ワイルド・ハスキー

 蜂の巣にしてやったぜ! とどっかの部隊のなんとかっていう構成員が大声で吹聴していたのを偶然耳にした後だったからだろうか。
 定期清掃のスタッフとほぼ入れ違いに自分の執務室に入って来た中也の顔がぱんぱんに腫れ上がっていたのを見て、思わず「ハチに刺されちゃったイテテ…?」と、手元の携帯ゲーム機で遊んでいたあつ森の自分と同じ台詞を言っていた。
 中也は持参していた書類を僕が座っている机の上に置いて、その書類の隅を指差し、「ん」と一言だけぶっきらぼうに言った。判子を押せ、ということらしい。

「こりゃまた、派手にやられたねぇ」

 左目はまぶたが腫れて重く垂れ下がっており、ほとんど見えなそうだった。右目の周りにも暗い紫色の痣が広がって、白い頬の上に模様を浮き上がらせている。
 ちょいちょい、と指先で手招きして、不格好に歪んだ顔の輪郭に触れる。腫れた部分は軽く触れただけでも痛みを感じるらしく、中也は眉を釣り上がらせて唇をぎゅっと噛み締め、トントントンと机上の書類を叩いて判を急かした。

「唇も赤くなってる。話すのも辛いのだね」

 どれどれ、と僕はゲームを放り投げて書類をつまみ上げ、ざっと目を滑らせた。

 組織に入って一年経つか経たないかというある日、森さんからこの執務室と面倒な雑用を押し付けられた。それまでは首領宛てに提出されていた書類のうちの一部が、彼に渡る前に一度僕のところへ集められるようになった。作戦の報告書や、必要な武器や人員調達のための承認依頼、内緒のタレコミなどなど。
 必要なものだけ回してくれればいいから、と森さんは言った。そんなこと言ったら勝手にぽいぽい捨てちゃうよ、と暗に断ったのだが、構わないよ、とあっさり言われてしまい、結局こうして机の上に日々マフィアの大事な書類が積み上げられていく。
 彼が自分にこんな事務員の真似事を頼むのは、単純に業務効率化のためとかではなくて、シェリングやキッシンジャーの本を押し付けてくるのと同じなのだろう。マフィアの人間として僕を教育しようという意図だ。
 そこまで理解できてしまうゆえに、ますます憂鬱な仕事である。
 そろそろマフィア辞めちゃおうかな、と思いながら離島でみしらぬネコを探していた時、満身創痍の相棒が入ってきたのだった。

「なるほど。僕を作戦立案に引っ張り出したいっていう申し立ての書類かぁ。これの提出を面白い見た目になった君にやらせるってのはなかなかイイ線いってるよ」

 こんなご機嫌取りを思いつくなら自分で作戦立てたらいいのにねぇ? と話しながら、つい一、二時間前に別の構成員が提出に来た作戦報告書を、紙の束からジェンガのように引きずり出す。中也が参加していた殲滅作戦の報告書だ。

「ふぁあふひろ、くぁす」

 僕が別の書類に手を付けたのを見て、中也が苛々した様子で抗議する。顔の左半分が膨れ上がっているので、うまく発声できないようだった。

「あれ? この作戦のリーダーの人、さっき清掃のお姉さんに追い出されてた間に廊下で見かけたなぁ。『蜂の巣にしてやったぜ~!』って大層ご満悦だったけれど」

 二枚の書類を指先でひらひら遊ばせながら椅子からソファへ移動すると、「おい!」とくぐもった声を上げて、中也は座っている僕の前に仁王立ちになった。

「そんな見張らなくっても、判子は押すよ。……ふーん、敵組織の殲滅は大成功、こちらの負傷者はゼロ、って報告されているけど、だったらどうして君はそんなボコボコにされているのだろうね」

 手を掴んで引き寄せたら、その手にはかすり傷ひとつ付いていなかった。中也が抵抗をしなかった証拠だ。
 僕は一度読んだ書類の内容は全て記憶している。この殲滅作戦の当初の計画書には、囮として一人の構成員を敵アジトに先行させること、その構成員が殺害されることが前提の工程が書いてあったが、報告書からはその部分の記載が削除されていた。
 囮に選ばれていた構成員の名前は中也ではなかった。
 そして、出るはずだった負傷者は出なかった。

「囮役を助けに行って、計画を台無しにしちゃったんでしょ」
「…………」

 中也は答えずに、目を逸らした。

「君なら囮なんて使わなくても目的を達成できた。実際、君のアドリブ演奏でライブは大成功。そりゃあ、プロデューサーさんは面白くないよ。馬鹿だね、中也」

 変更された計画で大規模な殲滅作戦が成功したとあっては、元々の作戦立案者は無能の烙印を押され、計画を変更した若手が評価されることになるだろう。だから報告書を都合良く改ざんし、中也を痛めつけて口外を禁じた。

「ねえ、判子は押してあげるからさ、キスしてくれない?」

 中也が呆れた顔で僕を見る。「この顔で?」と言いたげな表情だ。
 片足をソファに乗り上げて、中也は僕を見下ろした。僕は書類をテーブルに放り、彼の腫れた頬にそっと手で触れる。
 頬の皮膚は熱を帯びて全体的にピンク色になっており、腫れた部分には細かな傷がいくつも付いて、そこから血と透明な体液がにじみ出ていた。
 口角も切れていて、瘡蓋ができている。口付けると、ぷちゅんと潰れて、血が流れた。少し沁みたのか、中也がかすかな声をあげる。その開いた口に、受け取ったばかりの赤を返す。舌で舐め取ると、鉄の味がした。
 いつも薄くてやわらかかった唇は、腫れ上がって葡萄の実みたいに弾力があった。
 歯は無事だな、と舌で歯列を確かめながら、真っ赤に濡れた口内を味わう。

「っ、あ、ふ」
「ん……血なまぐさいね」
「あ…んあら、やえ…っ」

 文句と一緒に突き出されたベロに自分のそれを擦り合わせて、くちゅくちゅと水音を響かせる。奥まで自分の舌を差し込むと、苦し気に仰け反ろうとしたので、腰を捉えてぐっと躰を密着させた。

「ん、ん、ふっ…! だ、じゃ、」
「血だらけで舌ったらずで、まるで今生まれてきたみたいだね。ベイビーちゃん」
「っぷは、…っざけ、……ふ、ァ…」

 じゅっと音を立てて舌を吸うと、中也は右目をとろんと揺らして僕を見つめた。
 自分に向けられる青色がいつもよりも狭く感じる。左目がほとんど開いていないせいだろう。それが残念で、なんだかひどく腹立たしく感じた。
 イイ線いってるとは言ったけど、正解には程遠いんだよな。
 自分がひとつも絡んでないことで、傷ついた犬の姿を見せられたってさ。

「中也はさ、僕の犬だっていう自覚が足りないよ」
「ゴホッ…いぶひゃ…でえって……」
「あははっ、汚い声」

 好き勝手舐め回したので、口の中の傷が開いてしまったらしい。中也が喋りにくそうに咳き込んで口を覆った手の平に、血の混じった唾液が付着していた。
 躰を密着させたまま中也の首筋に顔を埋めて、すんと彼の匂いを嗅ぐ。なんとなく気が向いて、首筋に吸い付き痕を付けると、慌てて躰を離された。

「ねぇ、そろそろ抱かせてよ。中也ァ」
「らめら。十八ひなるはれ待てっつっふぁろ」
「それ、姐さんの入れ知恵でしょ? マフィアにあらざる貞操観念だよ。半分は親バカ、もう半分は僕に対する嫌がらせで言ってるんだって」
「っハ、てふぇえの、っやがらせにあんなら、さいほーらぜ」
「言えてないよ」

 言えてないのに何言ってんだか分かっちゃうのは、それだけ普段の中也が分かりやすい言動をしているということだ。分かりやすいから、こうやってナメられる。

「……十八かぁ」

 じゃあ、十八歳まではマフィアにいようかな。

「おい、だじゃい。はやく」
「ああ、うん。もっとしようね」
「そうじゃね…っ! ……っ、ひゃめ、はんこだ、っふぅ、ン」

 僕は、その日が来るのを妄想する。唇だけでなく、中也のありとあらゆる場所を貪り、快楽を注ぎ込んで、言葉も理性も奪う。
 楽しみだな。こんなぼやけた音じゃなくて、もっと、もっと、ハスキーな。
 僕の犬の鳴き声を、ベッドの上で聞く夜が。