ゼロ感のお隣さん
ほぅら、やっぱり悪霊なんて出ないじゃないか。
向かいのマンション工事の騒音で目が覚め、手元に置いておいたリモコンでリビングの明かりを点けると、私は寝袋からごそごそと這い出した。時刻は十時。よく眠れた。
キッチンに残されたままの元住人のやかんでお湯を沸かし、昨夜コンビニで買ったドリップパックのコーヒーを淹れて、ああ紙カップの付いているやつにしておくんだったと思いながら、食器棚からブルーのマグカップも拝借した。一応軽く洗ってみる。
まったく、いつからこうなったのだろう。
森さんの事務所で働いていた頃も、独立して開業した当初も、そこそこスリリングで頭を使える事件の依頼を受けてきた。事務所時代に織田作という気の合う友人もできた。銀行員、SE、タクシーの運転手(これが一番向いてなかった)、などなどの職業を転々としてきたが、この探偵という仕事はどうやら他より退屈しなそうだ、そう思ってあのロリコン親父の元で真面目に勉強し、独立までしたというのに。
三年前、政界のある重要人物が自らの所有する屋敷の一つで割腹自殺した。が、この事件が自殺なのかとか他殺なのかとか犯人はおまえだとかそういう依頼が来たわけではない。その事件から二年半、親族が屋敷を片付けようにも、屋敷に足を踏み入れただけで怪現象(笑)が起こり、入った人間が身体的あるいは精神的不調をきたすということが続いた。そちらが本題だった。
早く屋敷を更地にして現金化したい親族たちは弁護士や霊媒師や我々のような何でも屋的な連中にまで方々に相談したが、なにせ超が付くほどの権力者の屋敷、下手に関わってポカしてキャリアに傷を付けたくないと、大手から中堅へ、中堅からこいつ誰?という具合に、長いタライリレーが行われ、最後に森さんからタライを受け取ったのが私だった。
私は昔から、幽霊や超常現象の類を一切信じていない。すべての事象には原因がある。だからこのときも、しばらく泊まり込んで調査をすれば、地盤の歪みとか地下からガスが漏れてるとか音波とか電波とか何らかの原因が見つかるだろうと思い、とりあえず一晩泊まってみたのだ。
すると、翌朝に様子を見に来た親族たちが、おじさんの霊がいなくなってる!と大騒ぎしたのである。私は他人の家で寝て起きただけで高額の報酬を受け取ることになった。
そのときの一件に尾ひれが付いて、知らぬ間に「心霊探偵太宰治」などという少年漫画のような恥ずかしい二つ名で呼ばれ出し、ワケあり物件に泊まってくれ、というだけの依頼がめちゃめちゃ増えてしまったというわけだ。
「いいかげん飽きてきたよね…ねぇ、そう思うでしょ?一家心中の幽霊の皆さん」
コーヒーを片手にそう話しかけてみたところで、当然返答はない。
この物件にはしばらく住んでもらって構わない、そうすれば次の人にワケあり物件だと言わずに売れるんでヘッヘッヘ、依頼人はそんな不動産事情を勝手に喋っていたが、だとしたらもう事務所兼住居を引き払って、探偵もやめちゃおうかな。例の依頼の報酬で銀行からの融資も全部返せるし。
そうだ、お金あるんだし織田作でも誘って遊びに行こう、ぱっとそう思い当たり、昨日脱ぎ捨てた靴下をまた履いて、顔だけ洗って外へ出た。
隣の家の前に、引っ越し屋のトラックが停まっている。誰か越してきたのか。たしか隣は空き家ではなかったはずだが…。そう思い、荷物が運ばれる様子を眺めていると、玄関から出てきた学生服の少年と目が合った。
「うわっ…ここに住んでんのかよ、マジか…」
陽のような色に髪を染めたその少年は、心底驚いたという表情で私を見て、そう言った。そして、ふいと視線を外し、「危ねぇぞ」と呟く。
「あぶない?何がーー」
大気を裂く音を立てて、何かが私のすぐ鼻先を横切った。
ゆっくりと目を向けると、私の左足すれすれの地面に、2メートルほどの金属棒が突き刺さっている。向かいの工事現場の上方から、数人が大騒ぎしている声が聞こえてくる。
「引っ越してきた日に家の前で死なれちゃ困るんだよ、呪われてるオッサン」
「な……」
「何だよ、気付いてねぇのか?今は助けてやったけど、明日にはアンタ死んでるぜ」
「オッサンって私のこと!?私、まだ22歳なのだけど!!」
「いやそこじゃねぇだろ!!」
この少年との出会いによって、悲しいことに私は、あの恥ずかしい二つ名に相応しい事件にますます巻き込まれていくことになるのだった。