を警戒していたから、あれは美味かったなあと思い出せるようなものはない。
 ポートマフィアに加わってからも、たいてい移動中に適当に済ませている。見たことも聞いたこともないようなすごいメシを食う場所に連れて行ってもらえることもあるのだが、そういうものを食うときには決まってすごい数のお作法がついてくるので、隣にいる姐さんの目が怖くて何を食っても食った気がしない。
 そうだ。お行儀悪く食えるうまいもんが食いたい。
 そうと決まれば屋台だ。中華街へ行こう。
「おぉ~~い、ちゅうやぁ~~」
 また太宰だ。しつけえな。
「ちゅうやぁ~~たすけてぇ~~」
 うるせえから一回出て切るか、とさっきテーブルの上に裏返して置いたスマホを手に取ると、誰からも着信は来ていなかった。俺ははたと気が付く。電話に出る前にアイツの声が聴こえた。すぐ近くで。
 顔を上げて周囲を見回すと、下流から東京湾へ合流する流れを跨ぐ大橋の欄干にしがみついて、みっともなく助けを求めている見慣れた黒外套の少年がいた。
「太宰? 何やってんだあいつ……」
 自分が座っているテラス席から橋までの距離は三十メートルほどあり、じっと目を凝らすと、太宰の背後にもう一人男が立っている。太宰の体をぐいぐいと後方に引っ張るような動作をしている。二人の側に停車している黒のミニバンの後部座席側のドアが開いていて、状況から察するに、相棒が拉致されようとしているところだった。
「無視……はできねえよなぁ。クソッ!」
 俺は手の中で握り潰した紙カップを球状に圧縮し、太宰を引っ張っている男の肩を目がけ、重力を乗せて弾いた。ぐわっ、と蛙の鳴くような悲鳴をあげてよろめいたそいつの後ろで、助手席からもう一人新手が外へ出て来る。
 女だ。上等な着物を纏った小柄な女。
 なんとなく、あの女にこちらから攻撃するのはまずいと勘が告げていた。俺のこういう勘はよく当たる。
 さっきまでコーヒーとハンバーガーを載せていたプラスチックトレーを片手で圧縮しながら走り出す。削りすぎた鉛筆のような形に変形したそれを槍投げの要領でぶん投げ、そいつらが乗ってきたらしい黒のアルファードのタイヤに突き刺した。
「いい判断だ」
 と、言われた気がした。聞こえたわけではなかったが、太宰がほくそ笑んでいる気配だけでもう超むかついた。
 あと5メートル、跳べば届くという距離まで接近したと思ったら、先に跳んだのは太宰の方だった。かん、と欄干に飛び乗り、着物の女にひらりと手を振って背中から川へ身を投げる。
「あ、んのクソボケカス……ッ!」
 ちょうど観光客を乗せた海上連絡船のシーバスが船尾から飛沫を上げて目の前の停泊場を出航したところだった。俺はフェンスを越えてその船の屋根に飛び移り、橋から落っこちて来た太宰を受け止めた。重力操作の効かない二人分の体重で、堅い金属板にしたたか背中を打つ。
「痛ってえ! あ~あああマジでむかつく! 手前は本当にいつもいつも厄介事ばっかり起こしやがって!」
「中也」
「なんだよ!」
 促されるまま太宰の視線を追うと、橋の反対側に追って来た女が両手で銃を握り、俺たちに狙いを定めていた。
 銃の扱いに手慣れた人間であれば、俺が目を向ける前にもう撃っていたはずだ。下手な鉄砲は一発では的に当たらない。ここに乗り合わせている無関係の民間人に当たってしまうかもしれない。
 俺は太宰の黒外套の釦を一つ引きちぎり、女の構えていた銃をそれで弾き飛ばした。丸腰になった女が唖然とした様子で遠ざかってゆく俺たちを見送る。
「それ、便利だねえ。でも弾丸にするなら私の服の釦じゃなくてもよかったんじゃない?」
「手前が持ち込んだトラブルだろうが。なんで手前のために俺の私服を傷物にしねえといけねえんだよ」
「これ、森さんから貰った外套なんだけど?」
「あ」
 そういえばそういう話を聞いたことがあったな、と思い出して、俺は首筋にすうっと冷たい汗をかく。太宰治がいつも身に着けている黒外套は彼を組織に入れた森鴎外首領から下賜されたものであると。
「助けたんだから、黙っとけよな」
「いいよ。君が代わりの釦を付けてくれるんなら」
「なんで俺が……分かったよ。とりあえず、どういう状況か聞かせろ」
「もう少しここから離れよう。話はそれから」
 ぽんぽん、と自分たちが座っている船の屋根を叩いて、太宰は微笑んだ。意図を理解して俺は溜息をこぼす。
「振り落とされんなよ」
「もっとアトラクションのおねえさんみたいに言って」
「しっかりつかまってねーっ☆」
 重力操作で軽くなった船体がエンジンの推進力でぐあんと一度後ろに傾き、真っ白な波飛沫を上げて着水した。
 競艇ボートさながらのスピードであっという間に市場の横を通り過ぎ、みなとみらい橋の下をくぐって、東京湾へ出た。遊園地の観覧車がみるみる間近に迫ってゆく。
 乗客たちが異常なスピードに動揺し騒いでいる声が天井一枚隔てて聴こえてきた。これじゃゆっくり景色を楽しむ間もないだろう。ちょっと悪い気もするが、これが横浜の日常だ。諦めてもらう他ない。
「港で降りよう。人の多い場所の方が、追跡を撒きやすい」
「――人の多い場所って例えば?」
「中華街」
「げっ……」
 訊ねた時点で嫌な予感はしていた。
 まさに俺が今日という貴重な休日を過ごそうと思っていた場所である。なんだってこいつは俺のやることなすこと邪魔しに来やがるんだ。
「手前……わざとやってんじゃねえだろうな……」
「何のこと? ついでに何か食べようよ。ずっとオシゴトしてたからお腹空いちゃった」
 俺はもう食ったんだよ、と言っても、大丈夫、入る入る、と適当な返事をして、太宰はジェットコースターのような速度で進む船の上でものんびり胡坐をかいていた。
 潮の匂いを含んだ風がびゅうびゅう吹いて、いつも太宰の顔を半分隠している前髪を猫がじゃれるみたいに掬い上げている。右目は常時包帯で隠されているのだが、それでも青空の下にひたいを晒して気持ちよさそうに風に吹かれている表情が珍しくて、俺はつい盗み見ていた。
「久しぶりだね」
「あ? …ああ、船か? 確かにあのとき以来だな」
 《暗殺王事件》の後、太宰と二人で英国政府の調査団を歓待するために横浜港から客船に乗った。あれはこの船とは比較にならない大きさであったが。
「違うよ。手こずってたでしょ、最近のシゴト」
「うるせえな。関係ねえだろ手前には」
 それにもう片付けたぜ、と、付け加えた。
 かったるい仕事だったから、やっと終わった解放感でつい言いたくなってしまったのだ。てっきり「なに得意げになってるの? あの程度の任務で」とか嫌味を返してくると思ったが、太宰は意外にも「そう。よかったね」とだけ言って、やわらかく微笑んだ。
 シーバスは定刻よりずっと早く山下公園に到着し、俺たちはそこから歩いて中華街へ向かった。
 朝陽門の柱の色は濡れたコバルトブルー。柱の間を通ると、細い路地が斜めに枝分かれしている。太宰は迷いない足取りで先に歩き出し、俺はその後ろを歩いた。
「ほら中也、いちご飴だって。食べる?」
「いらねえ」
「中也って甘いの苦手だよね。頭使わないから脳が糖分を必要としないのかな」
「うるせえ」
「なんで後ろを歩いてるの? 今はプライベートなのに、私を護衛してくれてるとか? 感心感心」
「そんなんじゃねえ! っつか、仕事でも命令じゃなきゃ幹部でもねえ手前の護衛なんかしねえよ」
「そうなのだよねえ。あーあ、中也が私の部隊の所属なら、私に傅く中也を毎日眺められるのに。私が幹部になったらご褒美に君の配置変えしてもらおうかな」
「俺が先に幹部になって手前をシベリアに飛ばす」
「凍死って苦しいかなあ?」
 くだらない言い合いをしている間に、自然と太宰の隣を歩く歩調になっていた。それこそ仕事でもないのに休日まで一緒に過ごしているみたいで嫌すぎるのだが、さっきの話の続きを聞く場所の当ては太宰が知っているようだから前を歩いて先導することはできないし、後ろをくっついて歩くのも癪だし、そうなると隣しか選択肢がない。
「私の上をふわふわ飛んでついてきてもいいのだよ?」
 妖精さんみたいに。と言って、太宰はいつの間に買っていたタピオカミルクティーを飲んでいた。
「あほか。観光客に中華街のパフォーマンスだと思われるわ」
「横浜の外から来た人は、異能力なんてめったに見ることないものねえ」
「……なあ、それも甘いやつ?」
「寧ろこの街が異常なのか――え? 飲んだことないの?」
 ちょっと前までそこら中で売ってたのに。と茶化すわけでもなく純粋なトーンで聞かれたので、「おう」とだけ返すと、太宰はぱちぱちと長い睫毛をしばたたかせ、急に小さくなった声で「…飲む?」と訊ねた。
 赤い看板に『占』という文字が大きく掲げられた店の前で太宰は立ち止まり、飲み物の入ったカップを差し出した。俺は差し出された太いストローをじっと一秒間睨み、カップは太宰の手に持たせたまま、横髪をかき分けて耳に掛け、口をあけてストローを咥えた。ひゅ、となぜか太宰まで息を吸い込んだ音が聴こえた気がした。
「…っ、ごほっ、げほっ! おえ、なんか変なとこ入った」
「そんな勢いよく吸うからでしょ……」
 甘いミルクティーの味を感じた後に、すぽすぽすぽっと大粒のなんかモチモチしたものが飛び込んできて、喉に詰まってむせてしまった。
「これがタピオカ? 味しなくね?」
「炭水化物と糖分いっぺんに摂れて楽だから私割と、好き。これ飲んだらラーメン一杯分くらいのカロリーかな」
「マジかよ。だったらラーメン食うわ」
「ラーメンは歩きながら食べられないでしょ」
「手前はこんなもんばっか食ってて、よく太らねえな」
「いつも適当に済ませてるし、そもそも食べないことの方が多いから」
 あんまり興味もないし、と太宰が呟いた言葉に被せ気味に俺も、と返した。
「食ったり飲んだりすることだけのために何時間も何十万も使うやつらの気持ちがわっかんねえんだよな」
 そう言いながら、前に三人並んでいた露店で焼き小籠包の六個入りを買って戻ってくると、楽しんでるじゃない、と呆れ顔で俺の手の中のそれを覗き込んだ。
「わかんねえから、どんなもんかやってみるんだよ」
「仮説を立てずに動くところが君らしいね」
「あっ、おい勝手に食うな」
「けちけちしないの」
 横から掠め取った割り箸を使って、太宰が小籠包を一つ自分の口に放り込む。もごもごと咀嚼しながら「うーん、まあまあ普通」と感想を言った。
 おかげで食べる前から期待値が大幅に下がったそれを俺も一つ口に放り込む。すると、薄皮を歯で噛んだ瞬間にじゅわっと熱い肉汁が飛び出して、思わず手で口を押さえて悶絶した。隣で太宰がにやにやと笑って見ている。
「あーあ。先に中の汁を吸ってから食べるんだよ」
 熱いスープを無理くり飲み込み、口を開けて冷ましながらなんとか一つ目を食べ終わる。そうしている間に、太宰はひょいひょいと二つおかわりしていった。手に持っていた紙皿があっという間に軽くなる。
「てっ…めえはなんで普通に食ってんだよ」
「んー? あ、ちょっと待ってて」
 タピオカミルクティーをかき氷の入ったカップに持ち替えて戻って来た太宰が、ハイどうぞ、とたっぷり真っ赤なシロップのかかったそれを俺に差し出す。
「また甘いもんかよ」
 そう文句を返しつつ、火傷した舌に冷たい氷菓子は正直魅力的だったので、長いスプーンで山盛り掬って頬張った。シロップには大粒の苺の果肉が溶け込んでいて、思った以上に甘かったけれど、口の中の粘膜がひんやりと冷えていく感触が心地よかった。
「昔から、死ねそうな薬とか茸とか葉っぱとか見つけたら手あたり次第にやってTRY!してきたんだけど」
「仮説を立ててから動く云々はどこいったんだよ」
「食べたら死ねるかも、って仮説のもとでだよ」
 食いかけのかき氷を返すと、太宰はそれをまた何の表情の変化も見せず口に運びながら歩き出す。
「そういうことをやってたら、舌が変になっちゃって」
「へん?」
「火傷しては治ってを繰り返したからかな。腫れちゃって。ちょっとざらざらしているんだよね」
「へえーー……」
 そんなことを言われたら、どうしても太宰の唇に目がいってしまう。俺の視線に応えるように、んべっと突き出された奴の舌は、鮮やかな赤に染まっていた。
「かき氷の色じゃねえかよ」
「近くで見ないとわかんないかもね。まあとにかくさ、舌が熱いのや冷たいのや痛いのやに慣れちゃって、あんまり分かんないんだよね、もう」
「……それじゃ、味もわかんねえだろ」
「味がするな~っていうのはわかるよ」
 細い路地を曲がると、風に乗って線香の香りが鼻をつく。頭を上げると、真っ青な空によく映える極彩色の建造物が現れた。中華街のシンボルである関帝廟だ。
「何? お詣りでもしてく?」
「しねえよ。中国の神様に知り合いはいねえ」
「よく知らない奴でも助けてくれるのが神様ってものじゃない?」
「神様に会ったことでもあんのかよ」
「どうかなあ」
 関帝廟を通り過ぎて少し歩いたところで、太宰はやっと足を止めた。「ここだよ」と言って店の扉を指差す。
 良く磨かれたガラス張りの扉。外壁は一面金箔を貼り付けたかのようにぎらぎらと光っており、受付にホテルマンと見紛うような姿勢正しい男が立ってこちらを窺っている。どう見ても高級店だ。
「おい。俺は今日は露店で食べ歩きしたい気分なんだよ。話をするだけなら、その辺のカフェで」
「さっき歩きながらニラ饅頭も買ってたじゃない。個室にするからお行儀を気にしなくていいし、付き合ってもらうお礼に支払いは全部私が持ってあげる」
「まじか」
「食ったり飲んだりすることだけのために何十万も使うやつの気持ちを私に分からせてみ給えよ」
「言ったな。撤回はなしだぜ」
 俄然食欲がわいてきた。最近、同僚が「他人の金で食う焼肉ってなんであんなに美味いんですかねー」と話していたのを聞いたときはぴんときていなかったのだが、太宰の金で食う高級料理は確かに美味そうである。
「いらっしゃいませ。ご予約はされていませんよね?」
 店に入ると、受付の男が笑顔は崩さずに、しかし冷たい声音でそう言って俺たちに近寄って来た。入口で追い返そうという感情が見え見えの態度だ。
 十七の子供二人、しかも俺はカジュアルな普段着で来たから、とてもこの店のお客には見えなかったのだろう。「個室を使いたいな。予約はこれで」
 太宰はおもむろに外套のポケットから金色に光る五センチ四方の物体を取り出した。
 表面に蛇の彫刻が彫られた黄金の印章。それを見た男は急に顔色を変え、自分の掌に載せてしばらく注意深く眺めた後、太宰の手にそれを返し、「……大変失礼しました」と喉から絞り出すような声で言った。
 通された部屋には、食事をするための円卓を中心に、金銀螺鈿細工が施された箪笥や鏡台がインテリアとして飾られていた。木蓮の花の形をしたシャンデリアが淡い橙色の光でそれらを艶めかしく照らしている。
「まるでマフィアが会合に使う店だな」
「それ、冗句? 私たちが来た目的はひとつだよ」
 食べよっか。
 太宰は受付に預けることを辞退した黒外套を椅子の背に掛けて着席し、メニューの一頁目を開いて円卓の回転盤に載せ、くるりと回した。選べということらしい。
「――俺は、窯焼き北京ダック。フカヒレと蟹肉のスープ。あわびの姿煮。大海老のマヨネーズ風味。骨付きあひる肉の炙り焼き。あと、コーラ」
 俺は太宰の向かいにどっかり腰を降ろし、とりあえず値段の高いやつを片っ端から注文した。
「わかりやすい奴。好きなものを食べなよ。私、紹興酒と上海蟹の姿蒸しと牛タンと春菊のサラダと揚げ茄子の山椒風味と胡麻団子と杏仁豆腐。食後に烏龍茶」
「けっ…こう食べるのな」
「食べるって決めた日はいっぱい食べるよ」
 私のこと何だと思ってるのさ、と言って太宰がメニューを閉じて卓に置くと、注文を取りに来たボーイはうやうやしく一礼してから退室した。
 普通に色々注文するというだけでも驚いたのに、ドアが閉まったのとほぼ同時に太宰が白いシャツの袖を大雑把に捲り出したので、俺はあっけに取られてしまった。
「手前、組織内の一部で『幽鬼』って呼ばれてるらしいぜ」
「知ってるけど」
「幽鬼がそんな腕捲りして中華食って胡麻団子と杏仁豆腐で締めてたらイメージダウンだろ。いや、イメージアップなのか? この場合」
「中也はどう思うの?」
「あ? 俺? 知らねえよ手前の好きに食えばいいだろ」
「なんだ。だったらいいじゃない」
 俺のコーラと一緒に陶器の甕が運ばれてきた。ボーイが柄杓で琥珀色の液体を掬い、小さなグラスに注ぐ。太宰は円卓を回して二人分のグラスの片方を寄越した。
「何だよ、いらねえけど」
「あれえ? 中也飲めないんだっけ」
 そっかそっか、お子様には刺激が強いよねえ、とわざとらしく煽ってくる。煽られていると分かっているのに上手にかわせない俺は、小さなグラスの中身をかぱっと一口で飲み干した。
 酒が入った瞬間、喉が燃え上がるようにひりついたが、なんてことない顔を作ってグラスを置く。
「どっ、てことねえな」
「いい飲みっぷりだ。どんどんいこう」
 太宰が次々注いで寄越してくる紹興酒は、コーラと交互に飲んだら焦がし砂糖みたいな甘い香りが鼻腔に広がって、運ばれてきた肉の味まで甘く感じた。
 太宰は俺が注文したスープを気に入ってそればかり飲んでいたかと思いきや、蒸し器に入った上海蟹が登場すると大振りの鋏を持って黙々と蟹の解体を始めた。
 ぱちん、ぱちん。太宰の手が十本の脚と爪をひとつずつ順番に胴体から切り離す。すんなり伸びた細い脚の両端を切って、ばらばらになった爪をフォークのように使って脚に詰まった身を押し出す。そうしてやっと出て来た白い身を黒酢に浸け、口に運んだ。
「……好きなのか?」
 蟹の汁で汚れた指を時々しゃぶりながらもう一本、もう一本と夢中で解体していく動作を見ていると、なんでだかこっちの食欲まで盛り上がる。
 人がうまそうに食ってるのを見ていると自分の飯もおいしく感じるとか、そういうあれが大嫌いなこいつ相手でも発動しているのだろうか。
「え? あ、蟹? そうだね。昔、蟹を食べたら頭が少し軽くなったような気がして……脳の神経伝達物質に使われるグルタミン酸が多く含まれているからかなと思って、同じくらい入ってる味の素を直飲みしたらそれも効いてさ」
「頭いてえなら普通に薬飲めよ」
「だから、市販薬なんかもう殆ど効かないんだってば。毒に近いような…昏睡させるくらい強い薬なら別だけどね」
 皿の上にぽつんと残されていた胴体を太宰の細長い指がそっと持ち上げた。赤い甲羅と腹の境目に親指を二本差し込み、ゆっくり割り開いてゆく。めりめりめりばきばきばきと音を立ててカラダが二つに分離させられていく光景を無表情に眺めながら俺はでかいエビマヨを食う。
 いや、ひょっとしたらいま変な顔してるかもと謎に焦る気持ちに襲われ、自ら柄杓を掴んで紹興酒を注ぎ足した。
「森さんに会ってから、たまたま頭痛に関する文献を読むことがあって、それによると、グルタミン酸の過剰摂取は逆に頭痛を誘発すると書いてあった」
「だめじゃねえか」
「私はたぶん、人より多くのことを記憶してしまうから、摂取した分は余さず使っていて、摂りすぎなんてことにはならないのかも。なぁんて、これは何の根拠もない妄想だけどね。そういうわけで……今でも蟹か味の素が欲しくなるときがあるけれど、おまじないみたいなものだよ」
「今でもそんなしょっちゅう頭いてえの?」
「割と。考えることが多くてね」
 蟹の腹の中にあった何の部位なのだかよく分からないごちゃごちゃした部分をぶちぶちとちぎって取り去っていくその手はもう手首までしっとり濡れていて、ああこれを見越して袖を捲っていたのかと俺は思った。
「考えて、今日のあのザマだったってか」
「あれは車から中也が見えたから」
「はあ?」
「それでネタばらしを早めたら、当然だけどめちゃめちゃ怒らせちゃって。今回は例の密輸組織を潰すために必要なものを奪いに行っただけで、髙瀬會と全面抗争したいわけじゃなかったから、中也があのお嬢様を傷つけないでくれて良かったよ。相変わらず、野性の勘が働くよね」
 ワンちゃんえらいえらい、と言いながら、太宰はスプーンで腹に詰まった蟹味噌をほじり出し、まるでプリンでも食べているみたいにぱくぱく口に運ぶ。
 胴体の両側に残っていた白い肉もあらかた食べてしまうと、食卓に運ばれていた冷たい茶の入ったボウルで手指を洗い、拭いたおしぼりを丸めて置いた。
 そのボウル、そういう風に使うのか…と俺は内心で動揺していた。綺麗なガラスのボウルに紅茶と薄く切った檸檬まで浮かんでいるもんだから、太宰が先に使って見せなければ、あやうく飲んでしまっていたかもしれない。
「あ、中也。これ手を洗うやつだから」
「知ってるわ」
「そう? それは失礼したね」
 太宰は「はあ。すごくつかれた」と溜息を吐いて椅子に深く寄りかかり、行儀悪く食卓に伸ばした手で胡麻団子をひとつ取ると、目を閉じてもぐもぐ噛み始めた。
「おい、食いながら寝るなよ」
「ねあいお。やあらあ~」
「食ってから喋れ」
「んむんむ……うん。ここんとこあまり寝れていなくて」
「俺もだ。これ食ったら帰って寝る」
 本当は夜まで遊び倒そうと思っていたのに、アルコールを体に入れたせいか、食いすぎて血糖値が上がったのか、瞼がじんじん痺れるような眠気が襲ってきていた。
「つうかよ…例の密輸組織って、俺たちが追ってた華僑の連中のこと言ってんのか? そいつらなら今朝俺の部隊が頭を獲ったぜ」
「知ってるよ。森さんから聞いた。中也が獲ってきたのは頭じゃなくて足だけれどね」
「ああ? あいつは間違いなくリーダーだった。じきに姐さんの拷問部隊が全部吐かせる」
「間違いなくリーダーの男だよ。ただし、彼らは組織が追っていた密輸グループの『足』だ」
 太宰は円卓の上から杏仁豆腐の入ったデザートグラスを取り、代わりに自分の携帯端末を置いてこちらに回す。液晶画面に表示されていたのは一月前の日付の新聞記事だ。

 ■覚醒剤の個人密輸が活発化
 神奈川県警××署は某日、覚醒剤取締法違反の疑いで横浜市××区××町に住む輸入代行業者の男を逮捕した。男は外国人密造グループと共謀して釜山の薬物密造工場から国内に覚醒剤を持ち込んだと供述しており、男の自宅からは覚醒剤十六キログラム、覚醒剤原料三百五キログラムを押収している。

「個人で捌ける量じゃねえな」
「これが本当に個人の副業なら、お小遣いが入る前に棺桶の蓋が開いてる。ポートマフィアか髙瀬會どちらかからのお見送りオプションサービス付き」
「ヤクは向こうのシマのがでけえだろ」
「君の担当じゃないのによく知ってるねえ。そう、ヨコハマ陣地取りゲェムにおける組織の戦況は店が半々、絵と石八割、薬が二割だ」
 知っている。自分は《羊》にいたころ、仲間たちが興味本位でドラッグに手を出そうとしたら、何度も止めてきた。
 《羊》の連帯を壊そうと大人たちが差し出してくるのは決まって金か酒か薬だった。薬をちらつかせてくる人間の裏には髙瀬會というヤクザがいることも知っていた。
 ポートマフィアはその点においてだけは、警戒対象から外していた。時々、マフィアの縄張りにも盗みに入ったが、そこに保管されているのはたいてい銃器の他は宝石や美術品の類で、安全に売りさばく手段を持たない自分たちには無用の長物であった。
「……首領は、薬で儲ける気はねえのかな」
「あるでしょ。事実二割はうちが握ってる。薬は現金化するのに時間と人手がかかりすぎる。取引相手には闇社会のルールを知らない一般人が少なくないし、だから、警察にあっさり捕まる奴が出てくる。それだけだよ」
「割に合わねえってことか」
 最高幹部の執務室から横浜の街並みを見下ろし、「すべては組織と、この愛すべき街を守るために」と答えた森の横顔を思い出していた。それと同時に、粗悪なドラッグに溺れた哀れな仲間の顔もよぎる。
 ポートマフィアの組織力を惜しみなく投じてドラッグを流通させれば、おそらく横浜は一年も経たず阿片窟と成り果てるだろう。森はそれを喜ばない気がした。
「……なにをあの人に期待してるんだか」
 太宰は俺の思考を読んでいるのか、つまらなそうな表情で頬杖をつきながら円卓を回し、携帯端末を取り返した。デザートを二つとも完食したというのに、またグラスに酒を酌み始めている。同じことを俺がやったら食事の順番がどうのと姐さんからしこたま怒られるだろう。
「なに。なんで笑ってるの、気持ち悪い」
「いや。手前と飯食うなんて御免だと思ってたが、そう悪くもねえなと思った。なんつうか――楽だ」
「は…………あ、そう」
 太宰治らしくもない捻りの無い応答が返ってきて、益々愉快な気分になってきた俺は、目の前の男と張り合うようにグラスを空け、北京ダックの烤鴨餅に他の皿に乗っていた海老やら蟹やら家鴨やらを巻いて勝手にアレンジした何かを生み出しては卓を回して太宰に試食させた。
 太宰も機嫌が良いのか一口食べる度に「蟹が入ってる。百点」とか「なんかの味がする。百五十点」とか「えーと、あったかい、千点」とか雑なコメントを返してくれるものだから、点数がおかしいだろと言って俺も笑った。
 食後に太宰が注文していた烏龍茶が運ばれてきたあたりで、おやおやちょっとおかしいぞと気づきだした。
「だざぁい…おれ、ちょっと酔ったかもしんねえ」
「え? そんなに飲んだ?」
「手前のその…茶碗、四つに見える」
「二人分だから中国茶はこれでいいんだよ。うーん、確かにいつにも増しておばかになってる。かわいい」
「あー? なんて?」
「なんでもない。これ飲んだら帰ろうか」
「んん……待てよ。結局、朝っぱらから手前を拉致しようとしてたアルファードは何だったんだよ」
「言ったじゃない。髙瀬會の人間だよ。正確にはその傘下の貿易会社の御令嬢と彼女の手下。今回の『頭』だ」
「俺が追っていたのが『足』で、手前が潜り込んでいたその会社が『頭』なら、髙瀬會のシノギをうちが奪いに行ったってことか?」
「結果的にはそうなったけど、発端は逆だ。釜山の密造工場、あそこは元々ポートマフィアの投資で作った場所だったんだけれど、色々問題が多くて、上がってくる物の品質も悪いし、担当していた幹部が見切りをつけて閉めたはずだった。そのとき建物と資材、職を失うことになった現地の人間の後処理を怠ったんだね。知らぬ間に工場は再稼働していて、我々は手間暇かけて構築した密輸ルートをそっくり盗まれてしまった。ぽっと出の華僑の連中に」
 あいつらは囮だったわけか。髙瀬會が直接ポートマフィアに仕掛ければ、全面戦争に発展して、粗悪なドラッグの利益なんて一瞬で消し飛ぶ。あくまでパトロンとして立ち回り、リスクを回避しようとしたのだろう。
「この中華街は面白い所でね。ここで商売をするとき、四つに分けた区域ごとに選ばれている『長』の承認が必要になる。四つなのは、風水の四神にあやかっているのかな。その長は家族と認めた者に金印を授けるんだ」
 ああ。この店に入るときにこいつが出したあれか。
「今頃、姐さんの部隊が吐かせた情報を持って、首領が長に渡りを付けたころだろう。そうでなければ、この区画で商売することを許した髙瀬會(かぞく)の印を盗んだ私に、こんな美味しい食事を出してくれるはずがない」
「へえ……あれが『王手』だったってわけね」
 おもしろくねえな。
 タピオカやら小籠包やらかき氷やらニラ饅頭やら食べ歩いていたあの時間は、首領が交渉を始める刻限にこの店に金印を届け、ポートマフィアが全てを把握し全てにおいて上回っていることを思い知らせるための時間調整だったということではないか。
 べつに腹を立てるようなことではないはずなのに、こいつの行動によって首領の交渉も上手くいったのであれば何の問題もないはずなのに、なんとなくさっきまでの自分のはしゃぎようが急に寒々しく思え、俺は両腕で香箱を組んで食卓に突っ伏した。
「えっ、ちょっと、潰れたの? こんなとこで寝ないでよ。私、チビゴリラを運ぶなんてやだよ」
「うるせえ、はこべ。通りで車ひろうから、そこまで」
「ええ~~。中也ってこんなにお酒に弱かったんだ。そういえば毒物耐性も幼児と同じくらいだって研究所の資料にも書いてあったもんな……」
 めんどくさい、おもい、とぶつぶつ言いながら太宰は俺に肩を貸して引きずるように店を出た。
 淡い橙色の室内灯の下から急に真昼の陽の下に出たので、目が眩しくて、俺は逃げ込むように漢方薬局と煙草屋の間の路地裏に身を滑らせた。タクシー拾うんじゃないの?と訊ねながら、太宰も一緒についてくる。
「……むかつく」
「は? 急に何」
 誰もいない場所に来たら、気が緩んで思っていることが口からぽろぽろ出てくる。
「仕事だったんじゃねえか」
「仕事……え、っと、え? まさかそれで拗ねてるの?」
「拗ねてねえよ!」
 太宰は黒外套から携帯端末を取り出すと、どこかに電話をかけて、すぐに切った。
「車呼んだよ。今日は私、君の部屋に泊まるね」
「はあ? 嫌だよ来んな。自分の部屋に帰れよ」
「だって私、あの御令嬢に銃向けられたし~こわ~い。家まで突き止められてたらどうする? 殺されちゃうかも!」
「願ったりじゃねえか。つか、何したらマフィアの人間と分かってて殺そうとするほど恨まれんだよ。女の敵」
「あれ。嫉妬してくれるの?」
「だれがっ――」
 何かが唇に触れた。
 何かなんてひとつしかなかった。いくら酔いどれているとはいえ、こんなに近くで息がかかれば分かる。
 キスされた、と思った瞬間、体が硬直し、それから全身に毒が回るようにゆっくりと弛緩していった。手紙の封を切るように舌で線を引かれたら、唇までやわらかくなってしまって、勝手にふにゃふにゃ開いてゆく。
「いやがらないってことは、そういうことでいいの?」
「ちがう…おれは酔ってるだけ、で」
「そっか。酔ってるだけなら、後でぜーんぶ忘れるね」
 コンクリートの外壁に押し付けられた背中が服越しでもひんやりと冷たくて、それに反して、頬に添えられた掌と口の中を荒らす舌は焼け付くほどに熱い。太宰のざらざらした分厚い舌が口蓋をくすぐり、歯列をなぞり、奥で縮こまっている俺の舌を容赦なく吸い上げる。
「も……っ、はなせっ……」
 唇を離すと、お互いの吐息が洩れた。見つめ合う。こんなシチュエーションでさえ自分たちは、相手の呼吸だけで何を求めているか読み取ってしまう。
 太宰の瞳は熱に浮かされ潤んでいて、こんな顔で見つめられたらそりゃあ殺したくもなるかもしれない、と震える手で拳銃を構えていた女にすこし同情した。太宰も俺の顔を見て、殺したいと感じているだろうか。
 せっかく離れたのに、気が付けば再び唇を合わせていた。太宰の薄い唇の先の形の良い歯列の先の、真っ赤に濡れた口のなかへ吸い寄せられていく。溢れてくる唾液をじゅっと音をたてて吸われたら、びくんと肩が跳ねた。
「んっ…ふぅ、っは、きも、ち……」
 太宰の舌がどんなふうに「へん」なのか、自分の口の中で直接わからせられるとは思わなかった。自分のものより大きく腫れているのに触れるとやわらかい襞がある。それが口内を撫ぜる度、ぞわぞわと肌が粟立った。
「……ねえ、ちゅうや。部屋にいれてよ。私の釦、付けてくれる約束」
 釦? そんな約束していただろうか。
 ああ、こいつの外套か。と、朝の出来事を頭の中で再生して思い出した。首領から贈られた外套の釦を俺が勝手に引きちぎったことを黙っておく条件に、代わりの釦を付けてくれと、たしかそんな話だった。
 めちゃくちゃ可愛いやつを探して付けてやろうか。それを着て会議に出るこいつを想像すると愉快だ。
「……勝手にしろよ」
 俺は、睡魔と満腹と酩酊と快感で頭の中がふわふわしてもう限界だった。なんでもいいから早く自分の部屋に帰ってベッドにダイブしたい。瞬き一つのうちに部屋に着いていたらいいのに。
「迎えが来たよ」
 そう言って、つうと糸を引きながら離れた男の口の中は苺の果肉みたいに真っ赤だった。

    * * *

「そんなこともあったよねえ……」
 リビングのカウチソファに腰を降ろし、テレビ画面に流れている中華街の風景を眺めながら、中也と初めて食事を楽しんだ日のことを思い返していた。
 隣に座っている男に視線を移すと、彼は名古屋出張の帰りに買って来たという手羽先を両手で掴んでかぶりついていた。手指は勿論、口から顎までべたべたに汚している。
「外では見せられないねえ、そんな姿」
「だから家で食ってんだろ。手前こそ、ういろうで酒を飲んでんじゃねえよ、後で茶を淹れてやるっつったろ」
「だって、食べたいときに食べたいんだもの」
 仕事で名古屋へ行ったからって、手羽先とういろうというド定番の土産物を買って来て、それを嬉しそうに食べているマフィア幹部がいていいのだろうか。しかも手羽先は別々の店で二種類買って来ている。
 ローテーブルの上には、その土産物の他に、胡瓜ともろみ味噌の載った皿、削り節をかけた寄せ豆腐、レタス炒飯が並べられている。出張から帰って来た中也をいつも通り彼の部屋に不法侵入して出迎えたら、いつも通り嫌な顔をして、何にもねえぞ、と言いつつあっという間に作ってしまったものだった。中也に言わせればこれは料理のうちに入らないそうだが、家で自分のために料理をしたことなどない私にはその判断基準は分からない。
 箸で手羽先を一本つまむと、中也が一度自分の手を拭いて、瓶ビールを私の空いたグラスに注いだ。
「んー、確かにこれはビールかも」
 日本酒を飲む手を休め、注がれたビールに口を付ける。
 中也は特に返事せず、また食べるのを再開した。芸能人が中華街の名店を紹介するバラエティ番組を眺めながら、不意にふっと口元を緩める。
「あんなおっかねえ店でよく飯なんか食えるよな」
 視線を移すと、画面に映っていたのは、いつぞや中也と二人で食事した中華料理店だった。中華街における闇取引の中継地であり、関所のような役割の場所だ。
「あそこの蟹は美味しかったなあ」
「味の素なら台所にあるぜ」
「たまには外に食べに行く? 私、明日休みだよ」
「俺は仕事」
「つれないねえ。例のギャングの殲滅、まだ終わってないの? あの規模に時間かけすぎでしょ」
「奇襲の当てが連続で外れちまって……って、毎度毎度マフィアの情報を盗むなっつうの。俺が流してると疑われたらどうしてくれんだ。もし外でその話をしたらパフォーマンスで一回殺すからな」
「え? そのパフォーマンス、蘇生トリックは用意されてる?」
「種も仕掛けも無えから面白いんだろ」
「種と仕掛けがあるから芸なんでしょ」
 十七歳のとき、中也と中華街をぶらぶら歩いて、目に入ったものを適当に買い食いし、誰にも邪魔されない場所で食事をした。それだけのことが楽しかった。
 あれから中也は姐さんから教えられた作法を律儀に守り、徐々にそれを当たり前に振る舞えるようになっていった。高級品を好むようになったのもそのころからだ。
 元々は食べるという行為にあまり興味がないと言った私に被せ気味に「俺も」と言っていたのに、二十二歳で再会してからは、いきなり炭水化物を頼むなとか甘味の後に唐揚げって何だとか食べる順番にいちいちケチをつけてくるし、酒に滅法弱いくせに高いワインをコレクションし出して、随分しゃらくさい奴になったなあと辟易していた。
 それが、嫌がらせの一環で中也のセーフハウスに突撃してみたら、家ではビールと炒飯と肉を同時に流し込んでいて順番なんて知りませんという態度だし、テーブルに出ていた料理は中也が自分で作ったと言うしで、初めて見た時は面食らった。私がいない四年の間に、料理をするようになったらしい。一人で食べるときはマックか富士そばか王将のローテーションで済ませている奴だったのに。
「あ、BTS」
昔の中也に思いを馳せながらビールを飲んでいたら、テレビCMの途中で、韓国の男性アイドルグループの新曲プロモーション映像が流れ、私が彼らのグループ名を口に出すと、中也は箸でつまんでいた胡瓜をぽろっと落とし、「はぁ?」とこちらをまじまじ見返した。
「なに。おまえ、好きな歌手…っつか、興味ある人間」
「……なんか失礼なこと考えてるみたいだけど、好きな人間も興味ある人間もいるのだけど。まあでも、この人たちのファンというわけではなくてね、ちょうどあのときのことを思い出していたからさ」
「あー……そういえば俺も聞いたな、そんな話」
 まだ髙瀬會が龍頭抗争で壊滅する前、ポートマフィアの開拓した密輸ルートを盗んで動かしていた密輸グループの名前がテレビの向こうで踊っている青年たちと同じだったのだ。それを説明すると、中也は「悪いオッサンたちが集まってアイドルと同じ名前で活動してたと思うと、ちょっと恥ずかしいな」と言ってチャンネルを変えた。
「ひょっとしたら、正式な組織名は事業が軌道に乗ったら付け直すつもりだったのかもしれない。BTSというのは『Behind The Shene』の略だ。舞台裏とか、組織同士が裏でつながっているという意味だよ。それじゃああまりにも直接的すぎるからね」
 くあ、と私の話の途中で欠伸をして、中也はふらりとキッチンへ向かい手を洗うと、「寝る」と一言だけ言って、ベッドルームへ向かった。
「えっ、ちょ、寝るの早すぎない?」
 私は慌ててその後を追う。食べかけの食器もそのままに寝室へ行くなんて、これは相当疲れているようだ。
「手前の話聞いてたら思い出したんだよ。あのときも任務が長引いて寝不足続きで、一旦拠点で思いっきり寝たら良いアイディアが閃いたんだよな。つうわけで、寝る」
「ええ~~……私はヤる気満々で来たのに」
「俺は寝る気まんまんで帰って来たんだよ。…あ」
 あれすてとけよな。ともう瞼も落ちた状態でうわごとのように言い、中也は数秒で寝息をたて始めた。
 あれとは何だろうと周囲を見ると、ベッドサイドに釦が一つ落ちていた。子供の上着に付いているようなネコの顔の形をした大きな銀色の釦だ。
「あ、なくしたと思ったらここに落としてたのかぁ」
 昔、私の黒外套の釦を引きちぎった中也に、代わりの釦を付けてよと強請ったら、後日、裁縫道具を持って私の執務室を訪ねて来て、この超絶ファンシーな釦を付けて返してくれた。きっと中也は私への嫌がらせのつもりでわざわざ可愛い釦を探して買って来たのだろう。どうせ森さんから貰った外套だし、釦なんて何でも良かったのに。
 私はそれを素直に喜んで受け取り、当時の幹部たちからの招集にも、関連組織との会合にも、敵対組織の掃討作戦の現場にも付けたまま出向いた。中也は頭を抱えて「俺が悪かったからさっさと外せ」と訴えたが、私はその釦を、自分が幹部に昇進していよいよ首領から釘を刺されるまで付け続けていた。
 あの外套はとうに焼いたが、この釦は捨てられなかった。中也が私のことを考えながら選んで手ずから付けてくれたものだったからだ。
 これを部屋で見つけたのなら、私がいまだに持っていることを知ったのなら、「興味のある人間はいるのか」なんて質問、悪あがきにも程がないだろうか。
「それを言ったら、お互い様になっちゃうんだけど……」
 釦を回収し、そこにもう一つ置いてあった中也の仕事用の端末を取って、易々ロックを解除し、ここ数日間の中也と部下のやり取りにざっと目を通す。
「ははあ。成程」
 目の前ですやすや眠っている中也の傍にしゃがみ、彼の耳元で亜麻色の髪を指で掬い、そっと囁く。彼が昔、拠点の仮眠室で眠っていたときにしたのと同じように。
 あのときはこう囁いた。「拠点を何度も変えるのは理由がある。リーダーを逃がすのが目的。リーダーを逃がすのが目的。リーダーを逃がすのが目的……」そうしたら翌朝良いアイディアが閃いたそうだから、睡眠学習というのは効果があるのだなあと思う。
 中也の奇襲作戦が失敗続きなのは、おそらく使っている情報に嘘があるからだ。昔から中也が懇意にしていた情報屋がいたが、残念ながらそいつが何らかの事情あってポートマフィアを裏切ったのだろう。
 中也は一度信用した人間を疑うことを無意識に避けるから、こんな簡単なことにも気づかない。君の馴染みの情報屋を疑え、と、彼の脳裡に残るように繰り返し囁いた。
 そして、私はあのときと同じお願いをする。
「明日までに終わらせてよ。デートしよう、中也」

 蜂の巣にしてやったぜ! とどっかの部隊のなんとかっていう構成員が大声で吹聴していたのを偶然耳にした後だったからだろうか。
 定期清掃のスタッフとほぼ入れ違いに自分の執務室に入って来た中也の顔がぱんぱんに腫れ上がっていたのを見て、思わず「ハチに刺されちゃったイテテ…?」と、手元の携帯ゲーム機で遊んでいたあつ森の自分と同じ台詞を言っていた。
 中也は持参していた書類を僕が座っている机の上に置いて、その書類の隅を指差し、「ん」と一言だけぶっきらぼうに言った。判子を押せ、ということらしい。

「こりゃまた、派手にやられたねぇ」

 左目はまぶたが腫れて重く垂れ下がっており、ほとんど見えなそうだった。右目の周りにも暗い紫色の痣が広がって、白い頬の上に模様を浮き上がらせている。
 ちょいちょい、と指先で手招きして、不格好に歪んだ顔の輪郭に触れる。腫れた部分は軽く触れただけでも痛みを感じるらしく、中也は眉を釣り上がらせて唇をぎゅっと噛み締め、トントントンと机上の書類を叩いて判を急かした。

「唇も赤くなってる。話すのも辛いのだね」

 どれどれ、と僕はゲームを放り投げて書類をつまみ上げ、ざっと目を滑らせた。

 組織に入って一年経つか経たないかというある日、森さんからこの執務室と面倒な雑用を押し付けられた。それまでは首領宛てに提出されていた書類のうちの一部が、彼に渡る前に一度僕のところへ集められるようになった。作戦の報告書や、必要な武器や人員調達のための承認依頼、内緒のタレコミなどなど。
 必要なものだけ回してくれればいいから、と森さんは言った。そんなこと言ったら勝手にぽいぽい捨てちゃうよ、と暗に断ったのだが、構わないよ、とあっさり言われてしまい、結局こうして机の上に日々マフィアの大事な書類が積み上げられていく。
 彼が自分にこんな事務員の真似事を頼むのは、単純に業務効率化のためとかではなくて、シェリングやキッシンジャーの本を押し付けてくるのと同じなのだろう。マフィアの人間として僕を教育しようという意図だ。
 そこまで理解できてしまうゆえに、ますます憂鬱な仕事である。
 そろそろマフィア辞めちゃおうかな、と思いながら離島でみしらぬネコを探していた時、満身創痍の相棒が入ってきたのだった。

「なるほど。僕を作戦立案に引っ張り出したいっていう申し立ての書類かぁ。これの提出を面白い見た目になった君にやらせるってのはなかなかイイ線いってるよ」

 こんなご機嫌取りを思いつくなら自分で作戦立てたらいいのにねぇ? と話しながら、つい一、二時間前に別の構成員が提出に来た作戦報告書を、紙の束からジェンガのように引きずり出す。中也が参加していた殲滅作戦の報告書だ。

「ふぁあふひろ、くぁす」

 僕が別の書類に手を付けたのを見て、中也が苛々した様子で抗議する。顔の左半分が膨れ上がっているので、うまく発声できないようだった。

「あれ? この作戦のリーダーの人、さっき清掃のお姉さんに追い出されてた間に廊下で見かけたなぁ。『蜂の巣にしてやったぜ~!』って大層ご満悦だったけれど」

 二枚の書類を指先でひらひら遊ばせながら椅子からソファへ移動すると、「おい!」とくぐもった声を上げて、中也は座っている僕の前に仁王立ちになった。

「そんな見張らなくっても、判子は押すよ。……ふーん、敵組織の殲滅は大成功、こちらの負傷者はゼロ、って報告されているけど、だったらどうして君はそんなボコボコにされているのだろうね」

 手を掴んで引き寄せたら、その手にはかすり傷ひとつ付いていなかった。中也が抵抗をしなかった証拠だ。
 僕は一度読んだ書類の内容は全て記憶している。この殲滅作戦の当初の計画書には、囮として一人の構成員を敵アジトに先行させること、その構成員が殺害されることが前提の工程が書いてあったが、報告書からはその部分の記載が削除されていた。
 囮に選ばれていた構成員の名前は中也ではなかった。
 そして、出るはずだった負傷者は出なかった。

「囮役を助けに行って、計画を台無しにしちゃったんでしょ」
「…………」

 中也は答えずに、目を逸らした。

「君なら囮なんて使わなくても目的を達成できた。実際、君のアドリブ演奏でライブは大成功。そりゃあ、プロデューサーさんは面白くないよ。馬鹿だね、中也」

 変更された計画で大規模な殲滅作戦が成功したとあっては、元々の作戦立案者は無能の烙印を押され、計画を変更した若手が評価されることになるだろう。だから報告書を都合良く改ざんし、中也を痛めつけて口外を禁じた。

「ねえ、判子は押してあげるからさ、キスしてくれない?」

 中也が呆れた顔で僕を見る。「この顔で?」と言いたげな表情だ。
 片足をソファに乗り上げて、中也は僕を見下ろした。僕は書類をテーブルに放り、彼の腫れた頬にそっと手で触れる。
 頬の皮膚は熱を帯びて全体的にピンク色になっており、腫れた部分には細かな傷がいくつも付いて、そこから血と透明な体液がにじみ出ていた。
 口角も切れていて、瘡蓋ができている。口付けると、ぷちゅんと潰れて、血が流れた。少し沁みたのか、中也がかすかな声をあげる。その開いた口に、受け取ったばかりの赤を返す。舌で舐め取ると、鉄の味がした。
 いつも薄くてやわらかかった唇は、腫れ上がって葡萄の実みたいに弾力があった。
 歯は無事だな、と舌で歯列を確かめながら、真っ赤に濡れた口内を味わう。

「っ、あ、ふ」
「ん……血なまぐさいね」
「あ…んあら、やえ…っ」

 文句と一緒に突き出されたベロに自分のそれを擦り合わせて、くちゅくちゅと水音を響かせる。奥まで自分の舌を差し込むと、苦し気に仰け反ろうとしたので、腰を捉えてぐっと躰を密着させた。

「ん、ん、ふっ…! だ、じゃ、」
「血だらけで舌ったらずで、まるで今生まれてきたみたいだね。ベイビーちゃん」
「っぷは、…っざけ、……ふ、ァ…」

 じゅっと音を立てて舌を吸うと、中也は右目をとろんと揺らして僕を見つめた。
 自分に向けられる青色がいつもよりも狭く感じる。左目がほとんど開いていないせいだろう。それが残念で、なんだかひどく腹立たしく感じた。
 イイ線いってるとは言ったけど、正解には程遠いんだよな。
 自分がひとつも絡んでないことで、傷ついた犬の姿を見せられたってさ。

「中也はさ、僕の犬だっていう自覚が足りないよ」
「ゴホッ…いぶひゃ…でえって……」
「あははっ、汚い声」

 好き勝手舐め回したので、口の中の傷が開いてしまったらしい。中也が喋りにくそうに咳き込んで口を覆った手の平に、血の混じった唾液が付着していた。
 躰を密着させたまま中也の首筋に顔を埋めて、すんと彼の匂いを嗅ぐ。なんとなく気が向いて、首筋に吸い付き痕を付けると、慌てて躰を離された。

「ねぇ、そろそろ抱かせてよ。中也ァ」
「らめら。十八ひなるはれ待てっつっふぁろ」
「それ、姐さんの入れ知恵でしょ? マフィアにあらざる貞操観念だよ。半分は親バカ、もう半分は僕に対する嫌がらせで言ってるんだって」
「っハ、てふぇえの、っやがらせにあんなら、さいほーらぜ」
「言えてないよ」

 言えてないのに何言ってんだか分かっちゃうのは、それだけ普段の中也が分かりやすい言動をしているということだ。分かりやすいから、こうやってナメられる。

「……十八かぁ」

 じゃあ、十八歳まではマフィアにいようかな。

「おい、だじゃい。はやく」
「ああ、うん。もっとしようね」
「そうじゃね…っ! ……っ、ひゃめ、はんこだ、っふぅ、ン」

 僕は、その日が来るのを妄想する。唇だけでなく、中也のありとあらゆる場所を貪り、快楽を注ぎ込んで、言葉も理性も奪う。
 楽しみだな。こんなぼやけた音じゃなくて、もっと、もっと、ハスキーな。
 僕の犬の鳴き声を、ベッドの上で聞く夜が。

「それでね、院内の公衆電話を幾つか撤去しようかって話になって、地下三階は駐車場に一台、廃棄物センターにも一台あるから、霊安室前のやつはいらないねってことになったのだけど」

 数珠を手繰り寄せ、真言を繰り返し唱える。

「業者が来る前日、突然その一台が鳴り出すようになったのだよ。確かに電話番号は割り当ててあるけど、どこにも公開していない。それなのに昼夜問わず何度も。上の診察室まで聞こえることはないけれど、駐車場で運悪く聞いてしまったスタッフが怖がっちゃって」

 男二人の噛み合わない声と声が、冷たい廊下に反響する。
 こういう大きな建物内での除霊がいっとう面倒である。スプリンクラーや火災報知器の性能が一般の住宅とは段違いだし、数も多い。灯明や香を焚いて浄化することができない。
 一度、お祓いの間だけ電源を切ってもらえないかと聞いてみたことがあるのだが、点検の際を除いて安全上の理由でできませんと断られた。言ってみればこの作業も「点検」のようなものではないかと思うのだが、腐っても僧侶の身の上で、あまりに業者じみた発言をするのもはばかられた。
 その結果、問題のフロア一帯をぐるぐる歩き回りながらひたすらに読経して浄化していくというローラー作戦しかなくなったわけだ。これの何が嫌かというと、とにかく時間がかかることと、その間ずっとこの白衣の男に付き纏われることである。

「今日もあの派手なバイクで来てたでしょ。よそのお坊さんみたいにオートバイにしなよ、身の丈に合わせて。あ、これは比喩ではなくてそのままの意味だよ」

 よくもまあぺらぺら喋る。教師、歌手、アナウンサーに並ぶ声帯酷使職業である僧侶の自分でも、乾燥した屋内を歩き回りながらの読経で声が掠れてきたというのに、後ろを付いて歩きながら延々喋り続けていたこいつは咳払い一つしない。
 振り向きざま、代わりに俺がでかい溜息を吐いてやった。

「……あとは霊安室の中だけだ。今日は仏さんは」
「いないよ。君が着く前に葬儀屋がみんな引き取っていったから今は空っぽ」
「病院は廃業してお化け屋敷にした方が儲かるんじゃねぇか? いるぜ。しかも一体じゃねぇ」
「うーん…一応大学病院だからね、儲からないから立ち退きますってわけにもいかないのだよ。それに、人は恐怖にもすぐ慣れる。ここにいる幽霊さんたちが毎回手を替え品を替え脅かしてくれるというなら別だけど、ね」

 ピシッ!と家鳴りのような音が鳴った。

「そら見ろ、怒らせたぞ」
「おや、そう? 死んでまで働かせるなって?」

 これはうちの寺に心霊絡みの相談で来る人間の十人中十人が口にするラップ音というやつである。その大半は相談者の気のせいか、本当にただの木造建築特有の家鳴り現象なのだが、残念ながらこの病院の柱は全て鉄筋コンクリートだし、目の前にいる男に今の音は聴こえていない。

「相変わらず亡者を煽る才能だけは一級品だな。見えも聴こえもしてねぇくせに、このポンコツ長男が」
「出た、中也の霊感ハラスメント。責められたって無いものは出せないの。まぁ実際見えてないけどさ、要するに、この霊安室がタマリ場になってるって展開なんでしょ?」

 首から提げていたIDでドアロックを開錠し、先に入ろうとした太宰の腕を掴んで止めた。彼は面食らった顔で何?と言ってこちらを振り返る。

「外で待ってろ。手前に何かあったら説明が面倒くせえ」
「誰に言ってるのさ。こう見えても私、超強い霊能力者の血を半分引いているのだよ? 知ってると思うけど」
「知ってるわっつうか俺も同じ血を半分引いてるわ! 勤行も果たさず還俗した手前に御仏の加護が一ミリでも残ってるわけねぇだろ。秒で取り憑かれて死ね」
「中也こそ、そんな派手な髪色で坊主とか言われても説得力ないのだけど。剃髪に失敗して死んで」
「剃らねぇし! 手前は落ちてるメスに刺さって死ね」
「落ちてるわけないでしょ。何もうネタ切れ?」
「そこに落ちてるから言ってんだろうが。手出したナースに毒盛られて死ね」
「ふふ悪いけど女性関係の管理は完璧――……どこに落ちてるって? あら、本当だ」

 太宰は背後から俺の右肩にのしっと頭を載せて、霊安室の床にぽつんと落ちている銀色のメスに視線を向けた。

「管理どうなってんだよ。手前の落とし物か?」

 わざと体重をかけてくるその邪魔な蓬髪を振り払い、俺は部屋の中へと足を踏み入れ、拾ってやろうと手を伸ばした。
 一瞬、かたっ、とその刃先が震えたように見えた。

「中也! 離れろ!」

 太宰が声を張り上げた。床に落ちていたメスはひとりでに浮き上がり、俺の喉元目がけ一直線に飛んできた。反射的に部屋の隅へ飛び退き、間一髪のところで急所は外せたが、袈裟の上からざっくりと肩を裂かれた。焼け付くような痛みに思わずその場で膝をつく。

「中也、血が……!」
「っ…さわぐんじゃ、ねぇよタコ……くそ、こいつは」
「ポルターガイストだね」

 天井の蛍光灯がジーと音を立てて明滅し始め、遺体保管用の冷蔵庫がガタガタと激しく揺れ出した。

「チッ…今日は空っぽだったんじゃねぇのかよ」
「そのはずなんだけどねぇ」

 でもこれで、鬱陶しがられても付いてきた甲斐があるというものだ。そう言って太宰は俺を立たせると、後ろから俺の肩を抱き、ほら、やっちゃえ、と囁いた。

「今日は最悪の一日だ」
「謝礼は弾むよ。出すのは私じゃなくて院長だけど」
「金だけの問題じゃねぇんだよ」

 もう太宰からの仕事なんて受けなくてもいいくらい、太宰の力なんて借りなくてもいいくらい、俺がまともな後継ぎになれていたなら、一時の収入につられてのこのことこいつの前に顔を出す必要もないというのに。
 父さんが生きていたら、きっとこの部屋に入っただけで除霊完了していただろう。父を手伝っていたころの太宰も、同じくらい強い力を持っていたはずだ。
 うんざりだ。こんな半端な力しか持っていないのに、寺を継がされて、存続させるだけで精一杯な自分にも、ある日突然「見えなくなった」と言って俺を一人残し、俗世に消えていったこいつにも、だというのに頻繁にこうして呼びつけられることにも、同じことばかり考えている自分にも!

「オン。ア……」

 真言の一音を唱えただけで、鈴のように澄んだ音が自分の唇から吐き出された。
 印を組む指先は火の灯ったように熱い。太宰に触れられている肩から、密着している背中から、マグマのように熱くて、テンションをおかしくさせるエネルギーが流れ込んでくる。無理やり覚醒させられるような不快感と、何でもできそうな全能感に満たされていく。
 神様に成ったかのような気分だった。俺の声、視線、指の動きだけで、暴れ狂っていた亡者たちが大人しくなっていくのが分かる。
これが、今の太宰の持つ力だった。霊が見えなくなっても、父親から受け継いだ法力は残っていて、俺のような霊感のある人間に直接触れることで、それを増幅させることができる。
 遺体保管用冷蔵庫の扉がひとりでに次々開き、中からスライド式の金属板が押し出されてきた。太宰が言っていた通り、中には誰もいない。宙を舞っていたパイプ椅子も床に落下し、蛍光灯は耳障りな音を立てて消えた後、壁のスイッチを何度押しても点灯しなくなった。壊れてしまったらしい。

「あーあ、先月交換したばかりなのに。霊ってどうしてすぐ電化製品を壊すのだろうね」
「……電気は…干渉しやすいからだって昔、父さんが……」
「……中也? うわ、肩の出血すごいよちょっと、中也!」

 視界がぐるんと回って、真っ白な何もない天井が見えた。

「つまんねー場所……」

 太宰。手前はなんでこんな場所にいる。
 二人で本堂に寝転んだとき、いつも天井には極彩色の宇宙と、この世のものではない花、荘厳な竜が描かれていた。
 半分しか血のつながりがなくたって、手前は俺を、兄弟と思っていてくれたんじゃなかったのか?

「……治。なんで…出てった……?」

 だめなんだ。俺では、あの人の後継にはなれない。
 俺は、悪いものを寄せるばっかりで、祓うなんて――。

♡  ♡  ♡

「は? 見えなくなったぁ?」
「うん」

 なんでだろ、こないだ童貞捨てたからかなぁ、と僕が言うと、「どっ」と息を詰まらせて、中也は僕の部屋に敷きっ放しの布団に目をやった。

「やだなスケベ。さすがにウチには連れ込まないって」
「スケベはどっちだよ! いつの間に…つか、その理屈は成り立たねぇだろ、父さんに俺たちがいる時点で」
「そだね。僕の母さんと見合い結婚した後で、パブで働いてた中也のママに入れ揚げて愛人にして、彼女の遺言で隠し子の中也がいきなりうちに来て、母さんは怒って家出。家出って言っても実家に帰っただけだけど。でもそれを追いかけて謝ることもしないでいるんだから、なかなか絵に描いたようなクズというか、生臭坊主だよね」

 この話をすると、中也はいつも申し訳なさそうに下を向く。
 僕は一応本妻の息子で、中也は父がよそに作った隠し子。それは紛れもない事実だが、そのことに傷ついているのは僕の母だけだし、なんなら母もここでの質素な暮らしを脱して、大病院のお嬢さんに戻る口実ができたわけだから、実際うじうじ気にしているのは中也だけだ。

 十五の夏、小さく折り畳まれた便箋一枚握りしめて、赤毛の少年が寺の楼門の前に立っていた。
 楼門の二階は僕の秘密基地だった。僕はそこで母に隠れてゲームをしながら、格子窓から彼を見下ろしていた。
 ここはどこの町にもあるような仏寺だが、住職である父がテレビの心霊企画で人気アイドルに取りついた霊を除霊してみせてからというもの、その手の相談客が連日訪ねてくるようになってしまった。父は出張相談も受けていたので、父が不在の日にアポなしでいきなり来られることも多く、どうせあの少年も、その手の厄介な相談客だろう。そう思って最初は無視していた。
 やがて日が暮れて、門前の仁王像の真上に設置している人感センサーライトが点灯した。少年はまだそこに立っていた。

「あのさぁ」
 僕と同い年くらいだろうか。背が小さいから、年下かもしれない。だから同情したってわけじゃなかったけれど。

「ずっとそこにいられると、セコムが来ちゃうんだけど」

 気が付いたら声をかけ、二階に招き入れていた。

「手前…ここの寺の子か?」

 彼は元からここに置いてあった古い掛軸や仏像と、僕が後から持ち込んだゲーム機器とを交互に見て、僕に尋ねた。

「てめぇじゃない、治。ここの住職の息子」
「息子……」

 そうか、と呟いた声が、湿っぽい板張りの床に沈んだ。

「残念だったね、父さんなら留守だよ」

 父はいませんと言うと、アポなし突撃客はいつもこういう反応をするし、慣れっこだったはずなのだが、このとき僕は無性にいらだちを覚えた。

「……言っとくけど、父さんじゃなくても、君が外に連れてきたアレくらいなら、追い払ってやれるよ」

 格子窓から外を見下ろすと、黒い二本足の生き物が三匹、門の前を行ったり来たりしていた。サイズと動きは日本猿に似ているが、その顔には目も口も見当たらないので、厳密には「生き物」ではないのだろう。だから、父さんがこの敷地内に張り巡らせている結界の中に入ってこられないのだ。

「見て、ほら。ちょうど三匹いる。三猿だ」

 僕が人差し指の先をそれらに向けて右から左へ動かすと、三匹は頭のてっぺんに糸でも付いているかのようにぐいっと引っ張られ、横一列に整列した。隣で様子を覗いていた少年がぎょっと目を丸くする。

「入れないのは明らかなのにあそこに留まっているのは、君が出てくるのを待っているのかな。好かれてるね」
「ついてきたんだ…昔から、そういう体質で……」
「ふーん。成程、それで父さんに祓ってもらいに来たわけだ」

 見えない拘束から逃れようとじたばた暴れ出した三匹に指先を向けたまま、今度は左から右へすいと線を引く。すると、三匹は同時に足元からぼろぼろと灰になって崩れた。
 すげぇ、と素直に感嘆の声を上げられたのがむず痒い。

「ここの敷地内にいれば、とりあえず安全だよ。霊を寄せる体質自体をどうにかすることは僕にはできない。明日父さんが帰ってくるまで、しょうがないからうちに居れば」
「え、いいのか? 俺、金は持ってな……」
「宿坊じゃないんだから、宿代なんて取らないよ。あ、でも母さんには僕の友達って伝えるから、口裏は合わせてね」

 わかった。と返した声には緊張の色が滲んでいた。
 君、名前は? と尋ねたら、彼はずっと手に握りしめていた紙の切れ端を広げて僕に差し出し、なかはらちゅうや、と名乗った。それはある女性から父へ宛てた手紙だった。

「俺はたぶん、手前の兄弟だと思う」

♡  ♡  ♡

 ゆっくりと意識が浮上してくるにつれ、肩の痛みも鮮明になってきた。ずきん、ずきん、と心臓の鼓動のように脈打つそれを感じながら、俺は静かに息を吸って、吐く。
 身体は少し硬い寝台に横たえられていて、微かに消毒薬の匂いがする。きぃ、と回転式の椅子が回る音がした。薄目を開けると、すぐそばで薄緑色のカーテンが揺れたので、俺は再び瞼を閉じて、眠っているふりをする。

「ちゅうや」

 太宰の声だ。
 変わらない。俺が眠っているとき、そっと俺の寝所を訪れて、まず俺が寝ていることを確かめるために名前を呼ぶ。
 それは普段の挑発的な呼び方ではなくて、そのときだけ、とても大切な、オルゴールか何かのように呼ぶのだ。

「中也、そろそろ痛み止めが切れるころだけど。大丈夫?」

 瞼の外に感じていた眩しさがまた遠のいていく。カーテンが内側から閉められたのだ。
 仰向けに寝ている耳のすぐそばで、ぎし、とベッドの軋む音がして、シーツが沈んだ。天井を大きな人影が覆い隠す。

「まだ起きないの……?」

 首筋にひたりと冷たい手の平が触れた。
 手が冷たい人間は心が温かいなんて、とんだデマだなぁと俺は思う。昔は、やっぱりそうなんだ、と思っていた。太宰がこうして密やかに俺に触れ、優しくキスをする度に。
 俺は目を覚まさない。
 自分が寝ているときに太宰の気配を感じると、条件反射でこうされることを待ってしまう。よく躾けられた犬のように。
 好きだったのだ。俺に気づかれないようにされる口付けが。
 何の見返りも得られないのに何度も触れてくれるのは、俺に対する親愛からだと思っていた。突然現れて家庭をめちゃくちゃにしたのに、俺という個人を必要としてくれていると。
 なんてあさましい。太宰が変わらないのではなく、俺自身が太宰にあのころのままでいてほしいと望んでいるのだ。
 欲しがりだね。と、からかうように囁かれた言葉は、吐息を感じるくらいにすぐ至近距離で聴こえて、次の瞬間、唇が唇で塞がれた。
 少年時代の戯れを、なぜ今になっても再現するのか問いただす気にはならなかった。この口付けがあのころと同じものであるならば、ほんのひと時ふれるだけですぐに離れていくものだからだ。

「んっ……ふ、っ、」

 けれど、そんな未来予測は裏切られた。てっきり軽く重ねるだけだと思っていたキスは、何度も角度を変えて落とされ、その度に少しずつ舌先で口をこじ開けられていく。
 歯を舐められた、と感じた咄嗟に上がった右手を、太宰の左手で体重をかけて押さえ込まれ、指を指で縫い留められた。

「いッ……」

 ならばと左手を上げようとしたら、左肩の傷口を中心に左半身がずきいっと痛んで、思わず顔が歪み、声が上がった。
 今のはごまかしきれない。観念して両目を開けると、太宰が俺の身体を跨いで、にやにやと見下ろしていた。

「……怪我人を押し倒すなよ」
「主治医が声をかけたのに、寝たふりしているからさ」

 俺が着て来た墨染は左半分だけ脱がされて、怪我をした肩から二の腕にかけてぐるぐると包帯が巻かれていた。

「結構縫ったよ。痛みが取れるまで左手は使わない方がいい」
「勝手に縫うな。同意してねぇぞ」
「手術の同意書ならちゃんとご家族に書いてもらったよ?」
「家族? 誰だ?」
「私♡ お兄ちゃんありがと♡って言ってもいいのだよ?」
「元家族だろ! 手前は母方の姓に戻っただろーが、ってか誰がお兄ちゃんだ! 昔から言ってんだろ俺の方が手前より誕生日早いんだよ! っ、いてて…」
「ああほら、大きな声出したりしたら傷に障るって」

 誰のせいだ誰の。じっと睨みつけると、太宰は楽しそうに笑って再び顔を近づけた。白衣の襟から、ふわりとサンダルウッドの香りがする。香木からのやわらかい移り香とは違う、香水の甘く残る匂い。

「や……めろって!」

 右手は押さえつけられているし左手は痛い。顔を背けて逃れようとするも、空いている方の手で顎と下唇をがつと掴まれて、乱暴に口付けられてしまった。にゅるりと濡れた粘膜が侵入してくる。

「んは…っ、ん、ん! ~~ッ、う、ゃ、め……」

 太宰の舌が俺の口の中で、歯列をなぞり、上顎のでこぼこを通って、舌の裏側にまで潜り込み、小さなひだを突つく。
 俺はされるがままその動きに翻弄されて、溢れてくる唾液が口の端から垂れるのも止められず、息継ぎのチャンスを伺うので精一杯だった。何もできずに硬直していた自分の舌に舌が絡まり、じゅ、じゅっ、とあけびの汁を飲むように吸い付かれる。臍の下がじわりと熱くなった。
 これが何なのか。それくらいの知識はあったものの、高校卒業後すぐに寺を継ぐための修行に入った自分の性の実体験は、十代に太宰からされていた優しいキスで止まっている。
 あの寝物語の最後に落とされるような心地良い唇の感触が、自分にとっては最上のいけない秘密だったのだ。
 それが急にこんなの、とても太刀打ちできない。毒でも飲まされているかのように口の中が痺れて、喉元から背骨まで、ぞわぞわと変な感覚が走り抜ける。

「ふふ……。ちゅうや、気持ちよさそうな顔してる」

 気持ちいい? この変な感じは、快感なのか。分からない。どちらかというなら、どうなってしまうかと、…怖い。

「昔は、こんなこと…しなかった……」
「そりゃそうさ。今はもう大人だもの。私も、中也も」

 大人は寝たふりなんてしないんだよ。そう言われたら、なんだか突き放されたような気分に陥った。

「もう家族じゃないから、だからこんなことを?」

 今のキスは、兄弟ですることじゃない。
 途中から同じ苗字になって、途中からまた違う苗字を名乗ることになった自分たちが、果たしていつから兄弟で、いつから兄弟でなくなったのかは知らない。俺をあの広すぎる寺に一人残して出て行った太宰になら、分かるのだろうか。

「そうだよ。家族のままでいたら、できなかったことだ」

 太宰はこともなげにそう返し、再び顔を近づけた。
 起き上がって頭突きをお見舞いしてやろうとしたら、読んでいたのかひょいと身体を離して、俺を押さえつけていた手も放した。指と指の隙間が涼しく感じた。

「ご苦労様。お代はいつもの口座に振り込んでおくよ」
「もっといい霊媒師がいるだろ。次からは俺を呼ぶな」
「中也がいいのだもの」
「…………手前なんか、」

 その後に続く言葉を飲み込み、俺は着衣の乱れを整えると、まだおぼつかない足を引きずりながら診察室を出た。

♡  ♡  ♡

「よし……これで元通りかな」

 人気のなくなった霊安室で、脚立を使い、備品庫から貰ってきた新品の蛍光灯に交換する。
 中也が怪我を負ってまで成仏させてやったのに、もう別のよくないものが集まり始めていた。次は、最初から出そうな部屋全部に蛍光灯のスペアを隠しておいた方が早そうだ。
 いわくつきの穢れきった土地の上に建てられた病院。この土地にあるから、私は母の実家ではなくこの病院を選んだ。
 霊を寄せる体質の中也が来ると、普段は大人しくしている雑霊たちが騒ぎ出す。毎回、中也を呼ぶ前までは心霊現象なんて起こっていないのだ。彼は自分が寄せ集めた霊を除霊して帰っているだけ。無自覚なマッチポンプ。

「でも、怪我をさせたのは許せないなぁ」

 すい、と指先で線を引くと、それらは跡形もなく消滅した。
 自分が寺を継いでいたら、中也は家を出て他の仕事をしていただろう。育ての恩人である父の遺した場所に縛り付けておくことで、彼は永遠に私のそばを離れない。

「この次もよろしくね、幽霊さん」

 神も仏もここにはいない。ねじくれた恋心だけが、今日も自分を生者たらしめていた。

 恋をしたら、死のうと思っていた。
 知らないことはそれだけだった。
 正確に言えば、現状僕が知らないことの中で、僕が興味を持てることで、かつそれを知る方法の目途が立たない物事というのが、それだけだった。
 知識を集めてみても概念が溢れるばかりで、肝心なことはなんにも分からない。手っ取り早く体験しようにも、恋をするには相手が要るし、自分がその相手に対して恋愛感情を起こす必要がある。それが一番難しかった。
 恋を「活動」と解釈する人はこのように言う。まずは相手を見つけることです、その相手とデェトに漕ぎ着けたならそれはもう恋愛であり、それを望むなら、相手を探す方法、デェトの作法、関係を円満に継続させる秘訣を伝授してあげましょう、と。
 そのように指南されるものが恋ならば、そんな攻略法の存在するレクリエーションに、なぜ多くの人が振り回されるのだろう。神話の時代から、ヒトも神も恋に溺れ、時に道を踏み外してきた。それほど抗いがたい何かが、そこにあるのだ。
 僕は、恋は「熱病」ではないかと――そのようなものであったらいいなぁ、と思っていた。
 それを患ったら、死ぬほど苦しくて、でも死ぬほど楽しくて、実際に死んじゃったり殺しちゃったりするらしい。
 一寸楽しそうでしょ。僕はその惨状を、できるだけ間近で観察したかった。
 でも、それを自分と一緒に楽しんでくれる誰か…というのが、全くイメージできないのだ。姿形、声、表情、どんな性格の、どんな人物なのか。

「あーあ。まったくままならないなぁ」

 生きるなんて行為に何か価値があると本気で思っているのか。そう訊ねたことの返答は聞かないまま、森の診療所を出て来たところだった。といっても、出て来た理由が森からのお使いなので、結局また報告に戻ることになるのだが。
 けれど、僕が彼に同じ質問をすることも、『何故死にたいか』なんて質問を彼が僕にすることも、もう二度と無いだろう。そんな気がする。
 胸ポケットの中で携帯電話が震えた。ひょいと摘まんで画面を見ると、森からの連絡であった。お使いの道案内兼護衛を選べということだった。送られてきた数名分のプロフィールに目を通し、この人がいいと一人だけ指名した。ぞろぞろ連れ歩くのは聞き込みするのに不便だし、いかにもマフィアですという感じで恥ずかしい。
 不採用にした人物も、みんな荒事に強そうで怖い顔した大人ばかりだった。森は彼らの一番上から、電話一つで命令できる立場にある。
 自殺に失敗して森のところに担ぎ込まれたときは、まるで死神のような風体の男に助けられたものだなぁとそれが少し愉快であったし、その死神が、横浜の暴力の象徴たるポートマフィア首領の生命を刈り取ろうとしていることを知り、面白そうなのでついて行った。
 しかし、その後の死神は組織人となって、明日、明後日、数年先の算段をしてばかり。未来のことで悩むのは、その時点まで自分たちが生きていて、できるだけ良い状態でいたいと考える人間の特権だ。死神は、現実、死神のような人間であったということだ。
 きっとこれからもこうだ。ひょっとしたら次こそはと淡い期待を抱いては、それは自分の想像を超えることはない。
 自分が想い焦がれている「死」でさえも、もしかしたら、単調で、ひどく退屈なものなのかもしれない。初めて経験するのだから、できるだけ意識を保ち、感覚を保ち、それでいて一つの感情に大部分を支配されるようなことなく、それを味わい尽くしたい。だからそんな望みを叶える毒薬を調合してあげるよという甘言に乗ったのだったが、どうやら、約束はうやむやにされる流れだ。
 自分はあの男から、何かを期待されている。
 足元の水たまりを車影が横切り、数歩先に黒のハリアーが停まった。運転席から降りて来たモノクルを掛けた男が僕に一瞬鋭い眼差しを向けた後、一礼した。

「一つ尋ねても?」
「いいよ。僕が貴方を指名した理由は、貴方が今から行く土地に詳しいから。道だけじゃなく、土地柄という意味で」
「……は、成程…」

 道案内兼護衛役の男は、今ひとつ成程ではなさそうな声で、しかし質問する前に僕から答えを言われたために、それ以上重ねて聞くことはせず、運転に集中し始めた。僕の人選は正解だったようだ。
 先代首領の幽霊探し、か。
 このお使いを終わらせた後、やはり甘き死にはありつけないとなったなら、あの殺してくれない死神を散々嘘つきと罵った後で、診療所を出よう。
 森と出会う以前の放蕩暮らしに戻るだけだ。違うのは、先代首領殺害の秘密を知る者として、それまでに気まぐれで起こしてきた小さなトラブル由来のものとは比べ物にならない苛烈な追跡を受けるはめになるだろうということ。しかしそれも、さっさと自殺に成功してしまえば関係のない話である。成功すれば、だが。
 今のところ、自殺はいつも未遂に終わっていた。
 別に人目に付く場所を選んでいるわけでも、誰かに予告めいた匂わせをしているわけでもないのに、どういうわけかいつも誰かまたは何かによって阻止される。
 自分の足元に大量の時限爆弾をセットしたときなんかは、設置中に誤爆しないよう、かなり繊細な作業を求められたというのに、それも森によってデンジャラスかつドラマチックに解除されてしまった。あの人は単なる通りすがりのおせっかいな他人ではなく、明確に僕を死なせたくない理由を持っているから厄介だ。なんというか、すごぉくがんばって止めにかかってくるのだ。
 どうせ死ぬなら楽しい方法で、なんて趣向を凝らすから邪魔する猶予を与えてしまうんだろうか。次からはもっとオーソドックスで手軽な方法を試すことにしよう。縄で首を吊ったり、川に飛び込んだり、手首を切ったり、うん、そういうのにしよう。それを僕の日課にしよう。
 そうだよ。なんなら、こんなお使いなんて投げ出して、今日それをしたっていいじゃないか。古書店で最近入手した『完全自殺読本』という稀覯本を捲りながら、気まぐれが騒ぎ出した。
 だって、こんなに何もない世界で、今まで生きてきたことの方が変だったんだ。生きているだけでえらいなんて意味不明なポリシーも持てない。僕は、死にさえ怠惰で、「ひょっとしたら今度こそ」と思ってしまう程度にロマンチストであっただけ。
 そして、そのロマンチストが最後にすがっているのが、未知なる恋という病。

「空から飛んでこないかな……恋」
「は……?」
「何でもない。独り言」

 世の中で指南されている方法に従って探したところで、恋は見つかる気がしない。
 見つかったとしても、それが僕の興味をそれこそ〝死ぬまで〟引き続けてくれる期待は薄い。
 そういうわけで、これはきっと少年の夢想のままで終わるのだろう。……いいのだ、それで。これ以上世界にがっかりさせられずに済むのだから。
 まるで自分は、身体の両側から迫る石壁に少しずつ潰されて、圧死する賊だ。たぶんこの世界に非はなくて、僕が異物で、誰もが普通に生を謳歌するこの世界にとっての、侵入者なんだろう。
 
 
 ***
 
 
「そういえば昔、この店で手前が変なことを聞いたよな」

 木のカウンターに斜めに肘をついて、手の中のワインをぼうと眺めながら中也は言った。
 薄暗い店内で花梨の木の赤みがかった光沢が、中也の黒い革手袋と、その指が柔らかく埋ずもれている白い頬を浮かび上がらせている。
 蝋燭の炎がゆらめいているようだった。昔は大雑把に後ろで結んでいた髪が、今は首筋にほそく絡み付いている。私はそれを瞳の端で盗み見ていた。

「この店は初めてだけど? 中也酔ってるでしょ」

 津軽びいどろの盃を傾けながら、そうしらばっくれた。
 ごくり、と自分の喉を酒が落ちていく音が、やけに大きく聴こえた。隣にいる男にまでは聴こえていないだろうと思ったが、中也はじっと私の横顔を観察し、それから吐息のようにかすかに、ハ、と笑った。

「俺が覚えてて、手前が忘れてるなんてことがあるかよ」
「………落ちのない、面白くない話だ。掘り返したって、酒の肴にはならないよ」
「ふ。はは。あのときも、俺は手前にこう言った気がするな。――なんだよ。珍しく余裕のねぇ面しやがって」

 カウンターに空のワイングラスが置かれた。唇をワインでしっとり濡らした彼は、今夜このバーで私に会ってから、まだ死ねも殺すも口にせず、ただ何かを待っているように見えた。

「この話が面白くないってなら、それは手前のせいだろ?」
「は? そっちから振ってきたくせにどういう難癖」
「違うな。始めたのは手前からだ、太宰。手前が始めて、手前が落ちをつけずに放り投げてきたものだ。…なぁ、そろそろ笑わせてくれてもいい頃合いじゃねぇか?」

 四年あったんだ。仕込みには十分だろうよ。
 中也はそう言って、グラスをカウンターの奥へ差し出し、オリーブの実を一粒噛んだ。気づいた店主が何も言わずにそっと新しいワインを注ぐ。

「………だったら」

 もうどうにでもなれ、と思った。

「だったら、あのときと同じ質問から始めるよ」

 今夜中也がここに現れることは知っていた。知っていて来た。一度あんな形で再会してしまったら、もう敵対組織だからとか、見つかったら追手が来るとか、適当な理由を付けて避けることができなくなってしまったのだ。

「………中也、」

 私はいつでも中也に会える。会いに行ける。
 中也がいつどこで何をしているかなんて、私には簡単に分かってしまう。近くで飲んでると分かっただけでこの足はこのざまだ。追いかけてしまう。止められない。
 ああ、悲惨だ。二十二歳になったのに、十代のあの頃に、〝それ〟を追いかけていた自分に、引き戻されてしまう。

「――恋をしたことはある?」
 
 
 ***

 恋をしたことがあるか、と中也に尋ねたことがあった。
 隣に座っていた中也は手の中のワイングラスを数秒眺めてから、ねぇな、と答えた。

「うそ。彼女いたじゃない」
「あ? ああ…」

 そのとき僕は、ほんの一秒、いつもより前のめりに反論してしまった。しまった、と無表情の裏で後悔したが遅く、そういうときに限って野性の勘かなにかが冴え渡る中也は、ニヤリと底意地の悪い顔をして、座っていた丸椅子をずいずい引きずり、僕の顔を横から覗き込んだ。

「なんだよ珍しく余裕のねぇ面しやがって。面白そうだな」
「面白いことなんて何もないよ。ただの雑談なんだから、変な嘘つかないで、って言ってるだけ」
「嘘なんてついてねぇ。手前が『彼女はいるか』と聞いていたら、俺は『いない』と答えたし、『彼女はいたか』と聞いていたら、『先週までいた』と答えたよ。手前、なんて言った? 恋をしたことがあるか? ……ぶっ、はっ! 似合わねぇ~! 雑談にしても他になかったかよ」

 あの彼女とは別れたのか…。
 当時十六歳の僕は、酒の味にも、酒を酌み交わすというレジャーにも何の感慨も持たなかったので、こういう店ではいつも店主に「適当に置いて」とオーダーしていた。
 その僕がおもむろにメニューを開いたので、すぐ隣に座っていた中也も何を頼むのかと覗き込んでくる。僕の左肘と中也の右肘がとんとぶつかった。

「この一番高いスパークリングワインをお願い」
「おいおい、どういうタイミングでどういう注文なんだよ」
「うるさいなぁ。僕が何を飲んだって自由でしょ」

 二人分とは言わなかったのだが、店主はすらりとした形のシャンパングラスを二脚僕たちの前に並べて、泡が落ち着くのを待ちながらゆっくり数回に分けてそれを注いだ。

「いや、俺はいらねぇんだけど…まぁ、もらうか」

 太宰の金だしな、とせこい事を言いながら、中也は自分が飲んでいたワインを一息に飲み干してから、提供されたシャンパンをこれまた一息に飲み干した。

「うわっ…最悪」

 そんな飲み方して、紅葉さんに怒られるよ。と僕が言うと、中也は一瞬背筋を正して顎を引き、今更空っぽのグラスをエレガントに傾けたが、すぐにそのグラスをコンと卓に戻して、「内緒にしろよ」と僕を見た。

「酔ってるでしょ……」

 僕の淡白な飲み方とは裏腹に、中也は《暗殺王事件》の後くらいから、こうやって酔い潰れるまで飲もうとすることが増えた。その辺で勝手に潰れていてくれるならいいのだが、なぜか酒量がある程度に達すると、決まって僕の名前を連呼し、弱りはてた彼の部下から僕に連絡が来る。
 当然迎えに行ったりなどしないが、そもそも連絡が来ることが鬱陶しいので、迷惑だから家で一人で飲むか、自分との作戦の後なら付き合ってやると言ったのだ。そしたらこういうことになった。
 マフィア御用達の店に鉄と硝煙の匂いをくっつけて現れれば、見た目が子供だろうと何も言われずに酒が提供される。いっそ西部劇に出てくる酒場のように、お子様は帰んなと突っぱねてミルクでも出してくれれば、その店をどこより贔屓にするのだが、今のところ巡り合えていない。
 まったく、一年前は身長が伸びなくなるからとか言って、仲間に誘われても飲まなかったらしいのに。
 そしていざ飲むと、本当に酒癖が悪い。タチも悪い。
 付き合ってやるなんて言うんじゃなかった。でも、自分以外の人間の前でこんなだらしない表情をされるのも想像するとすごく不愉快だ。

「おしゃべりできないくらい酔ったんなら、もう帰るよ」
「待てよ、今日はまだそんなに酔ってねぇ。もう少し付き合え。今日は手前の作戦で散々働かされたんだ」
「えぇ? あのくらい余裕でしょ。中也が考えたあの恥ずかしい作戦暗号も全部入れてあげたじゃない」
「誰が全部入れろっつったんだよ、ラーメン屋か手前は。無意味に跳んだり跳ねたりさせやがって…雑技団からスカウトが来たら手前のせいだからな」
「そうなったら僕も一緒に行ってあげるよ。中也を入れた箱に剣を刺す係になるね」

 空いたグラスに二杯目がサーブされる。中也は「もういらねぇ」と言って、元々自分が飲んでいた赤ワインのおかわりを頼んだ。口に合わなかったようだ。

「これ、甘くておいしいのに」
「ジュースでも飲んでろよ。…で、なんつったっけ? 恋をしたことがあるのか……その『雑談』に対する俺からの返答は、『ない』だ」

 飽きもせずまた同じワインを飲み始めた中也の瞼が、その色が移ったみたいにほんのり赤く染まり始めた。

「じゃあ最近別れた彼女も、その前にいた彼女も、別に好きでもないのに恋人にしてたってこと?」
「……なんだよ。メンヘラストーカー女製造工場の手前に純情を問われる筋合いは無ぇ。あのな、手前に弄ばれたって苦情が俺宛てに来るのぶっちゃけすげぇ迷惑してんだよ。せめて組織内の女はやめろ」
「中也だって、似たようなものじゃん」
「俺は手前に迷惑かけたことねぇだろ。……つうか、さっきから何の話してんだ。手前、俺の付き合ってた女に興味があるのか? 言っとくが紹介しねぇぞ」
「は? どうしたらそういう発想に至るわけ?」

 失礼すぎるでしょ、僕に。と言いながら小皿に残っていたピスタチオの殻を弾いたら、酔っ払いのくせにひょいと軽く避けられた。

「だったらなんで俺の彼女の話になんだよ。俺が誰と遊ぼうが手前には関係ねぇし、第一、興味もねぇだろ」
「遊びなんじゃん、中也だって」
「遊びだよ。でも手前のは『弄び』なんだよな、たぶん」
「どう違うの」
「んー……お互いに楽しんだかどうか…?」

 それなら僕だって、と言いかけて、やめた。
 単に気が向いたときや、そうするのが任務の上で効率的だと判断したとき、僕は女性と付き合う。始まりは中也のそれと変わらないはずだ。
 けれど、それが楽しかったかと聞かれたら、誰の顔も、交わした言葉も、浮かんではこない。
 元来自分は、女性の肌の柔らかさや自分に向けられる声の優しさを好んでいると思う。動機が仕事のときでも、嫌々そういう手段を選んだことはない。好きでしたことだ。それなのになぜ、何にも残っていないんだろう。

「ああ、わかった」

 言葉を返さず黙り込んだ僕を珍しそうに数秒見つめて、それから閃いたという顔で中也は僕を指差した。

「手前ひょっとして『恋が何か』を俺に聞いてんのか?」
「…………」

 いよいよ頬まで上機嫌に色づいた彼の顔を無言で見つめ返すと、それを肯定と受け取った中也の肩がぷるぷる震え出した。きゅっと結んだ唇の中でもごもごと爆笑の予感が膨れ上がっているのが見て取れる。アー死んでほしい。

「ぶあっはっはっははははは! ば、ばっかじゃねぇの」
「ああもう酔っ払い。騒ぐなら帰るよ」
「つい一時間前にあんなに殺してきた奴が! 恋!」
「殺人鬼テッド・バンディにだってガールフレンドはいたさ。殺すことと恋をすることに相互関係は存在しない」
「はぁ、はぁ…は~笑った。手前のこと大っ嫌いだけど、ときどきすげぇ愉快だよ。そういうとこは好きだ」

 大砲が胸をずどんと丸くぶち抜いていった。

 どんなときでも表情を変えずにいられる人間で本当によかった。本当は今すぐ胸を押さえて「うぐぅ」と呻きながら床に蹲りたかった。

「恋か。恋ねぇ……。いや、笑ったりしてわるかった。考えてみたら、俺も同じことを考えたことがあったよ。《羊》にいたころに」
「ああ…マフィアよりは、サンプルが多そう」
「そうだな。そのときは、興味があったというよりは、それ絡みの面倒事に対処するすべを知りたかった。男も女も、誰かを好きになったと言い出しちゃ変な行動し出して、周りもそれを応援したり邪魔してみたり、そうこうしているうちに付き合いだして、別れて、すぐにまた相手を変えて同じことを始める。そして、やたら俺が巻き込まれた」
「想像できるなぁ」

 王様を取れば勝ちだもの。チェスも世渡りも。
 彼らがただ純粋に相談相手に中也が適任だと思ってそうしていたと思っているのだとしたら、中也ってほんとリーダーに向いてないんだな。羊の王なんてやめて正解。感謝してほしいね。
 と言ってもよかったが、彼らの話を僕が持ち出すと九分九厘機嫌を損ねる。今日はもう任務の後だし、だいぶ飲んだし、今から口喧嘩する気分ではなかった。

「…それで、悩める青少年たちのカウンセリングを経て、中也が出した結論は?」

 教えてほしいか? と楽しそうに笑って、中也は両腕を枕にしてカウンターの上に頭を載せた。

「あ、ちょっと。そろそろ落ちるなこれ…ちょっと中也、聞かれたことにはちゃんと答えなよ。ていうか寝るならここじゃなくて帰って――うわっ何これフニャフニャ!」

 とろんとした眼差しで僕を見上げているその横っ面を指でつついたら、ふにゃんと指先が白い頬に吸い込まれた。
 咄嗟に頭の中に白いマシュマロの像が浮かんで、死にたくなってウッドストックと一緒にたき火で焼いた。

「もにゃ…っていう…はなぁ~だざい~」
「えっ? 何?」
「だからぁ…恋っていうのは、ひまつぶしなんだよ…」

 頬から指先を離したら、中也は酩酊した表情の割にはっきりした口調でそう言った。

「…明日死ぬかもしれない命なのに、あいつら、たまたまそのいっとき恋した相手を庇って死んだりする。数か月前だったら別の相手を庇っていたかもしれないし、数か月後なら、そんな気は失せていて、我が身かわいさに相手の命を差し出していたかもしれないのに…」
「それは、無常の話だよ。感情は無常の最たる例だ」
「いいや、違う。そうじゃねぇ。命を懸けた気になるのが好きなんだ、人間は」

 僕たちは互いに互いの目から目を離さずに話していた。
 それだというのに、中也の瞳の奥は、どこか遠くを映しているような気がした。深く沈んでも、底の見えない青。

「何かに全部を預けねぇと、生きている実感が得られない。そうしていないと、長い一生を前に意味だの価値だのを求めて、見つからなくて、途方に暮れてしまう」
「……つまり君は、恋をする人間は皆、自己実現の方法を他者に求めている――と言いたいの?」
「実現…? ああ…長い一生を夢のような時間と置き換えるんなら、そういう解釈もありだな。長いつっても、ほとんど百年も生きやしねぇのに」

 くっくっ、と笑って、中也はカウンターに頭を載せたまま、黒い革手袋の指先で、カウンターに使われている花梨の古材の年輪をゆるゆるとなぞって遊んでいた。
 こういうの見たことあるな。何だっけ。
 そうだ。四方をアクリル板で囲われた、蟻の巣を観察するキット。蟻が中の砂を掘り進んで巣を作る、その生態を横から眺めているような。

「ヒマ潰し……」

 なるほど、君は、恋を知らない。
 
 
 ***
 
 

「それで、また告白もできず接吻だけして敗走したと」
「敗走なんてしてません~~! しっかり綺麗に壊滅させたし安吾に頼まれてた裏帳簿だってホラこの通り」
「任務の成功の話じゃありませんよ」

 まぁこれは貰っておきます、と言って安吾は私の手から黒いUSBメモリを受け取り、鞄に仕舞った。

「何に使うの?」
「内緒です。小銭稼ぎですよ」

 いつもの夜だった。
 退屈な仕事をして、また死にそこねて、なんとなくこのバーに足を向ければ、三人集まる。
 この頃の私は十八になっていて、組織内で歴代最年少の幹部に就任し、良くも悪くも気を遣われすぎる立場だった。
 部下に付けられた人間にちょっと世間話を振っただけで相手はがちがちに緊張して長考し、その上、面白くも何ともない返答を寄越す。
 けれどこの店にいる時間だけは、安吾と織田作と私の三人で互いに気を遣わず他愛もない会話に興じ、それでしこたま笑って夜を食い潰せた。
 そう、本当に他愛もない話をして。

「太宰君、いいかげん中也君に告白するなり、しないならしないで中途半端に手を出すのはやめなさい。組織内で噂になっていますよ。《双黒》が任務中脈絡もなく接吻するとか、見たら死ぬとか、宝くじが当たるとか」
「当たった奴がいるのか?」
「参加しないで織田作。ああやっぱり君たちに話すのじゃなかった。人生は後悔の連続だね」
「先週の『負けたら一つ恥ずかしい秘密を話す』という賭けで負けたのは太宰君ですし、そんな勿体つけて言わなくても組織内の皆知ってましたよ」
「えっ。またまた〜、そんな有り得ないでしょ。ねぇ織田作」
「知ってた」
「嘘だろ…? 第三者の口から『中也に告白』なんて単語を聞かされただけでも発狂して鍍金を飲み干す寸前の精神状態まで追いつめられたというのに、その他大勢の他人にまで知られてるなんて恥の致死量じゃないか!」
「僕は、その発狂の原因を取り除くための提案をしたまでですよ。それにその他大勢にまで知られているのは、先程言った君たちの奇行のせいです」

 安吾が奇行と言っているのは、私が中也と人目はばからずキスをしていることだろう。
 それは十六歳のある夜から始まった。ここではない別のバーで中也と酒を飲み、私は彼に「恋をしたことはあるか」と訊ねた。
 彼は「ない」と答えた。そして、恋というものは、人がヒマ潰しにするものだと言った。まるで小動物同士の喧嘩、あるいは幼児の癇癪を見守るような穏やかな眼差しで。
 その表情を見た瞬間、ほとんど衝動的に口付けていた。あれこそまさに癇癪と言えるものであったかもしれない。なんだか訳もなく苛立って、焦って、苦しくて。
 中也はぽかんとした顔でしばらく私を無言で見つめ、それから、革の感触が冷たい手を私の首筋に回すと、ぐっと顔を近づけて囁いた。もう一回。

「とっとと告白なさい。好きだ。付き合ってくれと」
「うわああああああううん……ぶくぶく……」
「ぶくぶく?」
「心象風景における溺死……」

 ハァ、と安吾が呆れた溜息を落とす。

「この際はっきり言いますけど、玉砕前提なんですから、いっそ早く言ってしまった方がいいのでは?」

 織田作がウィスキーのおかわりを頼んだ。私の目の前に置かれているグラスの中身は今夜一番に私が来店してから一ミリも減っていない。
 酒場で酒を飲んだら飲んだ分だけ、この時間の一区切りが近づくような気がして、それが物寂しかった。私はできるだけ長く、この変わり者の友人たちとオチのない与太話を続けていたかった。

「玉砕前提? 安吾、それは分からないよ」
「え? だって中也君の恋愛対象は女性でしょう」

 それがマジョリティだからというのではない。『マフィアの凡てを識る男』と評される坂口安吾が言う言葉には、必ず裏付けがある。おそらく中也の過去の交際遍歴から、胸と尻の大きな年上の気の強い女性がタイプだということまで知っているのだろう。おまえは欠片も掠ってないぞ、と言いたいわけだ。
 そんなこと、僕は三年も前から思い知っている。

「私の予想では、私が告白したら、中也は受ける」
「接吻しても拒まれないからですか? もう中也君は相棒として君の奇行に慣れすぎていて、何を言っても無駄だと諦観の極みに達しているというのが僕の見解です」
「というか、太宰と中原は恋人同士じゃなかったのか?」
「織田作さん、そこからですか? 先週太宰君が言っていたでしょう。『私は実は中也のことが前からすきで、でもどうやったら付き合えるのか分からなくて』わっ、ちょっとやめなさい太宰君、安全ピンでスーツの縫製を解こうとしない! また地味にすごく嫌なことを…!」

 先週のここでのやり取りを再現し出した安吾の上着の肩口を持っていた安全ピンでちくちく刺してやった。ぼろにされては困るとしぶしぶ上着を脱いだ彼に、いつまでも堅苦しい格好でいたから着替えを手伝ってあげたのだよ、と言ってやる。嘘おっしゃい、とすかさず返ってきた。

「まぁ先週君たちの前では一通りの恥を晒したから、いいんだけどさ」
「いいなら変な照れ隠しをしないでくださいよ」
「悪戯するのは好きだけど、されるのは好きじゃないんだ。……で、なんだっけ。そうそう、中也はフリーのときに告白されたら八割受けるよ。その相手に今まで同性がいなかったのは単に偶然と、見た目か何かの要因で中也の気が向かなかったからであって、性別に拘りはないと思う」
「じゃあ大丈夫だな。太宰は容姿がいい」
「え~~~やだ~織田作ってば、照れる」
「はぁ…じゃあ何ですか、先週の恋愛相談の時点から今日ここまでの話も全部茶番で、実際は付き合おうと思えばいつでも付き合えるし、何の問題も抱えていないと」
「うーん……半分は正解」

 付き合うことは比較的容易だと思う。タイミングと態度を間違えなければ、「おう、いいぜ」と男らしいこと極まりない返答を貰えるだろう。問題はその後だ。

「中也にとって、恋愛って『ヒマ潰し』なんだよね」
「あまり中原らしくないな」
「というか、どちらかというと太宰君寄りの価値観では?」
「そうだね。およそ全てのことは死ぬまでの暇潰しだと私も思ってる。でも、中也のそれは私のそれとはだいぶ違っていてね……なんていうのかな、神様目線っていうの?」

 かみさまめせん、と二人が同時に復唱した。

「中也自身がヒマ潰しをしたいというよりは、中也でヒマ潰しをしたい人間の相手をしてやっているという感じで…相手からの恋愛感情を全部一時のものだと割り切った上で、敢えてその舞台に乗ってやっている」
「都合のいい男のポジションが好きなんですかね」
「それに甘んじている、っていうんでもないんだよ。あの通りの性格だから、自己価値を低く見積もっているわけでもない。例えるなら、上空から人間たちの営みを見守っているような、親鳥が雛鳥を見るような、慈しみ? 的な…? オエッ言っててきつくなってきた…とにかく」

 ごくありきたりに「中也のことが好きだから付き合ってほしい」などと告白したが最後、中也の中の私は、『大嫌いな相棒』から『恋に振り回されている可愛い人類の一人』に大幅ランクダウンしてしまう。いや、彼の中ではランクアップなのかもしれないが、私にとっては、嫌われている方が余程ましだ。

「付き合えたとして、私もあの腹立つ神様目線のヒマ潰しに使われて、ある時あっさり捨てられるんだ……それだけは絶対に嫌だ!」
「ああ見えて、案外達観しているんですねぇ、彼」

 だから太宰君の相棒なんてやっていられるんでしょうか。と、ちっとも嬉しくない感想を言って、安吾は店主に自分一人分の勘定を頼んだ。

「この後も仕事か? 安吾」
「ええ。済みませんが、この後は織田作さんに頼みます」
「達観か……正直、よく分からなかった」
「そうでしょうね」
「いや、太宰の説明が理解できなかったわけじゃない。それに、中原のことをそう知っているわけでもないが――、中原は、普通の人間に見える」
「……そうですね。中也君が神様ではないとしたら、その特殊な価値観は、『知った故』である可能性と、『知らぬ故』である可能性がありますよ」
「民俗学の話してる?」
「はい。未開の風習や思考には、未開ゆえに人間のプリミティブな精神活動が色濃く表れる。織田作さんのおかげで、君たちの奇行の理由も正しく理解できた気がします」
「私は全然わからないけど…未開のゴリラの思考なんて」

 では次回までの宿題ということで。と言って、安吾は鞄と上着を手に店を出て行った。

「太宰」
「なに、織田作。ああ、さっきの話ならもういいんだよ。私も本気で相談しているわけじゃあない。ただ、君たちと馬鹿話をして笑いたかっただけなんだ」

 そう言って、あれ、ひょっとしたらこれも、自らの恋愛を舞台化して踊る行為だろうかと、思った。

「安吾の言う通りにしようかなあ。つまり、わざと振られるタイミングで告白してしまえば付き合うこともなく従って別れることもなく、私の悩みは一つ解決する」
「太宰」
「そうだそうしよう。どうしてこんな簡単なことに今まで思い当たらなかったのだろうね。中也に出会ってから今までずっと患ってきた大病とようやくオサラバだ。よぉし、善は急げ、早速今から中也の携帯に」
「太宰」
「……なぁに」
「振られたら慰めてやる」
「――いらない! ていうか、私を振るとか何様なわけ? 振られるくらいなら告白なんてするもんか! 絶対に!」
 
 
 ***
 

「だざい」
「……何」
「俺は、手前と出くわすことについて、それが偶然だったことは今までに一度しかなかったと思ってる。擂鉢街に手前が広津を連れて現れた、あの最初の一度だけが偶然だ」
「じゃあそれ以外は何だったって言うの。私が中也に会いたくて仕組んだとでも?」

 わかってんじゃねーか。と、ワインですっかり出来上がった無邪気な笑顔で、中也は私の唇にオリーブを押し込む。

「ふぁへへ。ひらはい」
「ああ、わりぃわりぃ。甘い方が好きなんだよな」

 その上からさらにドライフルーツを追加してきた。そういうことじゃない。あと、どっちもそんなに好きじゃない。

「うえっ…。中也、君の酒癖の悪さ相変わらずだね」
「今日は特別だ。迷惑のかけ甲斐があるからな」
「最悪。送らないからね、今の君の家なんて知らないし」
「だったら、俺が酔いつぶれる前に、目的を果たせよ」
「目的…? は、ちょ、ちょっと、言ってるそばからつぶれかけてるじゃないか」

 んー、と応答はもう怪しい。カウンターの上で両腕を枕にして頭を載せ、どこを見ているんだか分からない目で私の方に顔だけ向けている。
 何度も見た光景。何年振りかの。

「懐かしいなァ……手前のその…」
「私の……?」
「俺が手前に出くわすときは、いつも、手前が俺に何かをしたいときだった。大がかりな嫌がらせだったり、俺が大失敗したと耳聡く聞きつけて嫌味を言うためだったり、俺に何かを、言おうとして、言わない……」

 そういうときしか、出会わねぇんだ。
 バーの椅子と椅子の間は、こんなに離れていただろうか。うすく開いた中也の唇が、遠い。

「今夜は随分ロマンチックなことを言うね。吐きそう」
「ん? 吐いてこいよ、待っててやるから。手前も酒に弱くなったな、この四年ちっとも会わずにいた間に」
「そうしようかな」

 お言葉に甘えて、トイレに吐きに行くふりをしてこのまま置いて帰ってしまおうか。
 中也の言う通り、私がマフィアを抜けてから四年も過ぎたのだ。その間に、一人で酔い潰れたときに迎えに来させる哀れな部下の一人や二人できただろう。
 まさかいまだに私の名前を連呼して、つながらない電話番号にかけたりなんてしていないはずだ。

「四年…俺が探しても、手前が俺に会おうとしなければ、絶対に会えないように仕組まれていた。だから…」

 置いて行こうと決めて、そっと席を立った瞬間、中也がぼそりとそんなことを呟いた。

「探した……? 中也が私を? 首領の命令で?」

 中也の声は次第に小さくなり、何か言っているようだがよく聴こえない。私はせっかく立ち上がったばかりの椅子を動かして、彼の真隣にもう一度腰を下ろした。

「……だから今日は、手前が俺に会いに来たんだ…。なぁ、そうだろ。偶然じゃない。そうだって言えよ」
「…………うん」
「何が望みだ? ここの勘定か?」
「うん……いや、違う…」

 ああ、あの頃と、抱えている衝動はまるで違わないのに、そして、こうして近づけば、すぐに届く距離なのに。
 あの頃の『奇行』が今はできない。

「中也。昔、恋はヒマ潰しだと言っていたけど……今は……って、寝てる……」
 
 
 
 連れて来てしまった。
 すっごく重かった。何やってるんだろう私。
 いま中也がどこに住んでるかなんて知らないし、調べればすぐに分かることだけど、バーの店主の「連れて行け」という視線が痛くて、とりあえず中也の財布で会計して店の外に連れ出して通りにいたタクシーの後部座席に放り込んだ後、面倒になって自分の社員寮を告げてしまった。
 もう国木田君も敦君も寝ている時間だ。ポートマフィア幹部を拾って来たから寝顔に落書きでもして遊ぼうよ! と誘ってこの後の時間に付き合わせることもできない。

「なんなのもう…煽るだけ煽って、寝落ちとか…」

 腹いせに彼の頬をつまんで横に引っ張る。もう片方の手で自分の頬もつまんでみる。やっぱり中也の頬の方が全然柔らかい。大人になってもコレ変わらないのか。
 携帯端末を起動して『ほっぺ 柔らかくする 方法』で検索してみた。所在ない状態の人間が取る行動である。

「フェイスラインをラップで覆って三分間入浴? ……いや、絶対してないでしょ。してたら見たいし。普段から口を大きく開けることが多い……これかも。昔からぎゃんぎゃんうるさかったし」

 でも、口自体はそんなに大きいわけでもないんだよね。めいっぱい開いたらたぶん私の方が大きいくらいだったと思う。――キスをすると、いつも私が中也を食べているような気分になっていたから。

「そうとも知らずに、私の前で眠ったりしてさ……」

 無造作に畳の上に転がされている中也の唇にそっと触れて、開かせる。やっぱり、普段の印象よりもやや狭いその口の奥に、あかい舌が見えた。
 胸の奥でチリチリと火の粉が舞う。
 苦しい。切ない。キスをしている間は、これの処方箋のように効いたのに、今それをしたら、もうそれだけで満足できる気がしない。

「……やめやめ。飲み直して、朝になったら捨てに行こ…」
「なんだ、やめるのか…?」

 買い置きの蟹缶と日本酒を取りに行こうと立ち上がったら、しっかり理性を残した声で呼びかけられた。

「……狸寝入りとか」
「いや、タクシーに乗る直前までは寝てた。でも、俺の狸寝入りに気づかないなんて、衰えたなぁ太宰」

 中也は台所に行きかけていた私に「水くれ」と要求し、ぐるりと部屋を見回して、良い部屋じゃねぇか、と感想を言った。

「思ってもないくせに…はい、お水」
「嘘じゃねぇよ。昔、同じ手を使って連れ込ませたあのゴミ箱より百倍マシだ。今だから言うが、コンテナは人が住むためのもんじゃねぇ」
「自称君のお兄さんには、趣のあるところだと言ってもらえたのだけどね。まぁ、酷い場所だとも言っていたけど。……連れ込ませた? って言った? 今?」
「ああ、言った。この手を使うのはこれが二度目だ」

 中也は私から受け取ったコップの中の水道水をごくごくと飲み干している。私はというと、蟹缶と酒を取りに立ち上がったはずなのに、足の裏がその場に貼り付いて動かなくなってしまった。

「俺は、…俺に何か言いかけてはやめる手前の顔を見るのが好きだった。その何かの代わりにキスをされるのも」

 十五のときから好きだった。
 十六のときも好きだった。いつから気づいてた?

「十七のときも、十八のときも、いつも手前は俺のことを、――そうだ、今の手前のその目だ。その目で見ていた」
「中也……私に何を言わせようとしているのか、分かってて言ってるの? ここは私の部屋なんだよ」
「勿論。手前のその情けねぇ顔を見るのが懐かしくて、今日は最後まで言わせたくなった。あのコンテナに行った日も、同じことを考えてた。まぁあんときは、やたら何度もキスした後で手前が急な任務が入ったとか言い出して俺をあのゴミ箱に置き去りにして行ったわけだが」

 今度はその手は使えねぇだろ? と言って、彼は目の前に立ち尽くしている私に手を伸ばした。
 膝を折ってその手を取り、畳の上に縫い留めて、白い頬に触れた。柔らかい。指先で形の良い顎をとらえて唇を寄せたら、ぱん、ともう片方の手の平でガードされた。
 ころころ…と空になったコップが畳を転がる。

「ちょっと……中也、それはないでしょ」
「最後まで言わせたくなった、って言っただろ?」

 言葉で言え、ということらしい。

「ううう…いやだ」
「わがまま言うなよ。二十二歳だろ」
「私は私の恋が君のヒマ潰しにされるのも、君が私のヒマ潰しに付き合ってあげてます人間たちへの慈愛ですみたいな顔するのも腹立つ。そういうんじゃないんだ。中也が、…中也が私とおんなじ病気になってくれないんだったら、言いたくない!」
「そっ…………うか。わかった」
「なにそのニヤけた顔! 今どういう感情?」
「えっ…や、可愛いな~…って」
「イヤーッ! 最低! その勘違い甚だしい神様目線ほんとにムカつきすぎて大嫌い! 私がいつから、どれだけ…っ、ああもう、萎えた萎えました! 酔いもさめたでしょ。もう帰って。そして、できるだけ早いうちに死んでね」
「いや、待てよ。分かったから」
「はぁ? 何が分かったって――」

 数年越しに到来した致死量の羞恥に顔をそむけていた私の人並みに硬い頬が悪戯につつかれて、振り払うように向き直ったら唇が触れ合っていた。

「う……」

 その瞬間、ぶわっ、と全身の感覚が鋭くなり、与えられたものを余さず受け取ろうと貪欲に暴れ出した。
 こんなの最悪だ。完全に中也のペースじゃないか。そう思うのに、欲しいものは欲しくて、気づいたら畳の上で彼の身体に圧し掛かっていたし、息継ぎは忘れた。

「ふっ…はぁっ、はあ、…だざ、い」

 手前にひとつだけ、謝るよ。と、中也は言った。
 いつか、手前が恋とは何かと俺に訊ねたとき、俺はそれを知っているつもりで答えた。と。

「けど、本当は知らなかったんだろうな」
「俺は、今の手前みたいな顔で誰かを見つめたことがない。その目が俺を見なくなって、四年……。足りなかった。何が足りないのか分からねぇけど、足りなかったんだ」
「なぁ、『これは何?』 教えてくれよ、太宰」

 中也の唇が、私の上唇をぱくりとついばみ、こちらの舌を揶揄うように尖らせた舌先でつつく。以前は犬みたいに一生懸命口を開けて吸い付いてきたのに、自分の口が私より小さいと分かってそれを楽しむような動きだった。

「七年遅れでやっと罹患してくれたの? しかたないか、犬は人より丈夫な生き物だものね」
「犬に芸事を教えるのは飼い主のつとめだろ」
「おや、犬の自覚あったの」
「ああ。飼い主の方には自覚が足りなくてがっかりだよ。普通は四年も放置されたら飼い主のことなんて忘れる」
「うふふ…忘れた?」
「ああ忘れた。キスのやり方も変わるくらいには」
「っ! やっぱり! 他でヒマ潰ししてたじゃん!」
「うるせぇ! 手前が言えた話かスケコマシ!」
「中也のビッチ! やっぱり遊びと弄びは同じだ!」

 しばらくそんな言い争いを続けた後、静かにせんか! という隣室の国木田の怒号と壁を殴りつける音で私たちは顔を見合わせ、今すぐ離れたくなる気恥ずかしさと、どうにも離れがたい名残惜しさで、何も言わずにキスを続けた。

 長いこと、自分はこの世界に間違って迷い込んだ存在のように感じていた。それが、ある日アクリル板の向こう側から現れた存在に釘付けになって、死ぬこと以外の出口があることを知った。
 出口の先も退屈な現実であることに変わりはなかったが、少なくとも恋をしている間は、今日よりも明日、明日よりも明後日、より心を揺さぶられる出来事への予感に震えて、それに明け暮れていられる。

「ねぇ、中也に飽きちゃったらどうしようかな」
「殺してやるよ」
「最高!」

 そうして私は先の心配もなくなって、やっと掴んだ恋の柔らかい皮膚に噛み付いた。
 
 
 
 

 たしかに食事は美味しかった。
 上海蟹を丸々蒸したものが出てきたときには、つるんと綺麗なオレンジ色にテンションが上がったし、紹興酒に漬けた蟹味噌も美味しかった。小籠包もスープも最高で、炒飯は正直蛇足だったが、その後に出て来たものに比べたら百倍マシであったと思う。

「好きだ太宰。結婚を前提に付き合ってくれ」

 円卓がくるりと回され、私の正面に黒い小箱が現れた。
 手のひらサイズのその箱は、こちらに口を開ける形で開かれており、中にはプリザーブドフラワーの真っ赤な薔薇が一輪と、その中心にブラックゴールドの指輪。

「死んでも嫌」

 言いたいことが大渋滞していたが、取り急ぎその一言に全てを込めた。
 円卓を挟んで向かいに座っていた男は、まさかとでも言いたげな表情でうろたえ、なんでだ、やっぱりプラチナがよかったのか、と頭を抱えた。そういう問題ではないし、頭を抱えたいのはこちらの方である。

「あのさぁ、中也…何か私に頼み事があるんでしょ? どうせ部下にかけられた異能を解除してほしいとかそういうさ。それで蟹は分かるけど、何この指輪。薔薇って」

今まで生きてきてお目にかかったことのないレベルの強烈なダサさにあやうく食べた蟹を戻しかけた。

「結婚…付き合う…うん、分かった、その頼み事は私を長期間拘束する必要があるということだね。例えば一度解除しても数時間後に再発動するとか、途方もない人数が被害に遭っていて時間がかかるとか」
「え?」
「え?」
「今……わかったって言ったか? 太宰」
「あ? いや…え? なに? 会話が通じてない」
「だから、俺と付き合ってくれるんだろ?」
「はぁ?? 死んでも嫌だって言ったでしょ? だからそういうのはいいから、さっさと目的を話せって――」

 中也は長いため息の後、すぅと真顔になっておもむろにジャケットの内側に手を入れた。何か出す気だ。私は咄嗟に椅子を後ろに引き、相手の出方を注視した。
 中也が取り出したのは一本の杖だった。三十センチ程の長さで、先端がハート型になっていて、その中心に赤い宝石が埋め込まれている。そう、玩具店に売っている女児向けの玩具のような形状の、銀色の杖。それを黒づくめのガラの悪い男がくるくると指先で振っている。

「来たれ七星の土星、アガレスミラクルルルルルルー、時間よもどーれっ☆」
「な、」

 

「――っんなのその呪文!」

 声をあげて立ち上がったら、足元が前後にぐわんと揺れた。思いがけずバランスを崩して後ろにあった座席にまた着座してしまう。
また? いや、さっきまで座っていた椅子じゃない。

「そんなにはしゃぐなよ。観覧車は初めてか?」
「かん……」

 観覧車なのだった。分厚い窓の外をパステルピンクのジェットコースターがびゅんと通り過ぎていく。今さら珍しくも何ともない、みなとみらいの遊園地。

「……何をしたの?」
「時間を戻した。聞こえてただろ?」

 確かに、妙ちきりんな呪文の最後に、『時間よ戻れ』と言っていたのを聞いた。だが、どうやって?

「私に異能は効かない」

 あの中華街の店で、昏睡状態にされて運ばれた? それにしては記憶の途切れ方が唐突だ。まるで映画のフィルムを変なところで切って繋ぎ合わせたみたいに、一瞬で別の場所に移動している。意識を失うほどの暴力を受けたような痛みもないし、料理に何か盛られている感じもなかった。

「手前が今考えているような、真っ当な暴力で連れ回すことも、考えはしたけどな」

 真っ当な暴力とは?? ゴリラのパンチにレギュラーもイレギュラーもノーマルもアブノーマルも無いと思うのだが、十分な距離を取れないこの密室で中也とやり合うのはどう考えても私が不利だ。無意味に怒らせる発言をするのは得策ではない。
 私は観念したというポーズで両腕の力を抜き、座席の背もたれに背中を預けた。沈黙で話の続きを促す。

「そう、手前に異能は効かねぇ。かといって、糞忌々しいことに、単純な暴力で手前の予想を上回ることなんてできやしねぇ。だが、」

 ラヴクラフト――と、何時ぞや二人で交戦した組合(ギルド)の男の名前を口にした。

「『異能ならざる不可思議』なら、手前を出し抜くことも可能なんじゃねぇかと思った。さっきみたいにな」
「異能でないなら、何? さっきのおかしな杖は」

 これか、と中也はあっさりそれを取り出して見せた。

「これは、魔法のステッキだ」
「まほうのすてっき」
「ああ。呪文を唱えて振ると、魔法が使える」
「へぇ~。…………私、帰っていい?」

 見たいテレビがあるからさぁ、と言いながらコートのポケットから携帯端末を取り出し、現時刻を確認する。
 まぁ待てよ、もうすぐ頂上(てっぺん)だから、と中也は必死に引き留めるふうでもなく、窓の外の夜景を眺めながら私をたしなめた。

「地上に着いたら帰るからね。魔法だか何だか知らないけど、オモチャで遊ぶお友達は同じマフィアの中で……」

 ……頂上? 猛烈な悪寒に襲われた。そう、つい先刻真っ赤な薔薇入りのリングケースを見せられたのと同種の嫌な予感。今は何時だった? まずい。休日のこの時刻、観覧車に乗ったら、たぶん海の方で、

 どーん! と大輪の花火が夜空に咲いた。色とりどりの閃光に互いの顔が照らされ、影を帯びて、またなめらかに光る。中也の目は少年のようにきらきらしていた。

「太宰! 好きだ! 付き合ってくれ!」

 うわあああああああああ!!!!やっぱり!!!!
 不覚を取った。こんなベッタベタの横浜デートプランにまんまと嵌まってしまった。

「分かった」
「分かってくれたか!」
「そうじゃない。君が私に頼み事をしたくてその手段としてこんなことをしているって可能性を今捨てた」

 純然たる嫌がらせだ、これは。
 ぶつぶつと浮き上がった鳥肌が戻らない。自分と両極のセンスの持ち主である中也からガチで口説かれたら、ここまで精神にダメージを受けるのか。自分を格好良いと信じて疑わない中也がその可能性に行き着いたことは素直に賞賛してやってもいい。

「その『魔法の杖(ステッキ)』とやらに、本当に時間を戻す力があると仮定しよう。君はそれを手に入れて、この嫌がらせを思いついた。とすると、君の気が済むまで、私はこの状況から解放してもらえないのだろうね」
「まぁ、そうだな。嫌がらせじゃねぇけど」
「嫌がらせじゃないなら何だって言うのさ」

 もうずいぶん昔に、中也とキスをして、セックスもした。でもそれは、他人に説明をするのも面倒な心に溜まった澱を、吐き出すのに丁度良かったというだけ。指輪を贈ったり、花火の下で告白するような関係ではない。

「観覧車が気に入らねぇんなら、別の場所でやり直してやるよ。どこに行きたい?」
「もう一度、同じ時間に戻ってかい?」
「そうだ」
「成程ねぇ……」

 控えめに言って地獄である。
 嫌がらせの終着点(ゴール)は、嫌がらせを仕掛けた側にとってそれが不利益になるか、満足して飽きることだ。
 前者の状況を作るには、私からも何か仕掛けなければならないが、何をしても時間を戻されてしまうとなると難しい。中也を満足させる方は簡単で、おそらく私が彼にまいった私の負けだと降参する姿を見せるだけでいい。絶対に嫌だが。

「……もうすぐ地上だよ。さっきの告白の答えはノーだ。次はどこへ連れてくつもり?」
「そうだな。ヘリを一機待たせてあるから、夜景を」
「却下。次」
「ディナークルーズを予約しているから、船上の夜景」
「次」
「手前を仮死状態にして、俺の異能で空からの夜景を」
「夜景から離れて!? あと最後のやつ論外なのだけど!死体に夜景見せて愛を囁くの!? サイコパスかな!?」

 私たちの乗っているゴンドラが乗り場のすぐ近くまで降りてきた。今からこれに乗るのを楽しみに待っているカップルたちの行列が目に入る。
 中也の考えるデートコースを回らされたら、ああいうカップルたちの衆目環視の中で告白を受けるはめになるかもしれない。できるだけ人目につかない場所で決着を付けたい。

「中也、私、大事な話は誰もいない場所で聞きたいなぁ」
「そうか。分かった」

 前にもそう言ってたもんな。と言って中也は杖を振る。
 前にも…? そんな記憶はなかったが、聞き返そうと口を開いたのとほぼ同時に、中也はあのふざけた呪文を唱え終えていた。

 

 

「……ここ、どこ……」

 一艘の木の小舟の上で私たちは向かい合い座っていた。

「さぁ。どっかの海上。誰もいない場所だろ」

 潮の匂いが強い。海鳥の鳴き声が聴こえる。映像によるトリックなどではなく、本当に海の上を漂っている。小舟はカヌーを少し大きくした程度の大きさで、二人で定員ちょうど。見たところ水も食糧も積んでいない。
 生命維持に危険が及ぶ心配無用で、いつでもこの場所から逃れられると思っているからできることだ。やはりあの杖一本あれば、本当に時間を巻き戻せるのか。

「あのさ、たとえ時間を戻したとしたって、どうやって私をこんな場所まで連れ出したの? 中華街や観覧車はまだしも、ちょっと説得したくらいじゃ」
「ちょっとじゃねぇからな」

 中也は途中で話を遮った。

「『ちょっと』じゃねぇ。十回、二十回とやり直して、そのうちの何回目かで手前を連れ出すのに成功してんだ」
「え? 君が時間を戻したのはこれで二回目じゃ」
「違う。もう数えてねぇけど…千回は超えた。時間を戻したことを手間が覚えていられたのは、そのうちの二回」
「中也……ただの嫌がらせにしては」

 私が途中で言い淀んでも、中也は何も言わずぼうっと海を眺めていた。まだ告白もしてこない。

「その杖、どこで手に入れたの」
「関内のルノワールで一服してたららヤクザがくれた」

 どういうヤクザだ。それに、あの呪文。

「アガレスというのは時間を司る悪魔の名前だ。君さぁ、オカルトに手出しちゃったんじゃないの」
「オカルトだぁ? そんなんじゃねぇよ」

 中也は舟が傾かないように重力操作の異能を使って私の目の前まで歩み寄り、コートの内側から折り畳まれた一枚の紙面を取り出して見せた。

「何これ。読めない」

 書類のようだが、見たことのない言語で書かれている。契約書だよ、と言うと、彼はまたそれを元通りに畳んで仕舞い込んだ。

「ちゃんと契約して譲り受けたんだ。この杖で時間を戻す魔法を使わせてもらう代わりに、オフの日は魔法少女になって魔獣を倒してる。なぁ太宰、そんなことより」
「そんなことより!?」
「俺と付き合ってくれ。頼むよ。俺と付き合ったら毎日きっと飽きないはずだ。――死なせない」
「…………中也って、ほんと傲慢ね。昔から」

 そんなどろどろした目をして訳の分からないことばかり言われる身にもなってほしい。
こいつ、ちゃんと誰かを口説いたことあるのかしら。デートプランもプレゼントも壊滅的にださい上に、一緒にいる間そうして暗い顔まで見せられたんじゃ、これで色っぽい返事を貰おうって期待する方がおこがましいというものじゃないの?

「目、閉じてよ」

 キスしてあげる。と言って中也の手を引いて舟底に押し倒し、上からゆっくりと覆い被さる。私たちがもぞもぞと動くたびに舟が揺れて、ちゃぷんと波が立った。

「太宰…っ、あ、待て、ここじゃ…」
「うふふ。久しぶりだね、もっと嬉しそうな顔したら?」

 頬を撫でて唇を重ね、記憶を呼び起こすように彼の舌を誘い出し、自分のそれと絡めると、小さく喘いでびくんと肩を震わせた。ぐらぐらと舟が揺れる。
転覆しそうだなと若干のときめきを感じる私に対して、中也は何度も重力を制御しようと微かな赤い光を纏おうとし、その度私にあちこち触られて駄目になる。

「あっ、あっ……熱い、手前の手……」

 よく見ると、彼のいつも強気に輝いていた瞳の周りは隈だらけで、胸元をまさぐると、少し痩せていた。肌は氷のように冷たい。

「ねぇ、私を困らせる悪い子中也。一体どんなこわい夢を見せられて、そんなに怯えているの?」

 悪魔は人を誘惑するものだ。その悪魔とやらによほど恐ろしいものを見せられて、それでこんなに思いつめているのだろう。その洗脳を解いてしまえばいい。
苦し気に酸素を求める姿が、かわいそうで一層口付けが長くなる。その合間に、中也はぽつりと呟いた。

「俺、桜木町で映画……ビー…スト……う、ううっ……」
「映画?? 待って、落ち着いて中也。大丈夫だから…ゆっくり息を吸って…そう、やっぱり何か見ちゃったんだね。君が、どんな未来を見てきたのか知らないけど」

 両手で顔を覆って苦し気に呻き出した彼の胸元から銀色の杖をかすめ取り、一面に広がる大海原へと放り投げた。あっ、と中也が声を上げる。

「オカルトなんかに頼ってそんな辛気臭い顔してる未来も大差ないよ。だいたいなぁにあの呪文、アガレスミラクルルルルルルー……だっけ?」
「馬鹿ッ! やめろ!」

 私が呪文を口にした瞬間、びかっと海面が光り、虹色の光の柱が何十本も一斉に突き出した。海水がぼこぼこと沸騰し始め、夜空に瞬いていた星々が一つまた一つと流れ落ちてくる。

「え、すごい…。世界の終わり? 綺麗だねぇ、中也!」
「綺麗だねじゃねぇよボケカス! あの杖は、使用者と杖の先が指した対象の時間を戻す。手前がさっき投げ捨てたことで杖はこの海を――いや、地球の時間を戻そうとしているのか……?」
「あっはっはまさかぁ~、あ、見て中也、プテラノドン」
「白亜紀じゃねぇかクソが!」
「いやぁ、こんなに面白いものが見れるなら、怪しげな魔法でループさせられまくった迷惑も許せちゃうな」
「何を呑気なこと言ってんだ。つうか、太宰は契約してねぇのに、なんで魔法が使えたんだ?」
「えっ……私、ひょっとして魔法少女だった?」
「手前のような魔法少女がいるか。……そうか、きっと俺のせいだ。俺が何度も太宰を中心として時間をループさせたから、因果の糸が太宰に集約しちまったんだ」
「言っている意味がよく分からない」
「今の手前なら、この世界を一部じゃなく、初めから丸ごと創り変えることができるってことだよ」
「私、神様みたいじゃない」
「はっ、そうだな。……良かったじゃねぇか。昔っから手前、何にも面白くねぇってツラしてたろ。俺と寝てたころは特に。今なら、その面白くねぇ世界をどうとでもできる。大嫌いな俺がいない世界にすることだって」
「ふーん、そう。それはいい考えかもね」

 そんなことより、中途半端に火の点いた身体をどうしたものか。無自覚にはだけた胸元をちらつかせながら唇に触れている男を眺めながら、どう考えてもこの世界、ホテルがないし、ベッドもお風呂もローションもないよなぁと考える。あと、恐竜がうるさい。

「ねぇ、中也」

 なんだよ、と全部諦めたみたいな声で彼は応じる。

「好きだよ」

 びっくりした間抜け面の背景に真っ赤に燃える巨大な隕石が落ちてきて、私は爆笑しながら、たくさんのことを考えた。
 君のこと、私のこと。こうだったらいいのになという、世界のことを。

 海があかく染まった。

 

 

「なんだよ太宰。こんなところに呼び出して」
「だから、好きだよ中也。私と付き合って♡」
「は? きめぇ、死ね」

 忙しいんだよこっちは、と中指を立てて吐き捨てると、中也は席を立って足早に喫茶店を出て行った。
 アイスコーヒーの後にサービスで提供された熱い緑茶を啜っていたら、すぐ前を四歳くらいの女の子が小さな歩幅で走り、おもちゃの杖を落とした。
それは三十センチ程の長さで、先端がハート型になっていて、その中心に赤い宝石が埋め込まれている銀色のステッキだった。

「落としたよ、お嬢ちゃん」

 呼び止めてそれを拾ってやると、女の子は恥ずかしそうにもじもじしながら、「それ魔法の杖なの。欲しい?」と甘い高音で囁いた。

「いらないよ」

 私はくるくるとそれを指先で遊ばせ、女の子の眼前でぴたりと止めてやった。その子は赤スグリみたいな瞳でしばらく私の顔をじっと見つめた後、「あなたは、時間が戻ったらいいのにって思ったことはない?」と言った。今度は大人の女性のような声に変わっていた。

「そりゃああるさ。私は人間だからね」

 だったら――とその子が続けようとした言葉は、からんからんとドアベルが鳴った音にかき消された。
 ずかずかと不機嫌な靴音が近づいて来る。

「中也、忘れ物かい?」
「……おい。さっきの話、どうせまた何か企んでるんだろ手前。気になって仕事に集中できねぇから、最後まで話してけ」
「ふふ、いいよ。この後の仕事はキャンセルしたまえ」

 ああ?そんなに長い話かよ、と文句を言いながらも、中也は携帯電話を取り出して口ぶりから彼の部下と思われる相手に連絡をし始めた。

「ね、言ったでしょう。いらないって」

 魔法なんかなくたって、私の犬は、ちゃんと自分の足で私のところに戻ってくるんだ。
 少女のような何かはつまらなそうに口をへの字にして、私の手から杖を奪い取ると、店の出口へと歩いて行った。

「何だあのガキ…足音がしなかった。異能者か?」
「よその犬にすぐ噛みつかないの。さて、今日の予定はなくなったよね? ホテル行こっか」
「ハァ!?」
「何想像してるの? そこで話すって言ってるの」
「てめ…紛らわしい言い方すんな!」

 きゃんきゃん吠えながら隣を付いて来る中也を横目で見ながら、好きって言ってくれたことは消さなくてもよかったかもなぁと一瞬考えた。

「ま、それはこれから言わせればいいか」

 何のことだよ、と訝しむ彼をガチで口説く方法を頭の中で千通り考えて、とりあえず手を繋いだ。中也の悲鳴が心地よかった。

 

「髪、伸びましたね」

津島君、と淀みなく偽名で呼びかけて、彼は丸眼鏡の奥の分厚い隈を指でごしごし擦りながら、ドーナッツ屋の紙袋を私の鼻先に突き出した。

「やぁ安吾。おかげさまで散髪にも行けない身の上でね」

いっそこんな湿っぽい地下じゃなく塔の上に閉じ込めてくれたら、外の景色に心慰められることもあるだろうに、と胸に手を当てオペラを歌うように大仰に言えば、「その配役じゃ僕が王子じゃないですか」と心底嫌そうに顔を歪めた。

「君は魔女の役さ。私の過去を剪刀でジョキリと切り落としてくれる、ね」

私は指でチョキチョキと鋏のジャスチャーをして、その指で安吾が寄越した紙袋の中をまさぐり、丸いドーナッツをひとつ挟んで持ち上げた。
手で二つに割ると、中からビニルフィルムで包まれた小型のUSBが出てきた。フィルムを剥がし、安吾から借りているちっちゃいパソコンのポートにそれを挿すと、警告なしにいきなりどこかにIP電話がかけられる。これっきり使い捨ての通信手段だろう。

「それじゃあ、終わったらいつも通り全て破棄しておいてください」
「どうせ別室で見ていくんだろう?ここで聞いていてくれてもいいのだよ」
「……配役を聞いた後では、そうもいきませんね」

それではまた、次は半年後に来ます、と言って、安吾は部屋から出て行った。電子錠が三度掛かった音のあと、また外界から完全に隔絶された静寂が訪れる。
すっかり耳に馴染んだその退屈な静寂を破ったのは、懐かしい罵声だった。

「オイ!《サーチャー》!いいかげんこの連絡方法何とかなんねえのか!?こっちにも都合があんだよ!」
「やっほー☆ ポートマフィアの重力遣いさん。元気してた?」

暇潰しに作っておいたアバターの画像を通話先の画面に映し、ボイスチェンジャーで声を変えて話しかけると、先方は「何だこれ…」と反応に困っていた。

「これ?可愛いでしょ。九尾の狐をモチーフに美少女でってリクエストで作ってもらったんだよ。政府関係者経由で発注したからビビらせちゃったのかめちゃめちゃ出来が良くてね~。ほら、前回はサウンドオンリーで味気なかったかと思ってさ」

私の動作に合わせて画面の中の美少女アバターが上半身を揺らしたり人差し指を頬に当てて考えている風なポーズを取ったりする。頭の上の狐耳まで時々動いているのが芸が細かい。

「……あっそ。よく分かんねえけどまぁいいわ。例の抗争――ああ、あんた檻の中だから知らねえのか?横浜で異能組織同士の抗争がまた激しくなってきてな、龍頭抗争のときほどじゃねえが、で、その最中にウチの……何だよ?」

先方が依頼の説明を始めたとき、両手を口に添えて首を左右にゆっくり傾げるモーションを繰り返したら、話が中断した。

「えっと……ん~~……こっちが顔を出してるんだから、できたらそっちも顔を見せてお話してほしー……なって……」

ヤバ。私、可愛いのでは?自分の才能がこわい。
先方は「いや、顔出してるったって、あんたのそれは、絵だろ……」と一般人代表のようなコメントを返しつつも、数秒後にカメラオンにして不機嫌そうな顔を見せた。
えっ?こいつ馬鹿では?裏社会の人間が得体の知れない外部協力者にホイホイ顔見せてどうする。……最後に見たときから、髪が伸びたな。

「これでいいかよ。話戻すぞ。その抗争中にウチの古株の構成員と連絡がつかなくなった。どこにいるか分かるか?異能力者の居場所を探知する異能力を持つ、あんたなら」

それが依頼だった。異能力者を探知する異能力者、通称《サーチャー》は確かに数年前までは実在していたが、特務課の管理下に置かれた後、既にこの世を去っている。私は彼の名を騙り、彼に届いた依頼の内容を詳しく聞き出し、異能力者と異能組織の情報を特務課に流すという『お手伝い』をさせられていた。

「うん。分かるよ。でも、他にもいなくなった人、いるよね?その人たちの気配と混じってて分かりづらい。ねえ、いなくなったときの状況をもう少し教えてくれる?」

異能力など使わなくても、古巣の構成員の異能力と組織内での立ち位置は覚えているし、戦闘時の行動を聞けばある程度状況は推測できる。

「ていうか、ポートマフィアの異能力者なのに簡単に捕まったりしすぎじゃない?」
「あぁ?……ハッ、塔の上のお姫様に言われたくねえよ」
「エーン、確かに。あーあ、私いつまでここにいないといけないのかしら」
「なんだあんた、外に出たいって思ってたのか」
「そりゃまあ。出れないけどね、ここは政府の強い人がウヨウヨ見張ってるし」
「……出してやろうか?」

勿論出た後はポートマフィアのためにきりきり働いてもらうけどよ、と彼はついでのように付け加えた。そうしてくれなかったら、見つけ出してしまうところだった。爆弾で跡形もなく吹っ飛ばしてきたはずの感情の居場所を。

残念だけど――と私が言うと、もうマフィアは嫌か?と私を呼ぶときの声音で彼が尋ねたので、髪の長さが足りないからね、と答えて私は、差し伸べられた梯子を切った。

 

2023年3月4日

両親の葬式の日だった。
車の事故で、後部座席に乗っていた俺だけが生き残り、二人の顔は見せてもらえなかった。
死んだと聞かされたとき、俺は泣いたと思う。小学四年生なので、死ぬというのがどういうことかくらい分かっていた。もう会えないし、話せないということだと。
叔父さんの車で病院から帰ると、知らない人が何人も俺の家にいて、勝手に箪笥や食器棚を開けていた。
ろくなもんがない、と舌打ちした男がいた。叔父さんは俺に「お父さんお母さんとの思い出を持っていってもらっているんだよ」と言った。それを持っていかれたら、俺には何が残るんだろうと思ったが、それを聞いていいのか聞ける人がいなかったから、聞けなかった。
その後も大人たちが何をしているのか、一つも分からないままよそゆきの服を着せられて別の場所へ移動させられ、黒い服の人間しかいない建物の中で、お経とお茶と世間話とオレンジジュースを交互に飲んだ。
トイレに行ってくる、と言って廊下へ出た途端、控室から聞こえてくる会話の中に俺の名前が増えた。俺は走り出していた。飲みすぎたオレンジジュースの酸っぱい味が、詰まった排水口のように喉から溢れ出してきた。建物の外に出ると、周囲一帯ぐるりと山であり、車に乗せられて長い時間走って来たこの場所がいったいどこでどうやって帰ればいいのか、見当もつかなかった。スマホもなくしたままおそらく解約されてしまったし、蝉の鳴き声を聞きながら途方に暮れていた時だった。

「……君、中原博士の子供?」

その場に立ち尽くしていた俺に、一人の男が声をかけてきた。俺がいま出てきたこの建物の入口の横に、柱で隠すようにして喫煙所が設置されており、男はそこに立って煙草をふかしていた。

「うん。そうだけど……」

おじさんは誰、と言おうとして、おじさんという呼び方で良いのか迷った。
背丈は自分の父や他の大人たちより少し高いように見えた。くせのある黒髪を整えた様子もなく無造作に下ろし、暑いのかネクタイを首元でゆるめて、シャツのボタンも一つ外していた。そこから覗く白い包帯は首の上の方までしっかり巻かれていて、よく見ると同じ包帯が手首にも巻かれているのだった。それじゃ暑いだろう、と思った。黒い服を着ているから、この人も叔父さんが呼んだ大人たちのうちの一人なのだろうと思ったけれど、さっきまで控室に集まっておしゃべりをしていた他の大人たちとは全然違っていて、子供にしては大きすぎるけど、大人というにはあまりに変で、だからなんて呼べば良いのか分からなかった。

「……たばこ吸うところ、中にもありましたよ」
「知ってるよ。君、その歳でもう吸うんだ。やるね」
「おれが吸うわけないだろ。中の方が涼しいから教えてやってんの」

男の小馬鹿にしたような話し方にむっとして、俺は一応敬語を使おうと思った判断を一瞬で撤回した。
叔父さんも他の大人たちも、控室から時々何人か出て行っては廊下の先にある小さなガラス張りの部屋で煙草を吸っていた。そんな暑そうな格好で外で吸わなくても、この人もあそこで吸えばいいじゃないかと、そう思っただけなのだ。

「それは親切にどうも。でもいいんだよ、もうすぐ見送りの時間だからね」
「見送り?」
「君もそのために来たんじゃないの? ああ、ほら――今、昇っていくよ」

指先で促されるままに頭上を見上げると、快晴の空に薄い水色の煙が一筋、飛行機雲のように昇っていくのが見えた。
それは少しすると白色に変わり、やがて真っ黒になって勢いを増し、もくもくと煙突から噴き出す。なんともいえないにおいが鼻を刺した。
このときの俺は、自分が連れてこられた建物が火葬場という場所だということも知らなかった。
知らなかったけれど、その空を見て、理解した。

「随分と静かに泣くお子様だ」
男がそんなことを言ってきたので、大声出したって変わんないんだろ、と俺は言い返した。
父さんと母さんは死んで、家の中は荒らされて、今まで通りにできることの方がきっと少ない。泣きわめいて周囲にどうにかしてもらおうという年齢は過ぎていたけど、たとえ俺が幼稚園児でも赤ん坊でも、それは変わらないように思えた。

「もう人生おしまいだ~って思ってる顔だね」
「おじさん、子供いじめんのが趣味なの?」
「子供なんていじめて何が楽しいの。それより、ずっと控室で彼らの話を聞いてたんでしょ?君はこの先どうする?」
「……知らない。あの人たちがしてた話なんて、ほとんど聞いてなかったし」
「思考停止かい?博士に育てられたのに、頭が悪いな」
「……やっぱいじわるじゃん」
「でも、容姿はいい。……ね、私の所に来ない?稼げるよ」
「おれ、売られんの?」

いじわるな大人じゃなくて、ヤバイ大人じゃん、と言ったら、今日ここに来てるのはみんなやばい大人だよ、と言って笑った。どういう感情で笑ったのだかさっぱり読めない笑顔だった。

「まぁ、君の人生だ。どのやばい大人についていくかは、任せるよ」

男の吐いた細い螺旋上の煙が、俺の表情を隠した。「お子様」の前だというのに、遠慮なくスパスパ吸いやがるので、さっきから胸に苦い味が溜まっていくような感じがする。
ついていく……?そうか。俺は、あの煙突の煙がすっかり見えなくなったら、誰かについていかなくてはならない。誰かに自分を、委ねなくてはならないのか。
小学四年生で、まだ自分で自分の面倒を見ることもできないから。
そんなの、なにが「君の人生」だよ。俺にはまだ、俺の自由にできる人生なんて存在しないんじゃないか。

「大人はずるいな。選択肢なんてない。どれを選んだって同じじゃん」
「そんなことはないさ。中原博士の弟…君の叔父さんについていけば、どんな暮らしであれ、養ってはもらえる」
「おじ…あなたについて行ったら?」
「私を養うことができる!」
「なんで子供の俺が大人のあんたの面倒を見るんだよ!」
「心配しなくても、人様に言えないような仕事をさせたいわけじゃない。私の知人に劇作家を生業としている朝霧という男がいてね。彼がちょうど君くらいの年齢の『影があって生意気そうな子役』を探しているのだよ。保護者という後ろ盾があるうちに、自分で金を稼ぐ手段を得ておくのは良いことだよ。それだけ早く、支配から逃れることができる。自らの意思で」

それにしてもどんどん口が悪くなっていくね、と男はなぜか嬉しそうな目で俺を見下ろした。やはり背が高い。俺も、大人になったら、同じくらいの背丈になるのだろうか。

「一つだけ教えてくれ」
「いいよ」
「あんたは誰?おれの父さんと…どういう関係だったの?」
「一つだけと言ったのだから、二つは答えられないな。二つ目の質問は、おいおい私の弱みでも握って、聞き出すといい」

その言い草は、俺が自分の手の内に転がり込んでくることを初めから確信しているようだった。

「私の名前は、太宰治。定職にはついてない」
「不安しかねぇんだけど……」
「でも、私のところへ来るだろう?」
「……ああ」

なぜだろう。こんな、今さっき初めて出会った、血のつながりもなさそうな男に俺は、自分の一部を委ねようとしている。
盆や正月に顔を合わせていた親戚よりも、この太宰という男について行く方が、ずっと自然なことのように思えたのだ。

「決まりだね」

太宰が灰皿の上で吸いかけの煙草を揉み消すと、計算されていたかのようなタイミングで、俺たちの前に一台のタクシーが停まった。

「ここからはだいぶ遠いから、眠っておくといい。着いたら起こしてあげるよ」

俺を先に後部座席に乗せ、後から隣に座った太宰にそう言われると、魔法をかけられたように力が抜けてまぶたが重くなった。
車のドアがばたんと閉まって、深い緑の山道をタクシーが走り出す。
まだ途中なのに出て行っていいのかな、と俺が呟くと、もう終わったよ、と言って太宰が窓の外を指差した。
火葬場の煙突から昇る煙は、いつの間にか真っ白な雲のようになって、それも薄く消えゆくところだった。

「よかった……」

両親がいつも着ていた白衣と同じ色だ。そのことに安心し、俺はゆっくりまぶたを閉じて、空からよく見えるよう、窓にぴったり寄りかかって眠った。

 

――八年後。

「太宰!帰らねぇなら帰らねぇって連絡しろって何度言わせんだ手前は!三十にもなって連絡ひとつできねぇのかよ」
「えー、したよ連絡。頭の中で」
「それは連絡したうちに入らねぇんだよ!言い訳が子供以下だぞ。まだ酔っぱらってんだろ、さては」
「昨日は与謝野先生に随分飲まされちゃってさぁ……お風呂入りたい。髪洗ってよ中也~」
「甘えんな。俺はこれから撮影だから、腹が減ったら冷蔵庫ん中のおかずで適当に食っとけ」

じゃあな、と突っけんどんに言い放ってマンションのドアが閉められ、ばたばたと慌ただしく走っていく足音が聴こえた。
撮影の予定が押してるなら、ぎりぎりまで私の帰りを待ったりしなくていいのに、本当に年々犬っぽさに磨きがかかっていく。
それを喜ばしいと思っているのか、腹立たしいと感じているのか、一言では説明できなかった。

「甘えるな、か」

自分の部屋を一度開け、ざっと中を見回してから、中也の部屋のドアを開ける。
昨日、中也が学校から帰ってくる前に自室に脱ぎ捨てておいたシャツがなくなっている。中也のベッドの布団を捲ってみたが、そこにはない。今日はベッドの下にもないようだ。

「洗濯は間に合わなかったみたいだけど……あ、あった」

今日はクローゼットに突っ込んでたかぁ。
彼の衣服を崩さないように取り上げて、鼻先を近づけると、自分の馴染んだ体臭に微かに混じる別の匂い。
中也は私の知人のつてで紹介してもらった役者の仕事にすっかり慣れて、最初は不貞腐れながら私にあれこれ相談してくることもあったがそれもなくなり、ちびっこのくせに時々モデルみたいな仕事も受けて、今ではそのへんの大人よりずっと稼いでいる。
出会ったときに私が話した言葉を覚えているのなら、もうとっくに自らの意思で逃げていいのに、いつまで経ってもそうしない。
中学生になった半ばからだろうか、こうやって私の着た後の服や持ち物をこっそり持ち出して、洗濯してたとか借りたとか言って後で返してくることが増えた。
面白いからそのまま放置していたら、もう三年も続いて立派な習慣になっている。三年も続けていると油断が出るのか、最近ではこうして隠し方も杜撰だ。

「馬鹿な奴……」

自分のシャツをまた中也のクローゼットに戻し、リビングへ行くと、つけっぱなしのテレビ画面に、中也が出ている清涼飲料水のCMが流れた。
今の中也が声をかければ、しゃぶってくれる女の子の一人や二人、見つけるのに苦労しないだろうに。
雛鳥のように一途に私の熱を求めて。
私が全部知っていると打ち明けたら、あいつどんな顔をするだろう。
きっと真っ青になってから真っ赤になって、それからまた青くなって、ああ、想像したらやりたくなっちゃうな。どうしよう。でも。
(馬鹿か、手前。甘えんな)
私が死んでから死ぬって約束も、秒で記憶持ちで生まれ変わって来いって約束も、私のことを忘れないって約束も、全部破った中也が悪い。そんな約束した覚えはないって君は言うんだろうけど、私が約束だよって言えば、なんだかんだで律儀に果たしてきた男だ、これに限って果たせないなんて無しじゃないか。
だから私、中也を作らせてしまった。そして今、中也じゃない中也が、やがて自ら中原中也を完璧に演じるように仕向けようとしている。
胸に吸い込むシガーの煙は、とうに彼の匂いではなくなっているというのに。

 

2023年3月4日

やぁ中也、部屋暖めておいたよ。
私がソファーでくつろぎながら手を振ると、部屋の主人は眉を顰めてため息を吐き、手に持っていたスーパーの袋を二つ、シンクの上にどさりと置いた。

「頼んでねぇよ。ったく…よく殺されずに入って来れたな」
「何言ってるの。大晦日だからって護衛を引き上げさせたのは中也じゃない」

油断してるなぁ、君の首を欲しがっている組織がいくつあると思ってるの。
中也は私の小言をうるさがるように目を逸らし、帽子と外套を脱いでコートスタンドに掛け、最後にうやうやしく真紅のストールを肩から外した。
前首領・森からポートマフィア首領就任の祝いに贈られたストール。中也は森さんの使っていたものが欲しかったそうだが、これから身につけるものにはより気を遣わなければいけないよとやんわり断られて同じ仕立ての新品を贈られたらしい。それを大切そうに扱う中也を非常に面白くない思いで見つめる。
どうやら今年も、あれを燃やせずじまいのまま年を越すことになりそうだ。
分かっている。自分が森から贈られた外套を燃やしたのとは意味合いが違う。現ポートマフィア首領が前首領から贈られた持ち物を、武装探偵社の社員が奪い燃やす。それは組織間抗争の開戦の狼煙でしかない。ただの嫌がらせの後始末にしては負債が勝ちすぎるのだ。
自分から中也への嫌がらせなのに、自分と中也の間だけで完結してくれない。今の中也は、抱えているものがあの頃よりずっと大きくて重い。自分とて、好き好んで探偵社の皆を巻き込みたいわけではない。

ふと、女々しくも過ぎた時代に想いを馳せた。
十代の自分なら、それでも嫌がらせを実行できただろうか。そんなこと知ったこっちゃないと。あれは私の犬なのだからと言って。
あるいは、二人で一緒に暮らしていた二年間。あのときの自分なら、ねぇそれ捨ててよ、嫉妬しちゃうと今なら口が裂けても言えないような本音をさらりと言えたのか。

「勝手に押しかけといて、辛気臭ぇツラ見せてんじゃねぇよ」

ゆったりとした部屋着に着替えた中也が、テーブルの上のリモコンを取ってテレビを点け、居座るんなら手伝え、そろそろ始まっちまうと言ってキッチンへ行った。

「紅白なら七時半からだよ?」
「はぁ? 何言ってんだ、大晦日はRIZIN見るに決まってんだろ。六時からなんだよ」
「げー。普段から暴力三昧のくせに何が楽しいわけ?」
「格闘技と暴力は違ぇんだよ。……ふ、」

懐かしいやり取りさせんな、ばか。
思わず笑ってしまった中也が急に険のない声で言ったので、それ以上「ごっこ」を続けることができなくなり、私は、何を手伝ったらいいの、とシンクの上に食材を並べている彼の隣に立った。

「んー、そうだなぁ…白菜を…いや、蓮根…うぅん…昆布…そうだな、昆布を表面ちょっと拭いて水と一緒に鍋に入れて、沸騰しそうになったら大人の人を呼んでくれ」
「はーい! ……あのね、馬鹿にしすぎでしょ、私のこと」

だいたい大人の人って誰のことさ、と嫌味で言うと、隣に立つ男は「俺のことだよ」と答えながら白菜の芯を切り落とした。もう三十四だ。

「同い年なんだけどなぁ。中也、水ってどのくらい入れたらいいの」
「てきとう……あー、六百くらいかな。このカップで二杯」

言われた通りに、鍋の中でふらふら揺れている昆布を監視しながら、野菜を切り終えた中也が蟹の胴体と足を切り離しているのを、嬉しさを噛み殺した変な無表情で眺める。

「わぁー! 蟹だ! 中也大好き!」と言って彼に抱きつく自分の幻が、湯気の中に一瞬よぎって消える。おい沸騰してるぞ、呼べよ大人の人を。中也がその湯気の中に割って入って、昆布を取り出し、酒やら味醂やらを入れて一度味見してから蟹を投入していく。

「まったく手前は、台所じゃコーヒー淹れるしか能が無ぇんだから」
「コーヒー淹れられるようになっただけ褒めてよ」
「なに甘えてんだ。ほら、次はフライパンの蓮根の監視。焦がすなよ」
「そっちが子ども扱いしたくせに。……これも鍋に入れるの?」
「いや、それは副菜で焼きびたしにする。鍋だけじゃ食感がさみしいだろ」

キッチンから見えるテレビの画面が、何色ものレーザーライトでびかびかと光っている。中也の年末のお楽しみ番組が始まったらしい。中也はちらちらと画面を気にしながら、「最初のカードは流し見でもいいから」と誰に向けているのか分からない釈明をして、白菜と椎茸、焼き豆腐を鍋に入れる。それから菜箸で蓮根を転がしていた私の体にとん、と寄りかかり、横から手を出してフライパンの火を止めた。
こんなことでどきっとして、大人ってこんな恥ずかしいものだったかしら。
IHコンロが収納されている棚を行儀悪くつま先で指して、これ持ってけと指示される。ハイハイとテーブルの上にそれをセットして、そろそろだろうからと、二人分のグラスと中也が冷蔵庫に常備しているピクルスとチーズを出して並べる。

「今日はあれがいい」

そう言われて、白ワイン用のワインセラーから一本取り出し、ラベルを見せてやると、満足そうに口角を上げた。ソムリエみたいに使うなと抗議しないのは、そのワインセラーを開けたら、彼が飲まない日本酒のボトルが三本も揃っていたからだ。

「よし、第三試合には間に合ったな」

最後にせりと残りの蟹を加えて蓋をし、テーブルの上のIHコンロの上にその鍋を置いて弱火の設定でくつくつと煮始めた。

「それじゃ、食おうぜ」

私たちは一つのソファーに横並びに座って、乾杯もせずに、それぞれの酒を飲み始める。生姜と胡麻の味がする甘酢ダレに浸った蓮根は、シャキシャキしておいしかった。そろそろいいかな、と中也が鍋の蓋を開けると、蟹と出汁のいい匂いがふわりと漂い、思わずじっと凝視してしまった私のことを、隣で満足そうに見ていた。

「……ねぇ、紅白見ようよ」
「見ねぇって。手前だって普段から歌番組なんて見ねぇだろ」

どうしてだろう、ちょっといじわるしたかった。あまりに中也の部屋が、隣にいるのが、心地よくて、中也のごはんがおいしそうで、少しかなしくなったんだ。
君をさらって、毎日こうしていられないのはなぜかな。
自分たちがそれを望んでいるのに、許してやらないのも、また、自分たち。

「……じゃあ、石川さゆりが出たらチャンネル変えて」
「……は? なん、なんで?」

びっくりして変な口調になった中也に、さて何と返したものかと一秒で考える。
たぶん彼女なら今年の紅白にも出ているだろうってことと、たぶん大御所だから後半に出番があって、格闘技も人気選手の対戦は普通は後半に組まれているだろうから、中也の邪魔をするには丁度良さそうだと思った、実際の理由はそれだけなのだが。

「……なんでって? 別に…好きな歌手がいたらおかしい?」
「好きな歌手? 初めて聞いたぞ」
「君に話してないことくらいあるさ。……似てるんだよね、ちょっとだけ」

母親に。そう言ったら、中也は一瞬だけ目を見開いて、信じられないくらい下手な演技で「ふーん、あっそう」「手前も人の子だったなぁ、そういえば」と言いながら、右に座っている私からは見えないように左手でスマホを操作し始めた。絶対に今「紅白 石川さゆり 時間」で検索している。現金なもので、たちまち気分がよくなった。

「ねぇ、中也」
「なんだよ」
「蟹、おいしい。ありがとね」
「なっ…大丈夫か手前、また変な異能にかかったんじゃねぇか」
「大晦日だもの。少しくらいは素直になるさ」

蟹すきと、お酒と、「おーっとここで流れるようなタックル! 不屈! 不屈の闘志です!」…なんか暑苦しい実況と、たぶん満腹になって夜も更けたころに懐かしの演歌が聴ける。
大晦日に部下を働かせたくないこのちびっこボスは、毎年楽しみにしているくらい好きなこのイベントを現地会場に見に行くことはしないのだろう。日付が変わっても、私と二人だけじゃ初詣にも行かないかな。私といること以上に、安全なことなどないというのに。

「……なぁ、太宰」

石川さゆりの出番は調べ終わったのか、中也の左手は赤ワインの入ったグラスをくるくる回している。新年になる前に潰れるんだろうな、どうせ。

「なぁに?」
「部下たちは休ませたが、俺は今日も働いてた」
「ああそう、おつかれさま」
「明日は一切仕事しねぇ。本部が襲撃でもされねぇ限りは、一日オフだ」
「……その心は?」
「明日はどこか出かけようぜ。で、手前は俺の後にこの部屋へ入る。久しぶりに、ただいまぐらい言って入って来いよ」
「……だいじょうぶ? 中也」

蟹で頭こわした? と尋ねると、こわすなら腹だろ、と律儀につっこんで、そういうわけで、決まりだ決まり、あともう一つ、と勝手に次の話題へ進む。

「手前が嘘から生まれた嘘太郎なのはもうとうに諦めてるが、さっきみたいなのはやめてくれよ」
「嘘太郎て。…気づいてたの?」
「何年一緒にいると思ってる。…だから、ああいう大事なことは、知らなかったと思うと嫌というか、ちょっと…さみしいだろ」
「蓮根の副菜の存在理由と同じじゃん」
「気づいたか」

なきゃないでいいが、ないとつまんねぇだろ。そう言って今度は遠慮なく全身の体重を私に預けた。目の前のテレビ、消したら怒られるかな。怒られるんだろうな。
中也が酔いつぶれる前に、そういう雰囲気に持っていけるだろうか。
何年も一緒にいすぎて、今更そんなことで悩む。

「明日私がただいまって言ったら、ちゃんとおかえりって言ってよね」
「おー、まかせとけーい」
「軽っ! もうだいぶ酔ってるじゃん!」

もし君が、明日私と初詣に行ってくれたなら、あのストールが自然発火してくれるようにお祈りしよう。
そして肩の荷物を下ろした君と、新しい年を暮らせますように。

 

2023年3月4日

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2023年3月4日

 すきな子が、自分のことをすきじゃない。
 それがこんなに腹立たしいことだとは知らなかった。
 太宰は、余計な知識を増やすことが嫌いで、それらを一つも忘れることのできない自分のことはもっと嫌いだったが、これほど知りたくなかった事実ってないよなぁ、と思う。
 
「なに見てんださっきから。金取るぞ」
「お金? あるよ、ホ別五万でいい?」
 
 は? ほ? と怪訝な顔で聞き返す、何も知らない少年。
 人間社会に出てからのキャリアは小学生みたいなものだもんな、と思いながら、「人間」になる前の彼はどんな形をしていたのだろうと、肌の奥の奥、きっと熱くて、誰にも見せたことのない場所を想像する。
 
 何も知りたいことのない私の前に、荒神という面白すぎる存在が現れてくれたのに、その神様は馬鹿で乱暴で能筋で背が小さくて無駄に顔が可愛い。そしてすごく鈍感だ。
 
「……お賽銭あげたら、言うこと聞いてくれるかなぁ」
 
 いいぞ、と間髪入れずに答えがあった。
 青い瞳が、私を覗き込んでいた。