2023年3月4日

 ああ、そういえば今日は太宰君のお誕生日だねえ。
紅葉姐さんの使いで任務の報告に出向いた折、首領の森は万年筆で机上の書類に今日の日付を記しながら、そんな言葉を漏らした。

「あの野郎にも誕生日なんてもんがあるんですね」
「そりゃあ今ここに生きているのだから、生まれた日は存在するよ。彼も人の子だ」

 君は四月だったかな、と言って返された書類を恭しく一礼して受け取る。
そういや四月と書いたっけか、と、言われて自分の誕生日が四月二九日であると思い出した。
ポートマフィアに籍を置くに当たって、最初に数枚の書類を書かされた。そこには生年月日を記入する項目があったが、幼少時の記憶がなく、おそらく女の胎から産まれたわけではない自分には誕生日など聞かれても分からない。とりあえず、『羊』に拾われた日であり、暫定的にその場所で自分の誕生日ということにされていた日付を書いて出した。どうせ形式状のもので追及されることもないだろうからと。蘭堂との一件の報告を受けている首領なら当然それを知っているはずだが、太宰君より少し早いのだねえ、などと、まるで俺も普通の人の子であるかのように話を続ける。
首領の考えは自分には読めない。首領自身は私と太宰君はよく似ているなどと言うが、自分にしてみれば、太宰の方がまだ分かりやすいと思う。
いっそ芸術的なまでに裏の裏まで張り巡らされた罠の全容を事前に暴いてやれたことは一度もないが、太宰の顔を見ていれば、靴音に耳をすませば、また碌でもないことを考えて勝手に機嫌を損ねてんだなとか、珍しく興味の引かれる出来事があったんだなとか、今日はこの後、最近できたらしい友人と会うのだろうなとか、なんとなく分かるのだ。
太宰の部下は揃いも揃ってあいつを怖がり、何を考えているか分からないからと遠巻きに指示待ちの連中ばかりだが、俺にはなぜこんな簡単なことも察せられないのか分からない。俺だって、性分としては人の顔色を読むのは苦手な方だ。紅葉の姐さんからそういった手管も身につけよと言われて目下練習中ではあるものの、太宰と組むときにはそういうチマチマしたことはあいつに任せて、俺は伸び伸びと暴れさせて貰う。
太宰は俺をそういう風に使うし、俺もまた、太宰が自分に何を期待しているのか、言葉で説明されずとも理解できてしまうのだった。そんなものだから、あいつの意図を汲めないと嘆く奴に対して、俺が助言できることは何もない。

「……中原君、どうしたね? まだ私に報告したい事でも?」
「は…いえ、申し訳ありません。報告は以上です」
「紅葉君の留守の間、よく彼女の部隊を纏めてくれたねぇ。でも、少し働かせすぎてしまっただろうか」

 そんなことは、と慌てて首を振る。
よりにもよってあの青鯖のことなんかを考えて一瞬ぼうっとして、首領に気を遣わせてしまった。俺としたことが酷い失態だ。

「そうだ、中原君、きみ明日から休暇を取りなさい。暫く休み無しだったろう? 紅葉君も京都に一泊してから帰ると先刻連絡があった。そうだねぇ、一週間くらい休んで、少し遊んでおいで」

 遠慮しようと開けた口は、しかし「紅葉君を見習いなさい。日頃優秀な者ほど、余暇を疎かにしないものだ」と言われてしまうと、はいとしか吐き出す言葉がない。一礼して首領の居室を後にした。

 

「いきなり暇になっちまったなぁ…」

 一週間か。遊んでおいでと言われたものの、今何かしたいことはあるかと問われれば、久しぶりに目一杯暴れてぇ、の一択である。紅葉の姐さんがほんの数名の部下だけを連れて西方の任務に赴き、その留守の間、残りの部下が担当している別の任務の助太刀と、それらに関わる書類仕事に追われた。慣れないことをしたからストレスが溜まっていた。
かといって、任務でもない所で目立つ喧嘩をすれば自分の上司である姐さんに迷惑がかかる。帰還の予定を一日送らせて余暇を取ったのも、俺に留守を任せられるという信頼の証だろう。それを裏切りたくはない。
仕方ない、温泉にでも行って酒浸り風呂浸りのデカダンな休日を過ごすとするか。未成年では何かと不便だろうからと、架空の二十歳の男の身分を使えるようにして貰っている。行先はどこにしよう、伊豆…いや、一週間もあるのだからもう少し遠出してみるのもいい。我ながら現金なもので、具体的にプランを考え始めたらやや気分も上がってきた。
自分に与えられている居室のソファに寝そべってスマートフォンの画面を指で叩く。鼻歌を歌いながら温泉宿の候補を検索していると、不意にある広告が目に止まった。

『誕生日で分かる相性占い! 運命のパートナー』

「相性占い、か…あったな、そんなこと」

『羊』に居た頃のことを自分は極力思い出さないようにしていた。仲間に裏切られて傷ついたから、ではない。今の自分は、この組織と組織の長である森鷗外に全てを捧げると誓った。過去の居場所に思いを巡らすのは、その誓いに対して不義理であるように思うのだ。
しかし先刻、自分の誕生日の話題を引き金にあの頃の思い出がフタを開けて出て来てしまった。羊の王などと呼ばれ、ただ周囲に求められるままに力を振り回していた頃のこと。俺の側にはいつも、俺にとっての特別な位置に座ろうと擦り寄ってくる奴等がいた。男は俺の親友を名乗りたがり、女は俺の恋人を名乗りたがった。気味が悪くてその手の奴とは距離を取っていたら、そいつら同士で勝手に争い、勝手に和解し、勝手に俺を逆恨みしていた。理不尽な話だ。
そのうちの一人が持ちかけてきたことだった。中也、私たちって相性一〇〇%なんだって、と言いながら。

「どうすりゃいいんだっけかな…確か、誕生日を並べて、数字を足して――」

 最後に見ていた東北の温泉宿をもうここでいいかと予約してしまってスマホを放り、応接机の上に適当なメモ用紙を広げ、ボールペンのキャップを口で噛んで開けた。いつぞや教えてもらった記憶を引っ張り出し、今日の日付と、俺の記録上の誕生日とを足したり掛けたり、引いたり割ったりした。出てきた数字は、

「相性二〇〇%…」

 っておいおい、一〇〇超えんのはナシだろ。なんつういいかげんな診断だ、それとも、自分のやり方が間違っていたのかと、さっき放り投げたスマホを拾い、相性占い、誕生日、計算、などの思いつくワードを入れて検索してみる。すると自分が教わった診断方法を紹介しているサイトを首尾良く見つけたが、なんと驚くべきことに相性二〇〇%は普通に存在していた。

『息ピッタリ! 二人の間に言葉はいらない♡男女の仲を超えた運命のパートナーです!』

 そんな煽り文句付きで。
男女で診断すること前提なのか、まあ…そりゃそうかと思って、つうか俺は何をやっているんだと急に我に返って恥ずかしくなった。あいつと俺の相性なんて調べなくても最悪に決まっているだろうが。
二〇〇%があるんだからどうせ五〇〇も八〇〇もあるんだろうとそのサイトをスクロールしてみるが、二〇〇%が最高値のようだ。一つだけお巫山戯の要素を入れてみたというとこだろうか。
自分の部下からも遠巻きに見られているようなあいつでも、世界中探せば相性の良い奴はいるんだな。いや、誕生日が四月二九日であれば良いのだから、組織の中にも十人以上はいそうである。
俺は、なんだか急に、自分の誕生日が偽りのものであることを残念に感じた。本当に俺がこの日に生を受けた人間であったなら、これをネタに日頃の厭がらせに対する仕返しの一つもできただろうにと。

「……やめだやめ、くだらねぇ」

 俺は再びソファの上にごろりと転がり、もうこれ以上、昔の映像がよぎることのないように、左手の甲で両目を覆った。

 どれほどそうしていただろうか。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。首領の言う通り、自分は少し疲れているのかもしれない。
目が覚めたのは、廊下を歩いてこちらに近づいてくる靴音が聞こえたからだった。
――太宰だ。
なんだあいつ、だいぶ苛々しているな。

「ねぇ君達、僕の犬はどこ」

 隣の部屋は姐さんの執務室だ。彼女の不在時にもその前の廊下には常時二名の構成員が控えている。最近、歴代最年少で五大幹部の一柱に据えられた太宰は、「あいつは新首領の愛玩人形だから贔屓されているのだ」などと負け惜しみの醜聞の的にされることもなくなり、代わりにその異常な頭脳と冷酷さから、マフィアになるために生まれてきたような男だと恐れられるようになった。どちらも、あいつにとって不本意な噂に変わりないのだろうが。
つうか犬って俺のことだよな? よし、殺そう。

「はっ! 中原さんでしたら、隣室におられますが」

 いや待てよ普通に俺だと思って答えてんじゃねえ。あいつらも後でぶん殴る。

「そう。紅葉さんは? 帰還予定は今日だったよね」
「尾崎幹部殿は、一日休暇を取られて、明日お戻りになられるとのことです。至急のご用件でしょうか」
「えぇ…そうなの? 明日の作戦に中也を使いたいから態々来たのに無駄足じゃないか。抑も、僕が僕の犬を散歩させるのにどうして他人の許可を取らなくちゃいけないんだろうね。理不尽だ。君、ちょっと姐さんが戻ったらそう言っておいてよ」

 そんな、とか、無理です、と外にいる二人が太宰に困らされている声が聞こえてくる。助けに行ってやるかと起き上がろうとしたら、奴の靴音はその場から離れ、俺の居室の方に近づいてきた。
きぃ、と静かに扉が開かれる。ノックくらいしろよ、と言ってやりたかったが、俺は太宰が部屋に入ってきた瞬間、つい反射的に目を閉じて、ソファに寝転んだ体勢のまま寝たふりをしてしまっていた。

「……中也?」

 寝ている人間を起こすには心許ない声量で名を呼ばれる。太宰の手がソファの背凭れに触れた、その微かな音が聞こえた。
くそ、目を開けるタイミングが掴めない。呼ぶならもっと大声で呼べよ馬鹿野郎。
作戦がどうとか言ってやがったな。もう宿は予約しちまったし俺は明日から休暇だ、残念だったな。などと言ったらまた妙な厭がらせをしてきやがりそうだし、このまま寝たふりを貫いてやり過ごそうか。
そう思った俺は、規則的なリズムで呼吸をするように意識した。太宰は暫し沈黙した後、俺が横たわっているソファと応接机の間に歩み寄って来た。おいおい何だよ早く出て行け、と表情筋が険しく変化してしまいそうになるのを必死に堪える。
ソファの隅に放っていた俺のスマホを太宰が拾った。こっそり薄目を開けて見上げると、画面に指で触れながら顔面を硬直させている。ロックが解除できないんだな。指紋認証にしておかなくて正解だった。

「何これ、温泉旅館? 生意気~~中也のくせに」

 なんで解除できんだよ! どういう頭してんだ手前は! と叫び出しそうになるのをぐっと堪えた。ここまで来れば意地だ。

「成程ね。姐さんが一日帰還を遅らせて、入れ違いに明日から休暇を貰ったわけだ。森さんはちょっとこの犬に甘すぎるよね」

 手前が言うな。首領がこいつを自分の右腕として重宝していて、だからこそ多少の我儘は聞いてやっていることを、いまや組織内の誰もが知っている。

「休暇じゃ仕方ない。中也も爆睡していて面白くないし、帰ろうかな」

 おお、帰れ帰れ。帰り際に滑って転んで不発弾を掘り当てて爆発して死ね。

 太宰は俺のスマホを元の位置に戻し、それから――応接机の上に出しっぱなしにされていた一枚のメモ用紙をひょいと取り上げた。

「…おやぁ? 何だろうこれはー、見たところ何かを計算したメモのようだけどー」

 …………あっ。

 おあああああああああああ!!

 首筋から冷や汗が噴き出るのが分かった。やべえ! なんでこいつが部屋の前に来た時点でアレを捨てておかなかったんだ俺の馬鹿!

「自分の頭の悪さを嘆いて算数ドリルでも始めたのかな? この左の数字は今日の日付みたいだけど、右の〇四二九というのは何だろう」

 いや、待て、まだ慌てるような時間じゃない。もし太宰がアレに書かれた数字の一つは自分の誕生日だと気付いたとしても、もう一つの数字には見当が付かないはずだ。

「〇四二九…四月二九日…? そうか、中也が『羊』の一団に保護された日だね」

 もう~~何だこいつ怖え~~。
そうだった。こいつは幹部になったから、蘭堂が遺した資料を閲覧することができる。それで知ったのだろう。くそ、別にこいつが読んだって何の得にもならない資料だろうに、大方、俺が読みたがっているのを知っていて、それも厭がらせの心算なのだろう。

「…ふふ、なんでこんな計算をしたんだろう」

 太宰がメモ用紙を机の上に戻したのを見届けて、俺は心中でひたすら安堵し、薄く開けていた瞼を再び閉じた。あの計算の目的と、紙に書かれた『二〇〇%』の意味さえバレなきゃ重畳だ。
さあ、後はこの阿呆が出て行ってくれるのを待つだけ――と思った時、頬にすっと冷たい手が添えられて、それから唇に柔らかい感触が触れた。

「んっ……」

 それが太宰の唇だということはすぐに分かったけれど、こんな行為に対する暴言の用意は無かったので、俺はどうすることもできず、されるがままに口付けを受け入れていた。
その反応は太宰にとっては正解であったようで、零に近い距離で、ふ、と吐かれた吐息は笑っていた。一度目はただ重なって離れたそれは、二度目は下唇を食まれ、三度目に舌で歯列をこじ開けられて、四度目にこちらの舌を探り当てられ、飴玉のようにしゃぶられた。思わず、ずく、と生理的に腰が重くなる。

「……おい、離れろ太宰」
「やあ、やっとお目覚めかい? 中也」
「巫山戯んな。独り言が多いんだよ手前、初めから俺が起きてるって気付いてたんだろうが」
「まぁね。だってこの犬ときたら、飼い主が態々散歩に連れ出そうと小屋まで来てあげたのに、狸寝入りなんてするのだから。…少し厭がることをして、罰を与えてあげたのだよ」
「厭がらせに体張りすぎだろ……」

 そうなのだよ、ほら見て鳥肌、とスーツの腕を捲って見せてくる。包帯で見えねえよ馬鹿。

「散歩な…別に構わねぇが、そいつは手前んとこの犬が満足できるような遊び場なんだろうな?」
「勿論。休暇中でもついつい立ち寄って遊んで行きたくなるような絶好の鉄火場だよ。中也と私なら、昼までには終わる。バカンスには間に合うよ」
「あーあ、休日出勤だぜ。手当は弾めよ、幹部サマ?」
「いいよ。君が予約してる宿、二人分全部僕が持ってあげる」
「おー、そいつは良い……二人分?」

 がばっと起き上がってソファの上のスマホを鷲掴み、宿の予約画面を確認すると、いつの間にか予約人数が二名に変更されていた。ついでに部屋も自分が取った部屋より数段上のグレードの部屋に変えられている。

「おいおいおいおい! 手前まさか付いて来る気じゃねぇだろうな!? 誰が手前と温泉旅行なんて行くんだよ! 休まるもんも休まらねえだろ!」
「僕だって厭だよ! でも中也への厭がらせには全力を尽くす、手は抜かないって決めているんだ…」
「手前はもっと別の方面にその本気を使え! クソ! 今からでもキャンセルして――」

 俺が怒鳴り散らしながら宿に電話を掛けようとすると、手からするりとスマホが盗まれ、太宰がそれを頭上に掲げながら言った。

「ねぇ、中也。今日はなんの日でしょう?」
「……手前なぁ」

 誕生日にプレゼントを強請って許されんのは普段からいい子にしてる奴だけだっつうの。手前みたいな悪魔が生まれたことを祝ってもらえると思うなよ。
太宰君も人の子だ、と首領が言った言葉が、憎らしくもまだ自分と同じ少年臭さの抜けぬ風貌に重なる。チッ、と聞こえるように舌打ちをしてやった。

「……わあったよ。言う通りにしてやっから、作戦の時間と場所を言ってとっとと出てけタコ」
「明朝。場所は向こうの出方によって変わる。中也は夜明け前に私の部屋まで来ること、いいね」

 はいはい、と片手をひらひらさせて応じると、太宰は俺のスマホを投げ返し、それじゃまた後で、とだけ言って漸く部屋を出て行ってくれた。革靴の踵が床を鳴らす音が廊下から聞こえ、徐々に遠ざかっていく。
かつん、かつん、というその軽妙なリズムに耳を澄ませながら、俺はもう一度ソファに深く体重を預け、目を閉じた。

なんだあいつ、機嫌直ったじゃねえか。

 

2023年3月4日

ああ~~~~~……つまらない。つまらないつまらない、面白くない、退屈だぁ!
探偵社のソファにだらりと身を投げ出してそんな遣る気のない声を上げても、国木田が彼を咎める気配はなかった。
なぜかと言うと、その声を発したのが私――太宰治ではなく、この探偵社が探偵社として機能している所以である存在、名探偵・江戸川乱歩であったからだ。

「そんな…退屈どころかいつもの百倍忙しいくらいですけど」

手伝ってくださいよぉ、と敦が縋るような目を向けたが、乱歩は「やだね! 不貞行為の仲裁なんて名探偵の仕事じゃない!」と言って両手両足を大の字に投げ出し、全身で拒否した。

「乱歩さんの言う通りだよ。浮気トラブルの相談なんて、我々『武装探偵社』の領分じゃあない…そういうのは普通の探偵社か、痴情の縺れから荒事になったとしたって民警の出張る仕事だ」

だが、こと異能の絡む案件となれば少々話は変わってくる、と私は付け加えた。
会話をしている間にも、一人また一人と新たな依頼者が扉を叩いて入ってくる。男も女も年齢も様々だが、相談内容はきっと同じだろう。「浮気して相手を怒らせてしまったが、自分にはなぜそんなことをしてしまったのか分からない」とまあ、口上だけを聞くならば庇いようのない案件だ。
この依頼ラッシュは今朝に始まり、二人目三人目までは事務員の女性陣も「そのようなご相談は他所へどうぞ」と冷たく玄関先であしらっていたのだが、四人目五人目と続いて流石に何かおかしいと感じたのだろう、ただの偶然なら申し訳ないのですが…と報らせに来た。その時点で、同様の相談内容の聴取書類は二十を超えていた。まだ正午にも満たない刻限に、通常の探偵社の一週間分の依頼件数を上回っていたのだ。

「抑も一般の客向きには看板すら出していない我々の事務所を訪ねて来ることがおかしいのだよ。時に敦君、昨日の開港祭には行ったかい?」
「へ? あ、はい、鏡花ちゃんと行ってきました。美味しい屋体が沢山出てて…最後の花火もすごく喜んでましたけど…」
「今日の依頼人は、全員その花火を恋人と見ていた最中に、何者かにいきなりぶつかられ、軽い眩暈を覚えたと言っている。そしてその直後、無性に今隣にいる恋人以外の、他の相手を試したくなったと」
「試す…えと、太宰さん、試すっていうのは」
「昨夜は鶴屋町のラブホテルはどこも満室だったそうだよ~?」

敦は私の言葉に顔を赤くして狼狽え、手に持っていた聴取書の一枚をぐしゃっと握りつぶした。

「昨夜、開港祭のフィナーレで行われた花火大会の会場に何らかの異能力者が現れた可能性が高い。恐らく精神操作系の異能、触れた対象の恋愛感情に干渉する――というところかな? 被害者が翌朝には正気に戻っていることを考えると、浮気相手と一発ヤれば解ける異能のようだね。後には粉々に砕けた本来のパートナーとの信頼関係を修復するという難題が残るわけだけど」

途中から敦と私の会話を聞いていた国木田がイッパツ云々の発言で「太宰!」と声を張り上げた。敦君ならともかく、いい歳した男が純情にも程がある。

「その後に残された難題の方で、どうやらこの国のお偉いさんがお困りなのだろうねえ。この件についての相談は武装探偵社に回すようにと警察も他所の探偵社も言い含められているのだろう。要はお前たちで解決しろと押し付けられたわけだ」
「解決しろと言ったって…犯人を捕まえようにも皆さん自分がした浮気の話ばかりで、その異能力者の容姿を誰も覚えていないんです。手がかり無しですよ」
「――そういうわけです、乱歩さん」

ここまでの敦との会話は全て、ソファの上から動こうとしない乱歩に聞かせるためにしていたことだった。まぁそのくらい、彼ならば疾うに見抜いているのだろうが。

「気が進まない」
「私もです。しかしこの犯行が繰り返される限り、連日こうして昼寝を邪魔され接客応対に駆り出されるのかと思うと、そちらの方が堪え難い。それに、警察がより上層組織から動かされている以上、この案件が片付かないうちは稀代の名探偵に相応しい事件も他所へ回されてしまうでしょうね」

ぴくり、と乱歩の肩が動き、数秒そのまま見守っていると、はあああああああ~~~~とでかい溜息を吐いて漸く身を起こした。上衣の内ポケットから御馴染みの黒縁眼鏡を取り出すと、掛けた直ぐさま語り出す。

「その異能力者なら、もう捕まっているよ」

えっ!? と声をあげたのは敦だ。

「逮捕されているなら、解決済みってことですか」
「いいや、捕えたのは警察じゃあない。ポートマフィアだ」

今度は私が溜息を吐く番だった。そんなことではないかと思っていたが、予想的中。最悪だ。

「太宰の言う通り、犯人の異能は触れた対象の精神に干渉するものだ。但しその矛先は恋愛感情に限定されない。これは、掛けられた人物の持つ価値観を変容させ、それまで執着していた対象を代替可能な存在だと錯覚させる能力だ。実に地味な異能力だよ。けれど、使い方によっては人間同士の信頼関係を破壊し、組織の屋台骨を揺るがすことも可能になる。少なくとも能力者本人は――自分の異能に自信があったんだろう」

だから態と開港祭のフィナーレ会場という目立つ舞台を選び、実行した。自分の能力を正当に評価してくれる組織からのスカウトを受けるために。

「ポートマフィアの一員になりたくて、こんなことをしたって言うんですか?」
「大勢の人間が集まる場所で、無差別に被害を出すパフォーマンス。求婚先として政府関係は有り得ない。非合法組織に気に入られようとやったことだよ」

酷い…と呟いて敦は唇を噛み締めた。

「…まぁでも、あちらさんが檻に入れてくれているというなら良いじゃない。昨日被害に遭った人たちには、それは異能力の影響だったと説明して、なんならそうと証明する書類の一枚でも書いてやって、警察には、犯人はポートマフィアの構成員だと言う。それで終わりだよ。犯人も森さんの管理下では今回のような一般市民を標的にした事件は起こしにくくなるだろうしね」
「えっ、犯人を警察に引き渡さなくていいんですか?」

驚いた敦の問いに対し、必要ないよ、と私の代わりに乱歩が答えた。

「探偵社が今回要求されているのは犯人の捕縛ではなく事態の鎮静化だ。つまりこの状況…被害者が無実を訴えてとある調査機関に殺到し、調査の結果彼らは特異な能力で操られていたと分かった、犯人の居場所も突き止めたがそこは恐ろしいマフィアの拠点であり、とても手が出せない…という状況を作ってあげるところまででいいのさ。彼らは浮気の釈明をしたいだけなんだから」
「ええ…そんな、警察より上の立場の人がそんなことでいいんでしょうか」
「だから大っぴらに依頼するわけにもいかず、こうして被害者を次々寄越して強引に働かせようというわけだよ。ああ面倒臭い、国木田くーん、私、今回は特別褒賞を貰ってもいいんじゃないかと思うのだけど」

怠そうに手首を振ってそうぼやいた私に、国木田は珍しく「そうだな、後で社長に掛け合おう」と賛同を示した。依頼者の中には、急に芽生えた浮気心と抗いながらここまでやって来た者や、哀れにも一夜の相手を見つけられず悶々と苦悩している者など、自分でこの異能を解除できないままの者もいる。犯人である異能力者に触れて異能無効化できるならそれが一番早いのだが、そうしないのなら異能に掛けられた被害者に一人一人触れていかなければならない。午前中だけで二十余人、これから何人来るのだろう。ああ死にたい。

「全員、ヤることヤッてから相談に来てくれたら私が働かなくて済むのだけれど」
「太宰、貴様…未遂の相談者にはそんなこと絶対に言うんじゃないぞ。異能に抗う貞淑さに敬意を示せ」

国木田からのお叱りにはいはい、と肩をすくめて、出番が来るまでゲームでもして遊んでいようとデスクに座った。すると、だざーい、と乱歩がソファから動かないまま私を呼ぶ。話せない距離でもない。私はその場を離れずに、何ですか乱歩さん、と返事した。

「一般の被害者は君の異能無効化で助けて貰えるが、ポートマフィア側に被害者がいたら、可哀想だねえ」
「…ふふ、現状協調路線とはいえ、敵対組織の心配までしてあげるほど私は優しい人間ではないですよ。向こうは異能力者の身柄を押さえてる。困った時にはそいつを始末して異能を解除するでしょう」
「君が今ハッキングしている市街の監視カメラ映像によると、例の素敵帽子君が直々に拳でスカウトしてくれたみたいだね。一年に一度の開港祭を邪魔されたのはこの街を愛するポートマフィアとしては不愉快だったのだろう。活躍の機会を得ることなく処刑かな」
「…私だったらそうしますね」

力にのぼせ上がった馬鹿は駒として使えない。戦場で必ず作戦の綻びになる。

「そうかい。ポートマフィアの被害者諸君が太宰を頼るわけにもいかず浮気トラブルですったもんだするのを見られないのは残念だね。さて事件は解決だ。敦ー、ちょっとアイス買ってきて」
「僕ですか!? ええ勘弁してくださいよ、まだこれからこの件の依頼者が相談に来る予定で」
「……私が行ってこよう、敦君」

きょと、とした目で私を見上げた後、「太宰さんが自ら進んで乱歩さんのパシ…使いに出るなんて!?」と敦が驚愕の声を上げ、それを聞いた国木田が「さては貴様サボるつもりだろう」と睨んでくる。

「行かせてやりなよ、国木田」
「乱歩さん、しかし」
「太宰の出番はこの異能の無効化だ。依頼者から君たちが一通り話を聞いて、浮気未遂の被害者がいたらその人物だけを集めて、それから太宰を動かした方が効率的だろ」

パピコのバナナキャラメル味ね、とオーダーを出した乱歩に分かりましたと後ろ姿で手を振って、私は順番待ちの依頼者が立ちんぼで並んでいる探偵社の廊下を後にした。


 

既視感を覚える部屋だ。ポートマフィアの表向きの顔であるモリ・コーポレーションの本社ビル、その地下階にある資料室の壁の裏に隠された書庫に足を踏み入れたら、どうにも陰鬱な感傷に一刻呑まれそうになった。似ているだけで、ここは安吾の居たあの会計事務所の隠し部屋ではないというのに。
窓のないその部屋は薄暗く、壁一面に書棚が並び、中央にはマホガニーの机。年代物の小振りなシャンデリアがそこに座る者の手元だけをぼんやりと照らしていた。

「……守衛か。いつもの管理人のジイさんはどうした。ケチの付いた会計事務所を畳んでこっちに配置換えされたと聞いたんだがな」
「彼は休暇中です。珍しいですね、中原幹部」
「ああ、ちょっとな。調べ物だ」

よろしければ何かお手伝い致しましょうか、と目深に被った守衛帽の隙間から声を掛けると、その男はこちらに目をやることなくただ口元を一瞬くっと歪めたように見えた。

「馬ぁ鹿、書庫付きの雇われ警備員に頼める仕事なんてねぇよ。手前がここに保管されている書類の一枚、一文字でも読んじまったらな、その首が吹っ飛ぶぜ。文字通りの意味でな」
「ああ、それはどうかご勘弁を。あまりにここでの仕事が退屈なものですから」
「…なんだ、話し相手が欲しいのか? だからジイさんに任しときゃいいっつうのに。手前みてえな若造には向かねえ職場だよ」

俺だったらこんな辛気臭え職場、三日で発狂しちまうな、と言って、男は黒の革手袋の先で弄んでいたファイルをふわりと宙に浮かせ、書棚の空白に戻した。

「不精しますねぇ」

言っていただければ自分が――と声をかけて椅子に凭れかかる男の肩に手を伸ばそうとした寸前、それを読んでいたように「おっと、触るんじゃねえよ。ちょいと怪我をしてるんでな」と制止された。

「なってやるよ、話し相手。どうせ明日の処刑の時刻まで俺はこの部屋に居座るつもりで来たんだからな」
「…処刑、それは昨晩幹部殿が捕らえた異能力者のことですか?」
「よく知ってるじゃねえか。守衛というより探偵みてえだなぁ? 野次馬は早死にするぜ、覚えときな」

はい、と素直に頭を下げると、クク、と機嫌を良くして男はくるりと椅子を回し、私が本当の警備員から奪って着替えた水色のワイシャツの安ネクタイをくいと引っ張った。

「あの野郎の異能なぁ、本人は大層ご自慢の様子だったが、うちの首領を酷く不愉快にしてくれたよ。何故だか分かるか?」
「…さぁ、私のような一介の警備員に首領のお考えは量りかねます」
「浮気なんてもんは、代わりになる奴が世界のどこかにはいるっつう前提があるから出来ることなんだよ。首領の大切なもんは首領本人にしか呼び出せない唯一無二のもんだ。粗末な異能でそこんとこの価値観をいじくられても、当ての無い喪失感があるだけ。とても使えたもんじゃねえ」

でもな、と言葉を続けて、男は私のネクタイから指を外し、いつもトレードマークのように被っている帽子をそっと机に置いた。ゆるやかに流れる前髪が睫毛に掛かる。

「俺はこの異能を割と気に入ってんだ。明朝にはあいつが死んで解けちまうのが少し惜しいぜ。なんせ――手前と話しててこんなに落ち着いた気持ちでいられるのは、出会ってから今まで、一度もなかったことだからな」

なぁ、太宰? と確かに一度も彼の口から聞いたことのないような穏やかな声で名を呼ばれた。自ら守衛帽を脱ぐと、変装のために押し込めていた髪が両の耳朶をくすぐる。

「なんだ、気づいていたの」
「よく言うぜ。酷え手抜きの変装しやがって、俺が気づいてると知ってて小芝居に付き合わせやがった癖に」
「中也なら騙されるかなーと思ったのだけれど。それで? どういう風の吹き回しでこんな所でお勉強に勤しんでいるの?」
「質問すんのはこっちだろうが侵入者。お帰りの際に蜂の巣にされても文句は言えねえぞ。いったい何の用向きだよ、言っとくがなあ、野郎の身柄引き渡せっつうなら無理な相談だぜ」
「要らないよあんな木偶の坊。処刑は明朝と言ったね、それは決定事項?」
「…ああ。首領の気が変わらなければな」

そう、と返した私の顔をにやにやと見つめて、中也はどうした今日の手前は随分と余裕がねえんだなと軽口を叩いた。
君の方こそ、今日は随分と余裕があるのだね。私の姿を見るや瞳に激情の炎を燃やして殴りかかってくるのが常の君が。
そんな私の満たされぬ心中と裏腹に、中也の二つの青い目はまるで真昼の海のように穏やかに揺れ、その奥に私を閉じ込めている。

「……異能力ってのは凄えもんだな。なんて、俺が言ったら冗句になるか? いつもの俺なら、手前の名を耳にしただけでかっと頭に血がのぼって、足の爪先がそわそわして暴れ出しちまう。いつぞやはそれで手前んとこの名探偵の安い挑発にも乗っちまった。これが欠点だって自覚はあったが、だからと言って――反省して直せるようなもんでもねえ」

中也は椅子から立ち上がり、光沢のある執務机の上に行儀悪く腰掛けた。先程までは彼の手元を照らしていた室内灯が、赤銅色の髪と、その隙間になまめかしく光る白い肌を浮かび上がらせている。

「……まるで今は、その欠点を克服したというような口振りじゃないか」
「ああ、そうだ。こうして手前と仲良くおしゃべりできてることが何よりの証拠だろ。野郎の異能に掛かって、その特性についても軽く説明を受けたが、正直悪くねぇ気分なんでな、あいつを処刑するもしねえも、俺は首領の判断に従うつもりだ。もし組織があいつを起用するんなら、このまま『取るに足らない手前』の代わりを探して彷徨うのも面白え」
「成程ね。それでこんな所に潜って、異能力者のリストを漁っていたわけ」
「ああ、生憎と手前のあのクソ忌々しい能力の持ち主は欧州まで飛んだって見つからねえみてえだけどな」
「馬鹿じゃないの。そんなのわざわざ調べなくても分かり切ってることじゃない。中也、君の異能力の暴走を止めるには――私がいないと駄目でしょう?」
「ふん…ああ、俺は本当に、いま頭ん中の大事なところをいじくられてんだなァ。手前のその自惚れた台詞に腹も立たねえ。今なら寺に出家も出来そうだぜ」

どうでもいいんだよ手前のことなんか。何しに来たんだか知らねえが、興味もねえ。見逃してやるから、さっさと消えろ。
そう言って彼が首のチョーカーに指をかけた時、咄嗟に体が動いて、彼の座る机の上にばんと手を置いていた。その行動がもたらした苛立ち紛れの乱暴な音が、狭く薄暗い室内に反響し、私は舌打ちを一つして、制服と一緒に拝借してきた邪魔な白手袋を脱ぎ捨てる。

「言われなくても、用事ならすぐに済ませてあげるよ」
「……おいおい、手前こそ不精してんじゃねえよ。俺をがっかりさせるな、守衛さんよ」

他にいい方法があんだろうが、なあ?
ぱたん、と机の上に無防備に背を付けて、彼は胸元から煙草を探す仕草をした後に、ああくそ、昨日無くしちまったと嘆息した。

「あーあ、どこかに居ないもんかね。あいつみたいな顔で、あいつみたいな声で、あいつみたいに下らねえ悪戯を仕掛けやがる――ついでに異能無効化の能力もあったりしたら最高だぜ。なあ、おい、手前そんな奴に心当たりはあるか?」

ぽかん、と一瞬表情を作ることも忘れてしまって、それを見上げていた中也がなんだァそのツラはと笑う。
ああ、ああ、この部屋は窓もないものだから、暑い。喉元を獣に食い千切られたかのようにせり上がってくる熱情に、急いて自らの首のネクタイをほどいても、まるで体温の下がる気配はなかった。
明日の処刑の時刻まで、ここに居座るつもりだとこの男は言った。昨夜の捕り物で無くした煙草を買い直すことさえしないで、恐らくは自分が異能に掛けられたと知ったその足でそのままこの部屋に来たのだ。自分自身を、この地下の密室に閉じ込めるために。

(太宰、異能に抗う貞淑さに敬意を示せ)

「はぁ…国木田君の説教は後で効いてくる…」
「あぁ? 何だって?」
「何でもないよ。…ねぇ、幹部さん。私でよければ浮気相手になってあげてもいいよ。実は私、異能力を触れることで無効化することができるんだ」

若者が街角でナンパするような気安い口調でおどけてみせると、へぇ、そりゃあすげえなと中也も笑って返す。

「でも、君のお相手…あんないい男の代わりが務まるかしら。些か自信が無いよ」

机の上に寝たままの彼の身体に覆い被さり、その頬に手を添えて唇を合わせた。離して、また角度を変えて口付けることを繰り返しているうちに、互いの吐息は熱くなり、中也の頬はみるみる上気していく。その目の中の海が欲を孕んでじわじわと滲んでゆく。中也の中にあった私への執着が、代替を拒む激情が、再び還ってくる様を目の当たりにしていた。

「はっ…はは、あいつの代わりが務まるかって? 気にすんなよ、期待してねえから」

そのダッセェ制服は役不足だが、我慢してやるよ、と上擦った声で言って、私の腰に巻かれたベルトのバックルをつぅと指でなぞる。

「…そんなに煽っていいの? 地下とはいえ、ここ君のカイシャでしょ。言っておくけど、大きい声出しても途中でやめてあげないからね」

自分自身も興奮で掠れた声で、言葉だけでもそう見せたつもりの余裕は、それに対する彼の言葉によってあっさりと剥ぎ取られた。

「いいんだよ。手前が来ると思って、俺が管理人に休暇を取らせたんだからな」
「……もう、ほんと中也の全てが嫌い」

奇遇だな、俺も今そう思っていたところだ。
中也の手が汗ばんだ私の髪をくしゃりと撫でた。なぜか泣きそうな気分になって、ふと、かの異能の被害を私も受けていたら、そんなことは無効化を持つ私には起こり得ないのだが、もしそうであったなら、私は誰の所へ行っただろうかと考えた。
きっと、私も当ての無い喪失感を抱えて彷徨うのだろう。他の誰かでそれを埋められるのなら、初めからこんな所まで来はしない。
ほら今も、こうして私が碌でもないことを考え始めると、その身体を差し出してまでぐずぐずにあやそうとする。

いないと駄目なのは、私も同じか。

 

2023年3月4日

敵は消滅した。もう休め中也。
視界をみるみる塗りつぶしてゆく暗闇の中にあって、その声は頭の中に直接響く。らしくなく真面目で優しい声音。汚濁状態の俺に丸腰で近寄ってあっさりと取られる腕。
変わらねえな、と考えていたことが口から出てしまい舌打ちする。幹部である自分専用の執務室で今の独り言を聞いたのは自分しかいないが、己に対してですらばつが悪い。迂闊な口を塞ぐようにしてシガレットケースから一本取り出し、火を点けた。

…四年。四年会っていなかった。最初の二年はあまりに音沙汰が無いもんで、ひょっとするとひょっとしたかと思ったりもしたが、その度いやそれはねぇか彼奴に限ってと打ち消していた。三年目になって武装探偵社に在籍しているという情報が野郎の写真付きで飛び込んできたときは、裏切り者の分際で整形どころか偽名を使う可愛げすらないふてぶてしさに、ああ間違いなくあの野郎だと思いながら、同時によりにもよってそこを選んだかという失望で胸がちりちりと焦げ付いた。
首領は太宰の処遇について何も言わなかった。であれば俺が殺しに行ってやる道理もねえ。歴代最年少で五大幹部に昇格した後も顔を合わせれば飽きずに「殺してよ中也ァ」とウザ絡みしてきた筋金入りの自殺願望が、生温い昼の世界でますます死に場を失い彷徨うことを想えばいい気味だ。俺はそう考えるようにした。
ああ、でも。

「今の私は美女と心中が夢なので君に蹴り殺されても毛ほども嬉しくない。悪いね」

なんかそんなこと言ってやがったな。ここの地下で再会したときに。
そこは変わったのか。痛くない、苦しくない、一瞬で終わる、その条件を満たした死に方なら何でもいいようなことを言ってやがったくせに、美女と心中?

「美女……女ねぇ」

そういえば、昔泣かした女全員に今の住所を教えると脅したら、珍しく本気で厭そうにしていたな。
彼奴が俺の嫌がらせに「やめて」なんて言うことは滅多にない。我ながらなかなかいい線いってるアイディアだったわけだ。拠点まで送り届けろと言ったのに俺を放置して帰りやがった一件もあるし、そうと分かればさっさと女の恨み節の詰め合わせをあの野暮ったいアパートに送りつけてやるとしよう。
俺は記憶の中からかつて太宰に追い縋って泣いていた可哀想な女たちの姿を引っ張り出し、そのうちの一人、ポートマフィアに今も在籍している女の名前を思い出すと、執務室の外で待機している自分の部下に、その女をすぐ連れてくるよう命令した。

* * *

贔屓にしているワインバーで一杯引っかけた帰り道、冷たい石畳を踏む靴音が弾んでいる。気分が良かった。
首領の指示とはいえ、四年越しに太宰のポンツクと共闘する羽目になったあの夜から、どうも締まらねえ気分だった。
相棒が何も言わずに組織から消えた夜、俺がどんな思いでいたのか、俺自身へのけじめの心算で言葉にした。だがあの糞鯖ときたらどうだ、「私『も』記念に中也の車を爆破した」などと言う。間合いも呼吸も俺の本気の度合いも把握していると言い、大昔の作戦暗号をさらりと口にし、あの頃を想起させるような会話を選んで仕掛けやがる。あれがわざとでないわけがない。俺を置いて行ったことに対する自責のひとかけらもありゃしねえ。ちっとは痛い目を見ればいいのだ。

「ご機嫌だねぇ、ちびっこマフィア」
「…よぉ、こんな夜更けまで残業か? 新米探偵」

街灯のない裏路地、俺の行き先を塞ぐようにして太宰が立っていた。古いバーの看板の電飾がじじじっと誘蛾灯のような音を立てて明滅し、蒼白い太宰の頬を闇に浮かび上がらせている。

「彼女を寄越したのは君だろう。まったく…中也は私が本当に厭がることはしないと思っていたのに、がっかりだ」
「何だそりゃ? 随分イイコだと思われたもんだ。手前のいない四年の間に、俺は悪い子になったんだよ」
「…へぇ」

返答に僅かの間があった。それも中身のないつまらねえ相槌。なんだこいつ珍しい、動揺しやがったと、思わず目を見張りそうになった顔を気取られないようにふいと逸らした。

「…まぁそう怒んなよ。人選はしてやったつもりだぜ? 今の手前の暮らしぶりを見たら、百年の恋も冷めただろ。肩書きに惚れる女だったからな」

そしてわざと口数を多くする。まるでそこに気まずい何かがあるように。

「ああ、そのようだ。今の本命もとあるポートマフィア幹部殿で、その彼の直々の命令ということで張り切って私を罵倒しに来たそうだよ。一途な女性だったのだけどねぇ、残念だ」
「ざまあみろ女の敵め、女ってのはな、思い出を上書きする生き物なんだよ」
「ふーん、じゃあ男は?」
「あ? 手前も男だろうが」
「私がいない間に、誰かで上書きした?」

能面を貼り付けたような薄気味悪い笑顔で俺を見る男。そうか、こいつ。組織を抜けてから暫くは地下にでも潜っていたか。だから知らないのだ。実際、一途な奴が惚れた対象を失えば、どれほど地味な暮らしに身をやつすかということを。

「こう見えて忙しい立場でなァ、『ここ二年は』ご無沙汰だ」

すっ…と急誂えの笑顔すら消え、奴の両目の中に懐かしい色が戻って来る。沈殿する夜の色だ。

「……もういい。云わなくていい」
「云わないでください、聞きたくない、だろ?」

ああ、いい気味だ。
だが、残念ながらこの一度しか使えない手だな。太宰の不在にオレが如何していたかなんて、こいつが調べりゃすぐに分かることだ。
一度太宰が知りたいと思えば、もうそれはたちどころに調べ尽くされてしまう。かつて自分自身がその手によって隙間なく暴かれたように。

「あのね中也、困るのだよ」

太宰は熱の篭った溜息を落とすと、俺の手首をぐいと掴んで引き寄せた。密談をするような距離で見上げた太宰の顔は、かつて「君は僕の犬だろ」と喚いた餓鬼の顔と変わらない。

「…なにが困るって?」
「今の私は、そうおいそれと人を殺せないんだ」

言うに事欠いてそれか。俺は堪え切れずにクッと笑いをこぼし、奴の足の間に絡まるようにして距離を奪って、いつ見ても癪にさわるループタイを引っ張って口付けた。

「…なぁ探偵。調べ物なら、直接尋問するって手もあるぜ」

太宰が目を細め、俺の腰を引き寄せる。俺からの洒落た口付けが、すっかり機嫌を悪くした男の舌によって野蛮に上書きされてゆく。
本当に手前変わらねぇな、と口に出して言うことは許されなかった。

息するように嘘つきやがって。